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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

笠揃え2012・駒木鹿子踊

2012-09-14 18:48:01 | 歴史・民俗

 いよいよ遠野の秋祭りの本番を迎えてますが、季節は秋というのに、まだまだ日中は残暑が厳しい日々が続いております。

 

そんな中、まずは遠野郷八幡宮の例大祭ということで(9/14・15)、「役じし」として参加する地元、駒木鹿子踊の笠揃えが13日晩に例年通り行われましたので、ワタス自身は3年ぶりとなりますが、顔を出して参りました。

 

 

今年は八幡宮から「役じし」として鹿子の幕2枚と幟1枚をいただいたということで、そのお披露目も兼ねてのこととか・・・。

 (八幡宮祭典以外のお披露目では元祖角助の幟をいつもどおり掲げます。)

 

 

郷社である遠野郷八幡宮のお祭りは駒木鹿子にとっては最高の披露の場で主たる奉納の場でもあって、遠野まつりとなっても八幡宮の祭典へは欠かさず参加し、踊りを奉納しております。

 

 

地域の方々も三々五々集まって来て、いよいよ笠揃え・・・踊りの仕上がりをご披露。

 

 

 

 

 

 

郷土芸能の伝承は、地域に暮らす人々との交流には欠かせない内容が介在し、伝統文化を通じて・・・ここでは遠野郷しし踊駒木鹿子踊を通じて地域の連帯や親睦も含み人づくりにも寄与していると確信しております。

まっ、調子の良いことを言うワタスは、ほとんど関わってはおりませんが、それでも少しは、やられている方々に敬意を表するものでもありますし、今後も伝承されていくことを大いに期待し、また協力して参りたいと思っております。

 

 

小さめの投光器3器、やはり暗かったですね。

ISO4000-8000で撮影するもシャッタースピートが上がらずブレ画像多し・・・汗

動きも加わってさらに失敗・・・

 

ようやく見栄えが少し良いのを選んで掲載いたしました・・・

 

 

八幡様のお祭り(15日)と遠野祭り初日が重なり、ワタスは某神輿団体に参加することに・・・

 

流鏑馬撮りたかったよう~・・・  

緑の中の境内での郷土芸能撮りたかったよう~・・・特に「山口さんさ」・・・

 

とにかく残念・・・

 

 

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遠野陣場

2012-04-20 19:28:43 | 歴史・民俗

  天正の頃(天正年間1573-1592)、時の遠野領主は阿曽沼広郷(あそぬまひろさと)と伝えられ「阿曽沼家乗」に「葛西の族江刺重恒(えさししげつね)、政を失して境内擾乱(じょうらん)す。広郷、弊に乗じて岩谷堂城を攻む。克(か)たずして還る」

  

玉里、米里方面・・・遠くの山々の向こうは遠野

 

 言い伝えによれば、当時の江刺岩谷堂城主は江刺重恒とされ、重恒は放蕩無頼で民心を失い、江刺郡内の配下の多くが離反し、その離反者の中のある者が阿曽沼広郷に合力を求めてきたとされる。

 遠野郷領主であった阿曽沼広郷は武勇の誉れ高く、遠野郷内の半独立的な小領主達を屈服させ、遠野に本格的な専制君主時代を到来させた領主と伝えられており、この機に葛西領侵略の好機と捉えて要請に応じて、五輪峠を越えて遠野勢を率いて葛西領江刺郡内に侵入し、岩谷堂城の攻撃にあたった。

 ところが、政を失し配下の多くも離反したはずの江刺重恒の軍勢は、遠野勢や郡内で遠野勢に加勢した土豪の手勢の攻撃を良く防ぎ、逆に攻勢に転じてかえってこれを破る勢いで、遠征の遠野勢は孤立無援の苦境となり、ついに撤退するに至ったのである。

 この時に遠野勢が陣を敷いた場所が今に伝えられる「遠野陣場」と称されている。

 地元では遠野陣場(とおのじんば)・・・「とのずば」と呼ばれる場所があるとのことですが、当ブログでも過去に江刺探訪編で遠野陣場跡を簡略的ですが紹介した経緯があり、その過去エントリーに最近、地元の方だと思われますが、遠野陣場跡に関するコメントがあって、今回、再訪したというところです。

 前回含み、今回も具体的な場所については判らなかったが結果となりますが、雰囲気は掴んだ?的で良しとしたいと思います。

 

北東側から

 

情報によると舘下ニュータウン近くで江刺工業団地入口近く、またかつては寺があったとされる場所近く・・・とのこと・・・。

 

 

岩谷堂城跡近辺の地図を確認しながら、主に北側の五道ヶ辻~南側に少し下っての墓地近くの十字路方面を主に探索しました。

 

東側から

 

十字路近く・・・五道ヶ辻側から岩谷堂城跡方面

 

上の写真の逆側・・・城跡側から五道ヶ辻方面

十字路を左折すると住宅地に至り、その手前の山野は墓地となっている。

 

工業団地入口方面(南端)

 

当時との地形の差異は不明であるが工業団地造成等で地形がだいぶ変わったのだろうと推察されるも、五道ヶ辻とされる地名辺りが陣地を設営できる雰囲気の地形が確認できる。

無論、現代感覚の事ではありますが・・・

 

岩谷堂城跡方面手前の山野

携帯電話電波塔や墓地の北側、道を挟んでの某社方面

 

墓所の裏側(北側)

 

道を挟んでの・・・

 

遠野陣場といっても本陣のみを示しているのでは・・・

遠野の軍勢は各部隊毎に陣地を展開していたものと想像され、ある程度、広範囲にわたっていたものと推測される。

岩谷堂城の北端まで約100~200メートルというところです。

 

 

通りがかりの軽トラックの小父さんに思い切って聴いてはみましたが、知らないという答え・・・近くの民家で聴く勇気は私にはなく、情報をいただきながらも今回もダメでした・・・。

情報をいただける方、具体的な場所、目印とか具体的にお願いしたいと思います。

よろしくお願いします。

 

 

江刺区玉里・・・青篠城跡(あおざさじょう)

 

 

 遠野勢による江刺岩谷堂城攻、江刺氏の執権職、家老は菊池氏とされ、その菊池氏とは菊池右近と思われ、主人である江刺重恒に諫言するもかえって疎まれて右近の子、太田代伊予は討たれ、右近は遠野へ脱出したと伝えられる。

 遠野勢を江刺郡へ招聘したのは菊池右近とも考察でき、岩谷堂城近くの戦いで遠野勢と共に敗れて遠野へ落ちていったが史実なのかもしれない・・・?

 他に「住田町史」には江刺兵庫頭重恒の言い伝えについて記述され、大酒飲みで女好であったと云われている。

 家老の菊池右近は重恒の命により世田米氏(現住田町の豪族)の姫を重恒の嫁にするべく世田米氏を説得、しかし江刺重恒の行状は他にも知れ渡っており世田米氏は固辞しつづけますが右近の説得に根負けして遂に婚儀が成立、しかし、結婚一年も経たないうちに側室を置き、世田米氏の娘には目もくれず、あげくに世田米に送り返す所業となり、菊池右近の面目は丸つぶれ、以後、右近は重恒を深く恨み、世田米氏と内通し遠野の阿曽沼広郷を誘って遠野、世田米連合の軍勢を以て岩谷堂を攻めたが、戦いに敗れて遠野へ落ちて行ったと語られている。(吾妻むかし話)

 

 一連の江刺岩谷堂城攻めに関わる言い伝えについては、岩手県史に天正年中、ことに天正13年(1585)に葛西氏の臣、江刺三河守は配下の江刺郡内諸侯から糾弾忌難され、主家である葛西当主、葛西晴信から勘当されたとある。

 江刺には三河守と兵庫頭とされる郡主級の人物がこの時代存在するとされるが、いずれ江刺郡内で一族、配下の武家を巻き込んでの離反、争乱があり、その渦中に菊池右近の遠野落ちや遠野の阿曽沼広郷の岩谷堂城攻め等の事件が一連の流れとしてあったのではないのか・・・と思われる。

 江刺重恒は後に豊臣秀吉による奥州仕置で主家葛西氏と共に没落するも、田瀬(花巻市東和)に落ちていたところ、秀吉の重臣、浅野長吉の計らいで三戸の南部信直に2千石で仕え、新堀城主(花巻市石鳥谷)となり後に江刺氏は南部藩士として土沢城(花巻市東和)に移り伊達氏との境目警備の要となっている。

 現地に遠野陣場(とのずば)と称される場所が存在する事実からすれば遠野との歴史的関連があったとするのが妥当だと思われますね。

 久しぶりの郷土史、歴史ネタでしたが、今回も空振りといったところ・・・さて次回は何を・・・?・・・少し先になるかもしれませんが、お楽しみに・・・(楽しみにしてますという声は実はないです・・・)・・・

 

 

水仙も見頃となっている奥州市(江刺区)

我家の水仙はもう少し先・・・来週中には咲くと思います。

 

城跡近くの山野はウグイスの鳴き声が響き渡ってました。

 

完全に「ホーホケキョ」と・・・!

 

 

仕事での1サイクルが終了・・・!

僅か3週間、7当直というところですが、ようやく1サイクルという印象で、先月末での久しぶりの八戸訪問が、数ヶ月も前の出来事という錯覚も・・・

とにかく疲れたが本音!、久しぶりの4連休中ですが、一区切りということで史跡めぐり含めてリフレッシュするべく今回内陸方面に出掛けておりました。

結局、上にも記したように収穫はほとんど無かったですし、花巻方面に移動して、一ヶ月ぶり?のいつもの温泉施設での日帰り温泉を楽しみました。

久々に、まったりとはいきませんでしたが、少しのんびりできたようですし、身体も今の環境にだいぶ慣れてきた感じなので来週から、少し加速して頑張ろうと思うのでありました・・・

 

 

 

 

わたすは・・・・・・このようなことは趣味ではありませんし、興味もいささかありません・・・

 

史跡探訪中に廃棄?された図書を発見・・・

 

 

 

ちょっとパラパラとめくって・・・という衝動に駆られたのは云うまでもない・・・

・・・

 

観てませんよ・・・・・・

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弘法大師諸国御巡錫之聖蹟

2011-12-08 19:39:22 | 歴史・民俗

 蝙蝠岩弘法大師霊場

(花巻市東和町毒沢南)

 

 

 花巻市東和町から北上市に至る国道456号線沿い、蝙蝠岩弘法大師霊場というところがある。

 遠野から北上へのルートですと国道107号線を主に利用するのですが、勤務地である宮守町から北上に至る場合は東和町晴山から浮田を経て北上市口内の国道107号線に出るルートも時折走行しております。

 その際に道沿いの弘法大師霊場という大看板をいつも視認しておりますが、この度、遅ればせながらご参拝を兼ねて画像取材をさせていただきました。

 

 

 縁起というかこの地と弘法大師空海との関連は説明板のとおりということですが、全国に300を超える弘法大師の伝説の地のひとつということなります。

 岩手では他に北上市?弘法大師が使った杖を地面に突き立てたところから逆さ銀杏が芽を吹き大樹に成長という伝説もあるといいます。

 いずれ、大師が遣唐使として唐(中国)に行く前の修行時代に全国巡業を行った際に立ち寄った地ということらしい・・・。

 

大師堂

 

 真言宗ということで「大日如来・不動明王・弘法大師像」が安置されているといいますが、この度は確認はしておりません。

 我家の菩提寺は真言宗寺院でもあり、私はその檀家でもあるので、真言宗とは馴染みある関係ですが、光明真言を3度唱えさせていただきました。

 こういった聖域といいますか環境は何処か例えようがない気というか一種独特の空気を感じ、遠野でいうなら現早池峰神社拝殿下や我地元の駒木妻の神、大沢不動(倶梨伽羅不動)、そして菩提寺福泉寺の本堂周りで感じる何かと同じ雰囲気がしております。

清水

 

霊場の湯・・・?

 

 かつては霊泉?清水を沸かしてお風呂を参拝する方々に提供されていたのかな?

 立木は切らず屋根を貫通させておりますが、現地では気づかず・・・・・・帰宅してからPCに画像を取り込んで気づきました・・・

 

 背後の山野は見事というか大石が折り重なった光景が広がっておりますし、直近にバス停があって「こうもり岩」となっております。

 

 

 石碑の裏面も一応確認したのですが、なんて刻まれていたか忘れてしまいました・・・・・・真言宗・・・座主?のお方のお名前があったような・・・?・・・いずれ高野山の真言宗本山関係から開祖である弘法大師空海に縁のある地として認定された証なのだろうと理解しております。

 

 ただし、史実として弘法大師が全国を巡ぐる旅をしたのか、はたまた東北地方や岩手も廻ったのかは一切不明だと思います。

 東北地方ですと天台宗との関わりが深く、ことに慈覚大師円仁の足跡が有名であります。

 遠野においても現早池峰神社である妙泉寺や遠野七観音開基に関わる伝説に慈覚大師が登場ということで、天台宗との関わりある時代でもあったと推測されます。

 しかし、慈覚大師の遠野入りも伝説の域を超えるものではない・・・と思われます。

 

 

 

こちらは真言宗豊山の寺院

菩提寺 法門山福泉寺、冬枯れの景色

 

完全に落葉、本格的な降雪、積雪を待つばかり・・・

 

遠野、松崎方面

 

五重塔

 

大観音堂(大悲殿)

 

弘法大師 像

 

 

夏の名残・・・!

 

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土沢城址

2011-12-07 18:59:39 | 歴史・民俗

 土沢城・・・!・・・あそこに見えるのが土沢城址、いつでも探訪は可能と思いつつも実は一度も探訪というか行ったことがなかった城跡でした・・・

 城館探訪を本格的にはじめて満8年?ようやく辿りついたと云う思いです・・・

 

土沢城・・・(花巻市東和町土沢)

 

大手橋

城館として機能していた時代の水堀の名残がみられますが、当時は水堀に橋が架けられていたといわれる。

 

西端の空堀跡

東和中学校側との境は空堀一重が西~北~東を取り囲んでいる。

 

 

南東側の斜面

舘跡らしい段差が、なんともいえません・・・

 

本丸大手門

門跡の遺構がクッキリと残されている

 

東舘

本丸御殿の南側、一段下がった場所に位置している。

 

東端

空堀によって区切られているが現在は道として利用されている。

畑等、土塁跡としての名残がみられる

 

東部分の空堀跡

 

北側部分の空堀跡

 

本丸

 

本丸御殿の西側続きに中館、さらに西館と連なっている

 

 説明板にもあるとおり、慶長18年(1612)の築城とされ、新堀城(花巻市石鳥谷町)に居た江刺長作隆直が太守、南部利直の命により土沢に移され初代、土沢城主となった。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの余波は東北地方にも影響を及ぼし、和賀、稗貫の遺臣達による一揆が勃発、この地でも安俵城や田瀬館が伊達勢に支援された旧葛西氏縁の和賀一揆勢の攻撃を受け、さらに口内(現北上市口内)の浮牛城が伊達家の拠点として整備されると、その対抗策に土沢城が南部家により築城された経緯がある。

 城の縄張りは南部家の三戸城や盛岡城の設計に関与したとされる野田内匠頭直盛と伝えられている。

 

 江刺氏は、かつては葛西氏配下で江刺岩谷堂城主であった江刺兵庫頭重恒が豊臣秀吉による奥州仕置で主家、葛西氏と共に没落して南部領であった田瀬(閉伊郡乙茂ともいわれる)に逃れていたが、南部信直に出仕、以後、江刺重隆、さらに隆直(土沢城主)と続いている。

 ※閉伊郡乙茂とは遠野の小友?

 城内や城の南斜面には家臣団の武家屋敷があったとされ、江刺時代から仕えていた家臣達、「三ヶ尻氏、小田代氏、及川氏、猪川氏、城氏・・・」等の同姓複数が確認できますし、稗貫旧臣と思われる高橋氏や和賀旧臣の小原氏の名も確認でき菊池一族である太田代氏も確認できる。

 

 東和町市街地

 

 西の花巻城、東の遠野鍋倉城と共に隣接の伊達家対応の一大拠点という位置付けでしたが、南部利直の子、重直時代にはその重要性が薄らいだともいわれ寛文10年(1670)に土沢城は廃城となったと伝えられている。

 

 一方では、土沢江刺氏第3代、江刺長房時代(正保5)に土沢城は焼失と云われ、盛岡に居を構え後に花巻城代となったとも伝えられる。

 後の天明年間、江刺氏は相続問題等で家禄1千5百石を没収され家名断絶となるも、近親者が召しだされて100石で家名再興となった。

 

 

 なお、土沢は中世当時、「十二鏑、十二ヶ所」と呼ばれていたといわれ、土沢城跡或いはその隣接山野に十二鏑館があったとも伝えられている。

 遠野関連では慶長年間、主家である阿曽沼広長を気仙へ追いやり、遠野盟主となった広長の叔父ともいわれる上野広吉の娘婿のひとりが土沢近在の土豪といわれる十二鏑弾正と語られている。

 十二鏑氏(十二ヶ所)とは何者であったのか不明であるが遠野関連史で名が伝えられている点、さらに「奥南落穂集・遠野家之次第」に「十二ヶ所弾正・十二ヶ所帯刀益種」と記され、何かしら当時の遠野と関連する人物達であったと推測されますし、戦国末期頃、現花巻市東和町の一部に遠野阿曽沼氏の勢力等が影響していた時代があったものなのか?そんな一面が見え隠れする雰囲気が感じらます。

 

 

 

 初冬の頃の城館跡めぐりで身体も冷えたということで・・・

 

ちょっと距離は離れてますが・・・

駒子の湯・・・金ヶ崎町

 

源泉かけ流し、効能は五十肩に良し、さらにサウナも完備・・・これに尽きました。

お湯は熱めで身体がもの凄く温まりました。

時折、堪能したいと思います・・・。

 

 

帰りは・・・

今年は残り一色となるブルーには、お目にかかれないかもしれませんね・・・

 

 

 

 

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浮牛城跡探訪

2011-11-26 19:05:09 | 歴史・民俗

 2003年頃から毎年、春と晩秋~初冬にかけての2シーズンに城館跡調査といいますか探訪をひとつのライフワークとしておりましたが、昨年辺りから郷土史関連への興味が薄れてきたのか?徐々に探訪回数も減少傾向となって、この春の探訪はゼロとなっておりますし、地元遠野市内もまだまだ未踏の城館跡があるにもかかわらず市外へ飛び出して探訪をしていたりと、とにかく今はライフワークと呼べる内容ではなくなっております・・・

 そんな中、北上方面に行く道すがら、どうみても城跡と思しき形状が道路からみえ、以前から気になっておりましたが、撮り鉄ついでに道すがら、遂に立ち寄って来たということで、ご紹介いたします。

 

浮牛城(上口内館)・・・ふぎゅうじょう

北上市口内町松坂

 

 

大手側

 

本丸

 

空堀跡

 

帯郭

 

 

水堀跡

 

口内町内・・・旧城下

 

 国道107号線沿いの産直施設の南側に小高い公園風の丘がみえるのですが、浮牛城跡かな?程度ですが、それでも気にしておりました。

 そのうちに探訪しようとも実は考えてもいたのですが、城館跡探訪熱も冷めてきた昨今ということで、なかなか実現に至ってませんでした。

 浮牛城は平山城ということで、比高もなく、公園風に整備されてますので歩き易く、それでいて空堀や枡形虎口、帯郭・・・といった遺構もよく残っております。

 

 築城は天正年間(1573-1592)葛西氏配下で江刺郡主で岩谷堂城主、江刺兵庫頭重恒の三男と伝えられる口内帯刀隆朝が住していたと伝えられる。

 今は北上市の内ですが、中世当時は和賀氏の領域ではなく江刺氏(葛西氏)の統治するところで、西側で北上市、北側で花巻市東和町の旧和賀郡を領有する和賀氏と隣接していた地域で葛西氏の北辺での要害で軍事、交通の要衝だったことが伺われます。

 豊臣秀吉の治世となると主家葛西氏が没落すると江刺氏一族も没落、江刺重恒は南部信直に仕官したため、口内氏も江刺氏と行動を共にし、南部信直から現花巻市東和町毒沢、黒沢に500石余を拝領したと語られるも仔細は不明。

 口内地域は木村氏を経て伊達政宗が治めるに至り、南部氏と境を接することになる。

 初期においては口内地域と北で隣接の南部領は、旧主江刺一族が配されており、伊達家側では防備等の面で城の改築や防御上の工事をすすめ、今見られる遺構の多くは江戸期に整備されたものと推測され、城主城代歴代6氏が代わった後、元禄8年(1695)中島堅物利成が2千5百石余で転封され入部し、以来明治維新まで中島家が城主を勤めていた。

 

本丸梵字池跡

 

口内地区では、毎年8月に浮牛城祭りを開催しているようです。

地域の史跡としての城館跡と共にその歴史を大切にするという心、これからも受け継いでいただきたいと思います。

 

手前は帯郭、向こうにみえるのが国道107号線沿いの産直施設

 

いずれ、12月中頃まで積雪が無く、天候等が安定してましたら、花巻市東和町や奥州市江刺区の城館跡を若干探訪しようかな?とも思っております・・・が、どうなるかはわかりませんがね・・・

 

 

おまけ・・・

 

ぶっきみ~ワンダーランド

 

何故か子供用の自転車が増えている・・・?

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楢山佐渡

2011-09-30 19:31:00 | 歴史・民俗

 盛岡藩家老 楢山佐渡

 

楢山 佐渡 (ならやま さど)

盛岡藩(南部藩) 家老、楢山帯刀の長男として天保2年(1831)誕生。

名は隆吉、通称五左衛門と称し、のちに佐渡と改めている。

楢山家は南部家高知衆(上級家臣)譜代の家柄で、叔母は後の藩主、南部利剛の母親で利剛とは従兄弟同士である。

代々家老加判役を勤める楢山家ではあるが佐渡は若干23歳で家老職に就任している。

 

佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆での対応に働き、藩主南部利剛(としひさ)候の厚い信頼を得ていたとされる。

また、盛岡藩随一の大身で実力者でもあり、藩大老であった南部弥六郎(遠野南部家 南部済賢)とは、義兄弟(佐渡の姉が弥六郎の室)でもある。

 

慶応4年(1868)2月、明治維新の動乱は東北諸藩にも多大な影響をもたらし、佐渡は旧幕府と薩長等の新政府との狭間に揺れる藩の行く末を決するべく、京都へ赴くも、権勢を得て横暴極まる薩長を中心とする新政府側の態度を目にすると、薩長等から討伐対象とされた会津(福島県)、庄内(山形県)の各藩へ穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟に参加を決定する。

 

同年、奥羽越列藩同盟を脱退した隣国、秋田久保田藩攻めを決定、佐渡は盛岡藩軍を率いる総大将として鹿角口へ出陣、各地で秋田勢を破り、破竹の進撃で大館城をも落としたが、秋田へ援軍として来援した九州佐賀藩等の明治新政府軍に進撃は止められ、逆に藩境まで、押し戻されて苦戦を強いられる。

 

既に会津藩は敗れ、仙台藩をはじめとする東北諸藩の大半も降伏、残るは盛岡藩と庄内藩のみで、遂に9月に降伏、佐渡は戦犯として東京へ送られるも後に藩の一切の責任を一身に負い、明治2年(1869)6月23日(7月30日)故郷盛岡で刎首となった。(切腹の形をとり処刑) 享年39歳

 

処刑の場所は盛岡北山の報恩寺

 

「花は咲く 柳はもゆる 春の世に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」

 

 

 楢山佐渡は「最後の武士」といわれる一人として歴史に名が刻まれている。

 郷土、岩手の偉人ということもありますが、数年前まで歴史関係のウェブサイトを公開しており、その中で幕末維新期での東北という内容で、幼稚ながらも展開していたこともあって、盛岡藩兵が進軍した秋田県鹿角市とその周辺での史跡探訪、さらに盛岡市北山で楢山佐渡の墓所をお参りしたことがありました。

 

 

写真は5年以上前のモノです・・・おそらく・・・汗

 

楢山佐渡に関しては、ネット検索等で、概略等はわかりますので、そちらをご参照ください。

 

 

 

秋も深まり・・・

 

9/28日の画像より

 

 

 

本日は雨降り、9月最終日は雨の金曜日となりましたが、いよいよ10月到来、紅葉を絡めての撮鉄やら地元での雲海撮り、深まる秋を切り撮ってみたいと思います。

 

 

 某日のお昼は・・・

 

南部つながりで「南〇らーめん」・・・笑

 

味噌ラーメンは此処のが美味しいですね・・・

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後三年の役

2011-06-10 19:21:55 | 歴史・民俗

 後三年の駅・・・?

JR東日本 奥羽本線 後三年駅(秋田県仙北郡美郷町)

 

後三年の役の後半部分の主戦場

 

「後三年の役」の概要は説明板参照こと。↓

 

 後三年の役(合戦)関連調べで、過去に2度程訪れたことがありましたが、当時は仙南村?だったような?・・・今回は歴史関連はちょっとで鉄関連もちょっと、さらに温泉にグルメ・・・と少しずつながらも今回と次回で横手辺りに出没して来たレポート含みでお伝えしたいと思っております。

 

 その壱は「後三年の役」

 

 後三年駅近くには、やはり後三年の役関連の史跡といいますか、歴史公園という位置付けの「平安の風わたる公園」がある。

  こちらも、過去に何度か訪れておりますし、さらにもう少し行くと後三年の役での決戦場、「金沢の柵」跡があり、まさにこの界隈は後三年の役縁の地であることを物語っている。

 

雁がね橋・・・というそうです。

 

 沼柵で源氏軍を破った清原家衡軍は、勝ちに乗じて家衛の加勢となった叔父である清原武衡の策を入れて、より堅固な要害、金沢柵(横手市)に籠城して源氏軍を迎え撃つ作戦をとる。

 金沢柵攻撃のため源 義家率いる源氏軍は西沼辺りを進軍したとされる。

 その西沼がこの公園辺りだと伝えられているらしい・・・。

 

 中学の社会科教科書や高校日本史教科書?(私の時代はあったはず)に前九年の役、後三年の役の場面で、ある挿絵があったことを覚えている方もいるはず・・・それが・・・↓の絵・・・!

雁行の乱れ

 源義家が金沢柵に進軍中、立馬郊付近にさしかかると、一行の雁(かり)が、俄かに列を乱して飛び散ったという。
 これは何かあるなと思った義家は、かつて大江匡房から習った兵法を思い出し、「伏兵があるに違いない」と、附近を探させたところ、果たして西沼の附近から三十数騎の敵兵を発見し、これを全滅させたという逸話。

 

後半戦関連武将達

 

清原家衡

 藤原清衡(平泉初代)の異父弟で、清原氏当主であった清原真衡(異母兄)に対し異父兄である清原清衡(藤原)と共に対抗、しかし真衡が陣没すると兄清衡との争いとなり、清衡には陸奥守であった源 義家が合力し、清衡、義家対家衡の大きな争いへと発展する。

 出羽沼柵(横手市雄物川)にて源 義家率いる源氏軍を破るも、金沢柵へ移動し籠城。

 源氏軍との激しい攻防戦を演じるが日本戦史初といわれる兵糧攻めに合い、遂に金沢柵は陥落、清原家衡は討死といわれる。

 

清原武衡

 清原真衡、家衡の叔父とされる。

 当初は日和見態度であったが沼柵で源氏軍を破った家衡に加勢し、より堅固な金沢柵への籠城を献策して自らも籠城する。

 戦いは戦慄を極めたが、源 義家の弟、義光に密かに降伏を申し出るも義家に拒まれ、金沢柵が陥落の際は脱出するも後に捕えられて斬首された。

 

源 義家(八幡太郎義家)

 後三年の役に先きんじた戦乱、前九年の役では父である源 頼義と共に安倍一族と戦い、出羽の清原一族の加勢により、安倍一族を滅ぼし武勇を称賛されたが、奥州、出羽の主権は源氏ではなく清原一族に与えられ、源氏は奥羽を去った。

 前九年の役から25年、源 義家は陸奥守(陸奥国司)として返り咲き、清原氏の内訌に干渉して、清原清衡、家衡兄弟の争いに発展すると清衡に加勢して、遂に金沢柵にて清原家衡を討って勝者となる。

 しかし、後三年の役は私戦と評され、朝廷からの恩賞がなかったばかりか、奥羽は清衡に与えられ、陸奥守を罷免され得るものは無かった。

 源氏軍として戦った武士達には自らの私財を恩賞として与え功に報いた為、東国武士からは武家の棟梁としての名声を得て、強固な関係が築かれていったといわれる。

 後三年の役では、女子供も容赦しない殺戮を行い、降人も許さず処刑したといわれ、天下一武勇の士と共に「八幡太郎恐ろしや」と言い伝えられるほど悪名も残している。

 

藤原清衡(清原清衡)

 

  言わず知れた奥州平泉初代、藤原清衡・・・

概略は省略します・・・。

先の3人の武将の略歴とかで歴史的流れや位置付けは理解できると思います。

 

 

 

 

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北辺の城柵、志波城

2011-04-20 19:02:16 | 歴史・民俗

  寒の戻りが激しく降雪になるとの予報、19日の通勤時、国道396の小峠は雪が舞ってましたし、日中も寒い一日。

  明けて20日も冷え込んだ朝を迎え、雨が雪に変わったようです。

  県北や沿岸北部では20~30センチの積雪というところもあったとか、ここに来て桜前線も足踏みといったところですね。

 

 

 <北辺の城柵、志波城>

志波城跡・・・盛岡市太田

 延暦22年(803)造営といわれ、外郭は築地塀と大溝の二重で、それぞれ840m四方と930m四方の規模なようです。

 内部は中央から、やや南よりに150m四方の政庁が置かれ外郭とを結ぶ大路があったとされ、他に行政実務を執る官衙建物群や外郭沿いには兵舎とされる竪穴式住居群があったとのこと。

 

壕(堀)

 

築地塀と櫓

櫓と櫓の間隔は60mで当時の弓矢の射程距離を意識して配置されていたといわれる。

 

 

 大和朝廷による征夷、すなわち古代東北への侵略の拠点として造られたのが柵とよばれる城柵官衙である。

 対蝦夷(あまり好ましくない表現ですが)軍事、政治の拠点としての位置付けで、まずは日本海側が最初とされ、大化3年(647)越後の渟足柵(ぬたりさく)(新潟)が、そのはじめで後の和銅元年(709)に越後国に出羽郡が設けられ5年後に出羽国が誕生する。

 太平洋側、すなわち陸奥国は、ほぼ順に北へ進出し拠点の城柵を造営したことが伺われ、宝亀11年(780)、陸奥国に多賀城が造られ、奥州における中心的拠点の政庁となる。

 志波城に関しては、延暦7年(788)、征東大使、紀古佐美が5万4千余の大軍を率いて奥州に下向すると翌延暦8年、胆沢地方で阿弖流為に糾合された蝦夷軍に大敗を喫するが、延暦10年(791)さらなる征夷軍が送られ、10万の大軍と共に副使に坂上田村麻呂という陣容で、胆沢蝦夷の長、阿弖流為の軍と激突したのであった。

 そして延暦16年(797)、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が4万の兵を率いて奥州へ下向、延暦20年(801)には阿弖流為軍と鉾を交えたと推測され、その中にあって翌延暦21年(802)に多賀城から鎮守府の機能を移転させ阿弖流為達の拠点に大胆にも胆沢城を造営、ここに阿弖流為等の胆沢蝦夷達の抵抗は止み、阿弖流為、母禮を伴い上洛(阿弖流為、母禮は斬首)した後、再び陸奥へ下り延暦22年(803)志波城を造営、阿弖流為亡き後の不穏の蝦夷勢に対する最北端の城柵として機能することになる。

 しかし、陸奥国での最後の造営となった徳丹城(紫波郡矢巾町)が完成すると、北側を流れる雫石川の度重なる氾濫により、志波城は弘仁3年(812)に停廃(廃城)となり、その役目は徳丹城へ移ることになった。

 志波城は僅か10年でその役目を終えたことになる。

 

 

1,200年前も岩手山は同じ雄姿をみせていたものと思われますね。

 

 

 

あひるさん・・・白鳥さんか?

 

笑・・・

 

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明治三陸大津波と遠野人

2011-04-09 18:28:47 | 歴史・民俗

 2011年3月11日14時46分、東日本大震災発生!

  この大地震により北海道から千葉県までの広範囲な太平洋沿岸に津波が押し寄せ、特に千葉県~青森県の太平洋沿岸へは大津波となって沿岸各地に甚大な被害をもたらす大惨事となりました。

 その中でも三陸と云われる岩手、宮城の沿岸地域は壊滅的な大きな被害となり、よく比較され、さらに現代において多くの教訓となっているのが明治29年(1896)6月15日に三陸沿岸へ押し寄せた明治三陸大津波でありました。

 ここでは、明治の三陸大津波に関する簡略的な事項と、発災直後に三陸沿岸各地の被害状況を実際に調査した遠野人、山奈宗真の事績について、これまた簡略ながら記述いたします。

 

風光明媚な三陸海岸・・・浪板海岸(大槌町)・・・2010年 春

 

 明治29年(1896)旧暦5月5日(新暦6月15日)午後8時過ぎ、端午の節句の夜、三陸沿岸一帯は、轟音の共に大津波に襲われ、岩手県では南は気仙郡気仙村(陸前高田市)から北は九戸郡種市村(洋野町)までの約324キロ、当時でいう6郡37ヶ町村にわたった。

 電話等、通信手段やメディアによる情報伝達が発達していない時代でのこと、遠野ではそれでも翌日には、釜石では昨夜の地震で、大津波が来て町が無くなったらしいというクチコミが最初であったらしいですし、岩手県庁が大津波を知ったのは翌朝で青森県庁からの急電によるものであったらしい。

 釜石、大槌と同郡で隣接でもあり経済面でも密接な関係である遠野は、釜石、大槌が大津波で壊滅したとの報にて、直ちに町議会を招集して被災地救援を議決すると当時2百円の予算を以て、見舞い方々状況視察員を派遣すると共に同時に消防夫や車両、牛馬等の運搬用具を全て動員して食料、衣類、医薬品を送り救援に当った。

 県や国でも係官を被災地に送り、軍艦も動員され救援物資等の輸送に当ったとされる。

 大津波は、吉浜(現大船渡市三陸町)では波の高さ22メートルといわれ、同じく三陸町の綾里湾では38.2メートルという、とてつもない大波が来襲、3回にわたる大津波までは怒号の声や阿鼻叫喚の凄惨な響きが辺りに響いていたが、それ以降は人の声は全く聞こえなくなったといわれ、その後、翌日までに大小数十回の津波が来襲するといった凄まじいものだったと語られている。

 津波による死者は、全体で約2万2千人、岩手県では約1万8千人、全壊、流出家屋約1万2千棟、船舶流出約7千隻と甚大な被害となった。

 

浪板海岸・・・2010年春撮影

 

 山奈宗真が明治29年7月27日、明治三陸大津波による「三陸大海嘯被害地授産労法取調方」を県から委嘱され、気仙郡から九戸郡種市までの三陸沿岸300もの町村集落全てへの調査巡回に旅立ったのである。

 山奈宗真については・・・こちらをご参照ください。

 

 

〇三陸大海嘯岩手県沿岸見聞誌から(抜粋)

陸中国上閉伊郡釜石町(現釜石市・釜石、佐須、白浜、平田、嬉石、松原)

戸数・1,105戸・・・流出戸数等837戸

人口・6,986人・・・犠牲者3,765人・負傷376人

船舶・748・・・流出船舶等652

 

※当時は現釜石市では釜石町の他、鵜住居村があった。(唐丹は気仙郡)

 

 

陸中国上閉伊郡大槌町(現大槌町・)

戸数・1,172戸・・・流出戸数等523戸

人口・6,983人・・・犠牲者599人・負傷118人

船舶・240・・・流出船舶等224

 

 旧上閉伊郡ということで釜石と大槌の被害について掲載しましたが、釜石町にあっては人口の半数が犠牲となり、家屋も7割に及ぶ被害で、まさに壊滅というか全滅に近い被害であったことが伺われます。

 下閉伊郡田老村(現宮古市田老町)に至っては、家屋の9割が流されたり全壊し、人口の8割以上が犠牲となる凄まじさであった。

 

山奈 宗真

明治三陸大津波調査の時、49歳であった。

 

 平成の世に発生した大災害、「東日本大震災」での大津波では、犠牲者、行方不明者合せて約2万8千人の大惨事となりましたが、現在のように湾口防波堤、防潮堤も整備されてなかった明治29年の三陸大津波と比較して、設備、施設の備えやら遮蔽物があり、ましてや各メディアの発達、津浪予警報発令という迅速な情報伝達が構築されていた現在であったにも関わらず、多大な被害であったこと、いかに凄まじいエネルギーがこの度の津波にあったのかが伺われます。

 もちろん、明治29年及び昭和8年の大津波当時の三陸沿岸各地の人口数と現在の人口比較とでは差異はあると思いますが、当時の漁村が人々と共に全滅に近いという悲劇があったこと、これは紛れもない事実であったのです。

 

 山奈宗真は明治三陸大津波被害調査完了(日誌整理含)まで8ヶ月を擁したとされますが、その後、昭和8年(1933)3月3日、またしても三陸沿岸を大津波が襲った。

 この際も犠牲者、行方不明、負傷合せて3千5百人を超える大きな被害となっているが、山奈宗真が調べ上げた調査結果が後の世に活用されたか?あまり活かされた雰囲気は感じないとされる。

 歴史は繰り返す、三陸の津浪をみても何度となく、被害をもたらし、悲劇を生んでいるのは明らかである。

 先人の教訓を重んじるはもちろんであるし、2度と同じ悲劇は避けなければならないはず、私が言うまでもなく、今一度、防災も含め新たな町づくりをあらゆる面から考えることが必要であると思います。

 

 

参考図書「遠野が生んだ先駆者 山奈 宗真」遠野市教育文化振興財団

                                  著  田面木 貞夫

遠野市史4・・・他

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日門城(気仙郡下有住)探訪

2010-12-08 18:30:44 | 歴史・民俗

  薄暗い曇り空、天気は午後から回復傾向ということでしたが、翌日には冬型が強まり降雪との予報を受けて、この時季恒例の城館跡探訪を実施、奥州市江刺区内の城館跡を予定してましたが、出掛ける寸前に野暮用を頼まれて出遅れてしまったので遠野から比較的近いということで、隣町の住田町の未踏の館跡に行って参りました。

 

日門城(ひかどじょう)

気仙郡住田町下有住火の土 横川

遠景

  この場所に立って写真を撮るのは、今回で2度目・・・汗

 なんか眺めただけで、実際に山野に足を踏み入れる勇気といいますか、その気にならないというのが本音・・・斜面はきついんだろうな?みたいな・・・汗

 しかし、今回は折角勇んで来たということで、上り口を車で流しながらゆっくりと探ると・・・・。

 道端に標柱が・・・この辺が城跡の真下というか、上り口がありそうな雰囲気・・・

 しかし・・・標柱の上は・・・・

  斜度45度くらい?下からみると断崖という感じで、どう見ても此処を登れとは思えない・・・汗

 標柱には頂上には堀切があって本丸跡は広い平場であるという記述がされており、建てた人、個人名が記されておりました・・・おそらく地元の郷土史家?とにかく記述もそうですが、その人の意気込みといいますか、地域の史跡であるという思いに励まされ、この斜面を木につかまりながら直上りいたしました・・・大汗

 資料によると・・・比高150メートル・・・大汗・・・まさに遠野弁でいう「間に合うな」・・・「けっこうな」という意味合いですかね、とにかくかなり身体に応え、さらに足を滑らせたら・・・汗・・・という恐怖も少し覚えたり・・・本来はジグザグに登れば楽なんですが、横歩きで足が滑ったらそのまま滑り落ちることも予想されたので、とにかくきつかったけど一気に登りました。

 宮守館や上郷の瓜ヶ森館に匹敵する辛さがありました・・・。

 

 頂上平場

説明板や標柱のとおり、かなり広い平場となっていた。

  南側の先端部分に土塁らしき形状や窪みはありましたが、階段状の平場は確認できなかった。

 

西側斜面の空堀跡

 

 比較的平坦な尾根が北側から続いており、その尾根を二重の堀切で立ち切っております。

 堀切の奥深く、尾根沿いにしばらく進むと尾根幅が狭くなり徐々に北西側に下りはじめ、この方面からの探訪の方が楽に山頂に辿りつけそうな雰囲気もしますが、距離があって難儀するかもしれません。

 北西側の尾根以外は全て急傾斜地となっているが南東側の杉林の斜面だけは比較的緩斜面(遠景の写真の右端付近)となっている。

 

 堀切

遠野であれば標準的な堀切

 

二重目

 

  階段状となった帯郭的な平場は確認できなかったが、かなり高位置にあるので、ある程度の防御工作の必要性はなかったかもしれません。

  苦労して辿りついただけのことはありました。

 

山頂から・・・

火の土地区

  眼下にみえる山間の集落奥の山々は遠野市との境ということになりますかね?・・・昔は伊達、南部の藩境という極めて重要な位置付けであり、遠野の歴史を語るうえでよく耳にする樺坂峠であろう・・・。

 

 

 城の関連人物として、千葉一族である千葉河内守貞信が一時城主だったと伝えられている(天正年間1573-1592)

 また、千葉右馬亟とも言われるが定かではないですが、この地域の姓はほとんど千葉姓とのことであり、浜田系の千葉氏とも語られているが仔細は不明です。

                                   参考図書  (住田町史)

 

 さて、気になる記述が説明板に記されている。

 「慶長6年、1601年、世田米城の阿曽沼広長が気仙勢3千人を引き連れ赤羽根峠で戦い、秋には遠野勢の侵入を受けて、火の土で迎え撃っている。この時、日門城が大いに役立った・・・」とある。

 

 阿曽沼広長とは、遠野横田城主で遠野盟主であったが慶長5年(1600)に南部勢の支援の下、一族重臣の鱒沢氏、上野氏、平清水氏によるクーデターにより気仙郡世田米に亡命、世田米城主である世田米修理(阿曽沼広久、広長の舅)の支援と太守である伊達政宗の後援を受けて3度の遠野奪還の兵を繰り出すも、全て失敗し、ついに遠野への帰還は果たせず、伊達氏の家臣となった。

 

 赤羽根合戦へ3千人の軍勢、かなりの誇張した数値ですが、同町の平田城の看板にも兵3千人と記されている。

 3千人は誇張しすぎですし、秋の遠野勢の侵入で火の土の戦いは遠野では語られていないが、気仙側の資料とか言い伝えがあるのだろうか?もし何かあるなら是非に知りたいですし、ご教授をいただきたいです。

 

 阿曽沼広長による遠野奪還戦3度目は、樺坂峠の戦いと伝えられており、その際に気仙勢は、ここ火の土を通って進軍したものと思われ、戦いは平清水駿河、小友喜左衛門に率いられた遠野勢に敗れ、散々な目にあって撤退したと伝えられ、その際に、広長の率いる気仙勢は、日門城にて敗残の兵を収容したり、再編成を行って、勝ちに乗じて追尾してきた遠野勢を日門城で食い止めたということではないでしょうか?

 以前からそんな考察をしておりましたが、いずれ遠野小友境ということで、なかなか興味ある地域であると共に城跡でもありました。

                                              以上

 

 住田町まで来たということ、辛い山登りの後は・・・・

 

 

さっぱりと・・・汗

 

そして昼食は少し我慢して・・・・

遠野へ戻ってきてから・・・

 

 

 

けっこう久しぶりのような気がしますが・・・

 

シンプルラーメンなら遠野東の横綱

 

やはり、かなり美味しかったです。

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