「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

和賀岩崎の陣・五

2010-03-05 18:58:22 | 歴史・民俗

 花巻鳥谷崎城を落城寸前まで追い詰めながら、遂に奪還できなかった和賀忠親率いる和賀一揆勢は、二子城を経て、和賀岩崎城へ兵を移動させて籠城の構えをとる。

 和賀岩崎城は、和賀川と夏油川が合流する地点の南側に位置する丘陵に築かれた和賀郡内では二子城(飛勢城)に次ぐ規模の堅城でもあり、何よりも伊達境に近く、後詰の伊達勢の後援が受けやすい位置付けでもあった。

 続々と伊達家から城内に支援物資等が運び込まれたと想像ができ、城内は士気も旺盛だったと伝えられている。

 籠城する和賀勢は、和賀忠親を大将に和賀、稗貫の旧臣約480名、伊達政宗から派遣された大崎、葛西の浪人衆、さらに郡内の百姓等、総勢約1800名(1500ともいわれる)とされている。

 

 一方、和賀、稗貫領内での異変、一揆を知った南部利直は、参陣中の最上山形の最上義光を介して徳川家康に一揆鎮圧の嘆願して、直ちに少数の部隊を残しただけで、ほぼ全軍をあげて最上山形より南部領内へ軍勢を引き揚げさせている。

 慶長5年(1600)10月3日ともいわれるが、10月8日には南部利直は一旦、本拠地の三戸へ戻り、領内の諸将に岩崎一揆鎮圧の軍令を発して、10月13日には稗貫郡内に至って、和賀方の根子氏、八重畑氏を掃討して花巻近在に陣を敷いた後、数日を要して岩崎城に向けて南部勢約5千名が進軍し、10月18日には三月田(江釣子)に陣を構え、10月23日に岩崎城支城の兵庫館を攻めて占領、南側からの伊達勢による支援を遮断する意図の他に岩崎城攻撃の拠点とするべく、夏油川沿いの高台に位置する七折に前線基地たる陣を構築する。

 直ちに南部利直は岩崎城総攻撃を下知するも、一揆籠城軍の防備は固く、頑強な抵抗に遭い、その一角を崩すこともできず、降雪の季節を迎えてしまい、旧暦11月16日(新暦では12月21日?)やむなく雪解けを待ってからの再攻撃を下命して、浄法寺修理、南右馬之助を包囲軍の将に残して南部勢は一時撤退するに至る。

 

 余談ではあるが、2千名近い兵が冬季の岩崎城に籠ること、和賀郡内では屈指の規模を誇る城館であっても、将兵全員を収容できる建物が数多くあっただろうか?また雪深く厳寒な地、暖をとるには薪類が全てで、しかも四六時中、暖をとるための火は必要で、雪解けまでの約5ヵ月間、豊富な兵糧やら物資があっても、持たなかったのではないのか?といささか疑問でもあった。

 小原藤次氏 著「没落、奥州和賀一族」では、小生の疑問と同じような記述があり、全兵収容しての厳冬期の収容は不可能との見解が示され、南部勢の包囲もそれほど厳重ではなく、その目を盗んで一揆勢の中には、かつて見知った郡内の知人や遠戚を頼って城内より出ていたのではないのか・・・と考察されている。

 そして春先に決戦に備えて順次城へ入っていたのではないのか・・・と記されている。

 

 

 

 

 慶長6年(1601)3月、雪解けを待って南部利直は総勢4千7百といわれる南部勢を率いて、再度和賀郡岩崎城攻撃に進発する。

 3月17日、三方を囲んだ南部勢は総攻撃を開始する。

 

 一方、伊達勢は、岩崎城支援の後詰の拠点を水沢城(奥州市水沢区)に定めていた。

 伊達政宗の命令の下、水沢城主である白石宗直が指揮権を以てその後詰にあたっており、白石宗直は伊達家重臣中の重臣であり、後に最上位の一門第5席の家柄となり、登米伊達家2万石の祖である。

 

 さて、南部勢に包囲された岩崎城であるが、当初は南部勢の攻撃をよく凌いでいるも、数任せで連日攻撃を続ける南部勢の前に日に日に籠城の一揆勢も消耗が激しくなり、しかも兵糧等も乏しくなりはじめる。

 岩崎城救援のため、白石宗直率いる伊達勢が六原野及び相去(北上市)の谷地小屋地区に進出し、白石配下の鈴木将監、浜田三郎衛門が率いる伊達勢数百が4月4日、密かに岩崎城に物資搬入を試みるため夏油川を渡河して南部領に侵入したが、この動きは事前に南部利直の知るところで、迎撃部隊長に大光寺正親、副将に中野吉兵衛の精鋭部隊が伊達勢に攻撃を加えた。

 一連の和賀一揆での戦いで、南部方と伊達方の局地的な小さな戦いはあったが、この岩崎城近くの夏油川の戦いは、南部利直率いる南部正規軍と伊達家家臣とはいえ、伊達家重臣が率いた列記とした伊達勢が本格的に戦闘を行ったもので、伊達方の鈴木将監が討ち取られ、伊達支援隊は散々に敗れて壊滅し、憤りを隠せない白石宗直は母帯越中に7百の精兵を引率させて南部利直本陣に奇襲を敢行するも、これも事前にその動きを察しられ、逆に南部勢に包囲され、こちらも壊滅的な打撃を受けて敗退する。

 これにより伊達勢は岩崎城支援を諦め伊達領内に撤退となり、孤立無援となった岩崎城籠城の和賀一揆勢は、日増しに兵員が減り、遂に4月26日夜、火攻めによって岩崎城は落城する。

 和賀忠親と主な将は、岩崎城から脱出、伊達政宗を頼って伊達領に逃げのびるも、既に徳川家康からは南部家と伊達家の私闘という承認があったかどうかは不明であるが、いずれ後詰であっても明らかに和賀一揆勢への支援は事実であり、伊達政宗は和賀忠親を庇うことなく南部領での一揆首謀者として葬り去っている。(自刃説が一般的だが殺害された可能性が大と思われる)

 水沢城主の白石氏は間もなく登米に移封されたが、母帯越中は一揆の後援主謀の罪を一身に浴びて詰腹を切らされたものと思われる。

 

 

参考図書

北上市史2・3(南部根元記・・聞老遺事・奥南盛風記)、奥南旧指録(南部叢書)

没落奥州和賀一族(小原藤次 著)、東和町史、大迫町史、遠野市史1・・・他

コメント (6)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 和賀岩崎の陣・四 | トップ | 初大師・2010 »
最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 (深円)
2010-03-06 19:45:39
図が良いですねえ。
文章だけの説明に終わらず、きちんと図を書いているところが好感持てます。

確かに、岩崎城内での越冬は仰る通り、ちょっと難しいと思います。

もしかすると、まだ少し牧歌的なところがあって、冬の間は暗黙的に家に帰るということがあったかもしれませんね。

浄法寺氏が勝手に引き上げて取りつぶしにあったのも、実は悪気はまったくなかったのかもしれません。浄法寺氏にしてみれば、「何で?」という話だったかもしれません。
返信する
まとまりが・・・ (とらねこ)
2010-03-06 20:11:11
深円さん
ちょっと考察不足やら資料図書の内容把握ができずに記した思いもあって恥ずかしい限りです。
まあ、ブログ的な簡易な読物的にはこんなものかもしれません・・・汗

東北の冬は厳しく、それこそ24時間も火を燃やし続けなければ、とても越冬はできないと思いますから、やはり案外、城外に兵達は出たり入ったりしていたかもしれません。
休戦中は敵方に対して少しは寛容だったかもしれませんね。
浄法寺氏のことも、おそらく春になれば武士らしく決戦するのだから、引き上げても良いと思ったかもしれませんね。
返信する
岩崎の乱余筆 (残さん)
2010-03-07 19:32:29
和賀氏の子孫は伊達家で保護。一の蔵で有名な松山町にその屋敷と墓が残っております。
それからもうひとつ忘れてならないのは伊達兵部宗勝。伊達騒動で悪役を演じるこの方の母親はなんと和賀一族の毒沢伊賀。一関の大名になったり本家を壟断しようと画策?する大胆不敵さで逆に有名になってしまいました。
返信する
樅の木は残った (とらねこ)
2010-03-07 20:40:34
残さん
松山での和賀氏の足跡、こちらも記述しようかと迷いましたが、こちらはまた別の機会があったらと考えてました。
伊達兵部の母親は東和町の毒沢伊賀ですか・・・これも興味を覚えます。
イマイチみの方面は不勉強ですが、今後取り組んでまいりたいと思います。
ご教授ありがとうございます。
返信する
僭越ながら (阿久道)
2010-03-07 23:37:57
御多忙の中、「和賀一揆」大作に敬意を表します。
和賀氏側、南部側、伊達側、等、立場の違いで見方が色々あるようで、、、、
・忠親は、義治の子か、義忠の子か、「和賀家譜伝」では、義治の子としている。

・和賀氏の祖は、源頼朝が伊豆に流された時の落胤、春若丸(忠頼)の説。

・兵部宗勝の母は、残さん、の記の通り、毒沢伊賀守吉弘の子、勝吉(多田作十郎)が政宗に仕え、娘が政宗の側室。
・「和賀の陣」に遠野から、九名の将が和賀氏側に名を連ねているんですねェ~。
・和賀四天の一人、小原氏。遠野の小原氏(両川覚兵衛)との関連は?等 阿久道の妄想が膨らみます(笑)
返信する
外伝 (とらねこ)
2010-03-08 07:05:47
阿久道さん
ご教授痛み入ります。

遠野から岩崎一揆加勢、このことは外伝として次回掲載の予定ですが、まだまだ考察もできず、ただ記するのみとなりそうです。
このことは是非にエントリーしましたら、さらにご教授やらご見解をいただければありがたいです。
よろしくお願いします。
返信する

コメントを投稿

歴史・民俗」カテゴリの最新記事