経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

「おやっ?」

2007年05月18日 | Weblog
世の中のあらゆるものは、それぞれの目的を担って、また全体的に有機的結合されている。システム、社会、生物の生態系、人間の体、等々皆、そうしたつながり、組み合わせの視点からみることができる。そしてどんな小さな存在であろうと、その存在がないと、そのシステムは機能しない。有機的ではない組み合わせ、すなわちバラバラでも機能しない。これは大きな柱時計を中を除いてみたら一番わかるだろう。

日常性も、そうだ。生活もそうだ。人工的なもの、特殊性が強いものは、その周辺との連携性に欠ける。だから、強そうに見えてもろい。景観にあう建物は、背景を景観に守ってもらっていることを意味するし、景観を壊すものは周囲から孤立しているが故に、周囲から支えをもらえない。

こうした考え、視点から、個という企業を見る。また個の企業の中で、「おやっ!?}と感じるものを見つけることから経営革新の糸口を見つける。これはこの仕事について以来、25年、この考え、やり方を積み重ね、磨きをかけてきたつもりだ。
 
もちろん普遍性あることだから、私は企業の事物のみならず、人も小説や映画なども、そうした見方を無意識にしている。たとえば、生活感の乏しい某元首相が、大蔵大臣になった時、とても案じて、あっちこっちにその憂いを書いた根拠も、床屋以外自分でお金を使ったことがない、買い物したことがない、とその彼が公言していたのをTVで見たのがきっかけである。事実、その後大変な不況に陥ったのは、けして偶然ではない、と思っている。

町をみる時も、そうである。
この町が、町の人の表情。生活感があるか、時間軸、すなわち歴史に支えられているのか。
庶民の生活が豊かであるということは、そこの王様が良い政治をしていたことを物語るが、王様が良い生活をしていることは、庶民が良い生活をしていることを表さない。こうしたことを考えながら、町の中心部に豪華な行政のお城をみたりし、それで感じたことを書き留めておく。

時間軸、すなわち歴史は、文献だけでみるだけではなく、歴史が残したものと歴史を彩った人物の言動と、これまたほとんど無意識につきあわせて見ている。文献だけでは、歴史の過程での権力者の保護と濾過によって残っていることが多いので、そのゆがみを削がないと、事実に近寄れない。

経営者が、経営を書物に学ぶ傾向を案じるのは、そこに理由がある。
生活感、現場感に乏しい普遍性の乏しい、すなわち特殊性を、如何に堆積しても、あるいは連結しても、経営の全体と事実を表すことにならない。だが人が保管し、記録に残そうとする者は決まってそれらなのだ。

そうして歴史も経営も、それ以外のことも「事実」がゆがめられる。それらを起点として見る限り、こまったことに歪んだかどうかもわからないで終わってしまうのである。まさに「結婚詐欺、一生騙せば、良い夫(妻)」である。

「おや」っとした、かすかな疑問は、1に全体と個のつながり、2、時間軸、すなわち歴史、3,日常性すなわち普遍性、この3つの条件を欠けると起きなくなることを、心したい。
 年を重ねることは時間軸、歴史を重ねることなのだから、高齢化時代はむしろ有利になる。年のせいにしては年が怒る。その有利性に着眼して、活かすことこそ普遍性ある対応、である。、「おやっ?!」と感じれば、進歩発展、経営革新だ。

 肝要なことは、「おやっ?!」と感じる心を失わないことである。

遠回りだろうか

2007年05月17日 | Weblog
まずは、「お店がないと、私たちは不便きわまわりない。日常の生活に困る」といった地域の人たちがいて、それをニーズとして感じ入った商人が、「それでは、お店を創って地域の人の生活にお役に立つことで、この私も生業(なりわい)を立たせてもらおうか」ということで、お店ができる。

 旅先の、過疎地の商店街とは呼べない無人の通りに、それでも夕方になるとぽつねんと明かりが灯る。それをみて、私はふぅと安堵するのだ。涙が出るぐらい嬉しく、そして悲しくなる。

 「この古びた、ちっちゃな店が生きている。支えている人たちがいる」

 こうした存在感、使命感が、商店のどこかにある。さらにこの地域の人に買ってもらわないと、「生きては、いけない」という商人の2つの思い。そして、「このお店がなければ困る」という、おそらくは一握り二も満たない地域に住む人たち。
 この両者こうした相互の強い意識、絆、それが商店の原点と考える。

 その原点との距離が開けば開くほど、商店は存在感と支持を希薄にし、結果的に商いは苦しくなるのは力学上からも当然である。

 さて、ここで、問いかけである。
 そうした場合の商人の努力の中身を見てみたいのである。売る努力というのは、上に挙げた原点とその距離が開き、希薄になったその分をさまざまなテクニックで代替えカバーしてきたのではないか。そしていつの間にか、それを商人の努力、経営努力と錯覚して、販促なり、歳事なり、販売技術なりに努めてきたのではないか。

 原点に則している限り、本来はそうした方向への努力は無用のはず。
 だから、なすべき努力は、原点に近づく方向のものでなくてはならないのではないか。
代替えは、文字通り代替え。本物に近づくどころか遠のく。努力は目指すべき方向が正しいことを前提とする。方向違いの努力は苦労多くて多くて結実少なし。

 もういちど商人は、原点、本来、本質、といったことを考えてみる必要がある、と思う。このことは、いかにも遠回りのようだけれども、目的・目標を掌中に入れてから、「これじゃない」と後悔するより望ましいのではないか。
 
 何が遠回り、何のための努力、何がお店の役割、そうしたものを時には振り返ってみたいものだ。
 死の床で、人生を後悔することほど、むなしく、悔しく、悲しいいことはないのだから。


その国への予感

2007年05月17日 | Weblog
ロシアの動きに着眼している。

最近のこの国からの報道によると、ブーチン大統領の支持率は70%を前後、議会で与党は3分の2以上という。これが事実ならまさに、安定政権である。これで今年の12月の議会選来年の3月の大統領選はまずブーチンサイドの圧勝(ただし法律どおりなら、ブーチンの再選はない)確実である。

 ところが、海外特派員発(ロシアから見て外国メデア)の報道によると、反体制集会を中心に相当な弾圧、言論の統制。政府系TVの政府偏重の報道がとみに顕著になったとある。ロシアには3つのTV局があるが、いずれも政府系である。このこと自体がロシアが民主国家であるのか疑わしいことを示している。

 このことから、どういうことが伺えるか。
 1に、統制や取り締まり、報道への介入、弾圧といえば、かっての歴史上の独裁政権、独裁国家すべてに共通していることとだ。
 2に、その前提として、国内に無視できなような不満分子の動きがあり、実態はそうした圧力をせざるをえない状況というのが実態である、ということである。なぜなら報道の通りであれば、圧力や統制は無用のことであるからだ。
 3に、支持率の異常な高さは、共産国家、独裁国家に共通のものである。これに投票率の異常な高さが加わったら、なお断定できる。

 4に、他国に対して排他的になることである。その初期段階は外国家の報道機関に対して、それがでる。昨年だったか、外国の女性記者が殺害されている、

 以上4点を踏まえると、考えられることは次のA,Bの2点、いずれがかである。
 A: 1つは、ブーチンは憲法を改正し、大統領再選を狙い、独裁国家への道を歩むのではないか。

 B: もうひとつは、そうせざるを得ない国外に知らしめていない、重大な国家的危機を内蔵しているのではないか。


 Aの場合、他の大統領候補がいない状態を創るため、強権発動でその芽を摘むやりかたは彼らの歴史的常套手段であるから、当然あってしかるべき。その上で憲法改正し、再選をはかり、永久大統領を目指す。そのためには、仮想的を想定して国民の一致団結を図ると共に、内部問題、批判を外にそらす常道手段を執ることは確実である。ヒットラーがユダヤ人排斥を掲げ、スターリンが帝国主義打倒をスローガンにしたように。といった戦略とシナリアが作文できる。
 
 現時点では、その仮想的設定というのは見あたらない。見あたらないと言うことは、1にその必要がない。2に現時点はまだ設定の段階に至っていない、3に、決めているが表に出していない、の3つが想定できるが、ロシアは北朝鮮と違い、大国であり、外国人の出入りを制限している機密国家ではないから3の可能性は乏しい。1か2か、ということにある。
 1であれば、私のこの論は単なる私の空想。一番歓迎すべきことなのだが。2であれば、その候補に、日本が、ということも考えられなくはない。

 Bは、ソ連崩壊後独立国家が多発し、その後の内紛が絶えないことを見れば、あり得て当然だ。内、という事自体が、逆に不自然。

 むしろこれは、今後積極的に、かつ大きく公表されることになる可能性が高い。なぜなら、これまた独裁政権誕生の歴史的事実だが、国内の内紛、氾濫分子を大きく問題視し(時には活動資金を裏金として使ってでも)、それを、水戸黄門的に解決することで、国民へ英雄的支持を集める、といったやり方、すなわちAの戦略成就のツールとする可能性が高いからである。
 
 以上は、現段階での私の作文であるが、しばし目が外せない。

とりかえばや

2007年05月16日 | Weblog
「親父がえらく革新的なのに、後継者の若い経営者が、これまたえらく保守的といった例は珍しくない。なんでだろう」。

「今日は、午前中、国会中継があった。共産党、社会党、こんなにも保守的になったのは、なんでやろ」。

 そもそも資本主義を保守する既成与党に対し、流血革命まで起こし、革新をはかろうと言う流れの中に、左寄りの政党が生まれてきた。それがどうだろう。改憲、改革をやろうと苦心しているのが、保守の自民党&公明党、そうした革新に対して、反対、反対、変えるな、改革などやるな、改憲反対と、必死で保守しているのが、革新系s政党のはずの共産党、社会党なのである。

 ふたつのなんでやろ、の答えは、同根。以下。
 答えは、自民が革新戦略を採ったからである。それは1に、本来、革新系政党がやるべきはずのこと。たとえばこう。「進駐軍主導の憲法反対、早急に人民のための憲法をつくろう」と。だが自民が先に言い出した。だから「俺たちと同じ考えだ。自民お考えに賛成、自民と一緒にやろう」では、「信号機、三色とも緑色」。これでは存在感も役割も果たせなくなるから、「改憲反対、護憲」といわざるを得ない。

 翠の背景に緑では目立たないから、やはり赤だ、黄色だ、とやらざるを得ない。こうして自民の出す議案には、ことごとく「反対」。実態は反対政党だから、自民が、やる、といえばやるな。自民がやらない、といえばやれ。こういうことになる

 それがわかっているから、自民は、革新をやる。革新をやるために、自民の議員は次々革新の法案を考えるために勉強する。彼らから提出される法案が、革新法案であれば、革新政党は、みな反対しなければならない。そのためには、その反対の論拠を勉強する。こうしていつの間にか、とりかえばや。保守系は、革新派、革新系は保守、入れ替わってしまった。

 車に強力なエンジンがある。それを止めるには強力なブレーキが必要。正反対のものがコンビネーション。脳力開発でいう両面思考、TGの嶋崎喜一先生の「ツインコンビネーション」は、そういうことをいっている。相手に併せて、自分のポジションを決める。これが組織における、ホテンヒットを出させない知恵であろう。

 そういう意味では、反対する声が小さいこと。声の数が少ないことは問題になる。意見の一致は、怖い。あの戦争決議を思えばぞっとする。投票率90%超える、大統領支持率が90%といった国は不気味だ。

 さて最大野党は、チョイト困る。保守連合する戦略を採れば、埋没する。反対すれば共産党と、なかよく革新阻止をやらなければならない。これは苦しい。

 だから、自民に反対せず、自民を上回る革新性を出すか、共産党と同様全部反対するか。党員構成の複雑性もあり、戦略の統一が難しい。

 だが国家のことを考えれば、ぜひこのまま反対、反対で存在感を示して欲しい。でないと、大勝ちすると天狗になるのが、今の革新政党、すなわち自民党なのだから。自民は天狗になり、国民から背を向けられ、それにこりで、ずいぶんと成長したのだが、その変わり身の早さは天狗になれば、また元に戻る可能性が高いことを、また著している。

 国会中継は実に学びになる。企業経営に学び入れることがたくさんある。なにせ、国会議員直々のEラーニングが無料、しかも反面教師までそろっている。だから活用しない手はない。

 さあ、これから国会中継で勉強しよう!

営業の虚と実

2007年05月15日 | Weblog
営業とは?と問われたら、こう答えたい。

生きていくことは、つまるところ人と人との関係を基盤としている。当然、生活も経営も人と人との関係の上に成り立つものである。

 その関係は、虚と実で構成される。
本稿では、人を介在する「関係」を実としたら、人以外の関係を虚とおいて論を進めてみたい。

 「うちとおたくの会社は、取引は緊密だ」、といった言い方がある。
うちとオタクは、会社の関係なのだが、会社同士の関係の内実は、両社の人間関係のことである。会社同士が知り合い、名刺交換した後、取引しはじめた、会社同士が好意を持ったとか恋愛関係にある、ということではないから虚である。

 「会社としては、君(田上康朗)を首だ」と言われたとする。ここでは会社も首も虚、君というのはこの場合、固有名詞であるから実。こう考えると、虚が実を首(これも虚で、実は解雇)にしたことになる。そこで実なる私は、腹を立て対策として抗議に行くわけだが、何処をさがしても会社さんは見つからない。存在しない虚が私を首にするはずはないから、「誰が俺を首にしたのだ」と、私は実を探すことになる。その結果、「実は・・・・」と名乗って出てきたのが上司のO部長であることが明らかになる。
そこで、私は初めて首になる理由を思い当たることが出来るのである。

 つまり幽霊が出てきたということは、幽霊が生きているときの「実」のときの恨みつらみであるということだ。
 このことをしかと理解していないと、私たちは対応を誤ってしまう。いや出来ないことになる。

 生活も、経済も、経営も、過去もこれからも、人と人との関係こそが「実」であり、他は実に見えるが実は虚であるとみた上で、対応することが賢明である。
たとえば、選挙時の候補者の言うことは、公約も含めてほとんどが虚である。「当選した暁には・・・」というが、当選者以外暁はこないから虚。当選者にしても、それを実行して初めて実となる。この虚から実への転換率が、評価され、「あの人は、虚を「実」行する人だ」ということで評価されることになる。

 従って実行しなかった人に、「なぜ公約したことをやらなかったのか」と問うと、彼らは「実は・・・」といい訳をする。その、「・・・・」の部分を補うと、実と、言ったがそれは虚だったんだ」ということになる。つまり当選したいがために受けのいい虚を言ったいうこと。それ(虚)がその人の「実」体だったことになる。

 
 経営や営業などを考えるときにも然り。この虚実をわきまえておくとわかりやすくなる。
 人とは何か、その人が作った企業や組織、製品とはどういうものか、といった人と人との関わりを中心に据えて、きちんとそのつながりの有無を押さえることで、虚の部分を実の部分が明快になるからである。

 これは面倒、大変な手暇のかかる作業である。だが、通常は省略する。省略の程度は、人と人との関係の度合いによって異なる。この点が重要なことであるが、省略には、当然大きなリスクが想定されるわけだから、省力するする条件がある。

 それが、「かねがねの人間関係」である。
 お母さんが毎日出す料理は、家族の誰しもが安心して食べる。(ところが同じ料理でも、これまで見たこともない人が、突然台所へ来て、作ったものはそうはいかない。
 
 お店には、大なり小なり、上の例、後者のもつハンディがある。
 だから、これをどうしたら、前者(お母さんレベル)へ持って行くかが、営業ということになる。

 虚を実に持って行く作業こそ、経営の主なる流でなくてはならない。だが、現実の流れは、合理化、能率化と称して、実を虚にということが目立つというのが、現場での私の実感である。このことは、今朝の新聞に入ったチラシを叩き台にして、それを虚実の視点から点検してみたら、理解いただけよう。

 商人とは、虚を減じ、実にする手暇を業とする者をいう。
 ちなみに、虚業者とは、虚を実に見せかける手暇を惜しまない人である。
 両者は、似てまさに非なり。

「校長になりたい」

2007年05月14日 | Weblog
私には、夢があります。
 それはもう一人の私がいるという条件付。

 もう一人の私がやりたいこと。
 それは、小さな学校の校長先生になること。
 それも今ある高校とか大学ではなく、
 こうしたことを中心にした学校なのです。

 1に 自ら事業を起こす才覚と起業知識を体得させる。

 2に、日本版デュアルシステムを取り入れる。

 3に、地場・伝統産業、観光資源、特産物などを学ぶ

 4に,郷土の歴史、伝統、地形・地理学などの
 郷土学科と郷土愛の涵養などが必須科目。

 5に、校長の私が、実践経営学を日常の優しい言葉で講義。

 こんな学校なのです。
 笑わないでください。夢なのですから。

 この学校には、売りがあります。
 「脳力開発」が体得できることと試験がないこと。
 
 ここで学んでも、学歴にはならない。
 ここを卒業することで資格が与えられるわけではない。
 起業を志す若者の学校ですから、
 そんなものは各自自分で必要なものを取得すればいい。
 学歴を得るための学校ではないだから、
 点数を付けて、評価することをしないから試験不要。
 これは若者には、ぜったい売りになる、と思うのです。
 
 この学校は自分の夢を果たしたい仲間との「場」、
自分の企業を創作する「場」.

 このままでは、少子化時代の一人っ子たちは、
 親の手を振り切り、都会の大企業へ出て行って、
 やがて親もお墓も、都会へ持って行ってしまう。

 これでは地方格差も過疎化も序の口、序の口
 やがて地方の経済・産業基盤は崩壊し、
 人が住んでいない町になりはてる。

 これまで行政は必死で働きの場として、
 大企業の誘致を図ってきた。
 それで過疎化が食い止められのか。ノウだ。
 優秀な人材を地場の中小企業から奪い、
 都会の本社に吸い上げた、
 というのが、大方の流れです。

 都会が悪いのではありません。
 大企業が悪いのではありません。
 また若者達が悪いのではありません。

 都会良し大企業良し、田舎ダサイ、
 そうした流れを作ったものがわるいのです。
 ここではその犯人探しはしたくない
 私の夢を覚ませるし、意味があるとは思えないから。

 今、成功しているベンチャー企業の実業家の多くは
 大学在学中に起業して、その大半は地方の出なのです。
 だから若者たちが 自分の生まれ育った郷土で、
 創業し、豊かな郷土づくりに挑戦する
 そうした学校を創るのです。

 その夢の中の学校ができあがったら
 夢の中の私に替わって、この私が校長に治まり、
 学校を死ぬまで君臨するのです。

 そして、郷土が大好き。郷土で生きたい、
 郷土で役に立ちたい。
 そうした若者を、たくさん育てるのです。
 
 せめて夢の中でも、私のこの夢を
 実現させてくださいな。



その計画で、いけますか?

2007年05月13日 | Weblog
戦略は動かさない。動かしてはならないものです。戦術は状況に応じて、組み合わせと手をコロコロと変える。変えなければ、やっていけないものです。

自社が対象とするお客を決める。つまりターゲットを決めることも戦略のひとつです。
お客とか消費者といっても、実際はAさん、Bさん、Cさん、それぞれ固有名詞の総称ですから、固有名詞ごとにニーズは異なるわけですから、「皆さん、いらっしゃい。いらした皆さん、みんなにぴったし。皆さんに満足いただけるお店です」といったお店づくりは現実不可能。
一方、完全に個別対応というのも、理想としては目指すべきだけれど、現実はなかなか難しい、ということで、ターゲットというアバウト、曖昧な概念を採り、レディズショップ、メンズショップ、それも低価格をひたすら求めるお客を対象、品質など価格以外にこだわるお客を対象とするお店、といったようなことで絞り込む。

その過程は、「択一」の連続です。択一こそ、戦略の本質です。脳の働きの根本です。コップに氷とお湯を入れることは出来ないからです。
そういうことで、世界60億余万人の消費者から、我が社はだれをお客さまにするか。明確にしておく。そのうえで詰めていく。詰めていくという概念には、時間がかかる、プロセスがある、ということが含まれます。そうした意味からも戦略が変わると、また一から、といことになるわけです。キッドショップをやめて、明日からラーメン店に、といったことを想像して欲していただければ、と想います。だから戦略は変えない。めったなことで変えてはならないということです。ですから戦略をもって、状況の変化に対応することは出来ない。逆に言うと現状に対応できない人、いわゆる頑固者といわれている人は、この戦略でもって世の人に対応している。「それが、おれの性分なのじゃ」、「だれがなんといおうと、梃(てこ)でも曲げない」といった人たちのことです。

 状況変化への対応する道具、ツール、あの手この手を、戦術といいます。変化に対応するということが前提概念ですから、これは固定的に考えたり、信念を持って頑迷に貫いたり、継続は力なり、といったことではどうにもならない。

ここでひとつ。念押ししておきたいことがあります。
その戦術で効果があったかどうか、ということは、それを行使された、ここではお客に属する「反応」である、ということです。
 わかりやすく、例を取りましょう。
よく、「うちの強みは」とか「この商品の売りは」といった言い方をします。
これ、ほとんど自社強み、同業他社に対しての強みのことを指しているのです。だから、おもったとおりにいかない。当然です。買うのはお客ですからそれでは無意味なのです。だってそうじゃありませんか。消費者が必要もないものを、「我が社の強み」と言って何になりましょう。私の言う強みとは、消費者一人が讃え、感服し、購入したくなる、「強み」です。

こうしたことを頭に置いて、自分の経営計画が、イメージ→戦略→戦術の組み合わせといった流れ図になっているかどうか、今一度、見直し、整理して欲しいのです
これまで多くの経営計画をみてきました。ほとんどにこうした体系がない。
つまり、流れるものがありません。流れていません。戦略がコロコロ変わります。戦略を消費者に直接ぶっつけることをやっています。戦術が固定化されています。自社の繰り出すあの手この手が自社・自分都合です。お客の都合、反応に無関係に繰り出している。

こうしたことが、ひとつでも心当たりがあれば、それは経営計画として機能していないとみて、そこから私の出番ということです。


期待の裏切り方

2007年05月12日 | Weblog
企業の不振は、多くの場合、まず売れなくなる、という企業外の反応の変化に始まる。これは換言すれば消費者が、その企業なりお店に背を向けたことに他ならない。では、消費者をして、そうした反応、対応をなさしめた理由はなにか。外の人間には、個々企業の内部は、実のところわからない。
だから消費者の判断材料としての、1にその企業との接点を通じ、垣間見えてくるものや体感したもの。2に、その内部が流す、おそらくはその企業の都合の良いことを強調し、都合の悪いことを控えめに、といった加工情報、大きくはこの2つの情報により判断している、とみてよい。
この二つを持ってどう判断しているか。それは1と2の温度差の違い、この乖離である、と、私は考える。

これは普段私たちが、あまりにも言行不一致の人に対して、「あの人はいうことと、やることにあまりにも差があり、信用でできない。不信感を覚える」といったことで、敬遠するのと同じこと。

営業マンが得るときには、親切で良いこと言うが、後になると知らん顔。コスしたことが、最近の保険業界で多発すると、国民は怒り、消費者としてそうした企業へこぞって背を向け始めるのは、当然である。まさに言行不一致による不信感が、その企業、その業界だけではなく、消費全体への停滞感、不振感を招くのである。
こうしたことから、消費者の期待を高めることが中心であったことが企業のPRである、としたら、そのことにより現実との乖離がさらに開き、そのことで消費者の不振を招く恐れを、十分頭に入れなければ、逆効果になることを著している。

言葉を換えて言うなら、期待を高めて、それを裏切って、期待はずれさせたら、その落差の分、消費者の怒りは大きいと考えなければならない、ということである。
では、どうしたらいいのか。
その前に、念押ししておきたいことがある。「期待を裏切る」ことには、内容として2つある。消費者にとって良い方」と「悪い方」。さらに、2つある。高い方へ裏切るか、低い方へ裏切るか。この2つである。これをマトリックスで表現すればわかりやすくなろう。

○消費者にとって良いことを、その期待していることより高い方に3倍ぐらい裏切ればどうだろう。諸費者は、大感激して興奮するだろう。その感動を人に話すかも知れない。

○消費者にとって良いことを、その期待していることより低い方に3倍ぐらい裏切ればどうだろう。諸費者は、がっかりして、自分の選択を悲しむだろう。それは、その企業への怒りになるかも知れない。

○消費者にとって都合の悪いことを、その想像している程度より高い方に3倍ぐらい裏切ればどうだろう。諸費者は、大いに怒り、興奮するだろう。その怒りを人にぶっつけるかも知れない。

○消費者にとって都合の悪いことを、その想像している程度より低い方に3倍ぐらい裏切ればどうだろう。諸費者は、大いにその企業を見直し、自分の思いこみを見直してくれるかもしれない。その感想を、「おもったより、よかったよ」と人に言うかも知れない。

以上、納得されたら、これからの自分の企業なりお店のPR,、販促、イベントのやり方が、具体的に見えてくるはずである。

内と外の温度差

2007年05月11日 | Weblog
企業の不振は、多くの場合まず売れなくなる、という企業外の反応の変化に始まる。
これは換言すれば消費者が、その企業なりお店に背を向けたことに他ならない。では消費者をして、そうした反応、対応をなさしめた理由はなにか。

外の人間には、個々企業の内部は、実のところわからない。
だから消費者の判断材料としての、
1に、その企業との接点を通じ、垣間見えてくるものや体感したもの。
2に、その内部が流す、おそらくはその企業の都合の良いことを強調し、都合の悪いことを控えめに、といった加工情報、

大きくはこの2つの情報により判断しているとみてよい。
この2つをもってどう判断しているか。それは1と2の温度差の違い、この乖離である、と、私は考える。

 これは普段私たちが、あまりにも言行不一致の人に対して、「あの人はいうことと、やることにあまりにも差があり、信用でできない。不信感を覚える」といったことで、敬遠するのと同じこと。

 営業マンが売るときには、親切で良いこと言うが、後になると知らん顔。こうしたした実態が、最近の保険業界で発覚した。そうすると、国民は怒り、消費者としてそうした企業へこぞって背を向け始めるのは当然である。
 まさに言行不一致による不信感が、その企業、その業界だけではなく、消費全体への停滞感、不振感を招くのである。

 こうしたことから、消費者の期待を高めることが中心であったことが企業のPRである、としたら、そのことにより現実との乖離がさらに開き、そのことで消費者の不信を招く恐れを、十分頭に入れなければ、逆効果になることを著している。

 言葉を換えて言うなら、期待を高めて、それを裏切って、期待はずれをさせたら、その落差の分、消費者の怒りは大きいと考えなければならない、ということである。
では、どうしたらいいのか。

 その前に、念押ししておきたいことがある。「期待を裏切る」ことには、内容として2つある。消費者にとって良い方」と「悪い方」。さらに、2つある。高い方へ裏切るか、低い方へ裏切るか。この2つである。これをマトリックスで表現すればわかりやすくなろう。

 ○消費者にとって良いことを、その期待していることより高い方に3倍ぐらい裏切ればどう だろう。諸費者は、大感激して興奮するだろう。その感動を人に話すかも知れない。

 ○消費者にとって良いことを、その期待していることより低い方に3倍ぐらい裏切ればどう だろう。諸費者は、がっかりして、自分の選択を悲しむだろう。それは、その企業への怒 りになるかも知れない。

 ○消費者にとって都合の悪いことを、その想像している程度より高い方に3倍ぐらい裏切れ ばどうだろう。諸費者は、大いに怒り、興奮するだろう。その怒りを人にぶっつけるかも 知れない。

 ○消費者にとって都合の悪いことを、その想像している程度より低い方に3倍ぐらい裏切れ ばどうだろう。諸費者は、大いにその企業を見直し、自分の思いこみを見直してくれるか もしれない。その感想を、「おもったより、よかったよ」と人に言うかも知れない。

 以上、合点されたら、これからの自分の企業なりお店のPR、販促、イベントのやり方が、具体的に見えてくるはずである。

知恵と行動

2007年05月10日 | Weblog
知恵は、行動による試行錯誤(これこそ、「考えること」なのだ、と私はかってに思っていますが)」にはよって生まれるものなのだ、とおもいます。学んだものを知識、これを材料として、動くことで、知恵になす、というプロセスは、食材を、料理し口や胃、小腸などの活動で消化することで体に取り込み、血肉とする、ことかに倣ったことです。

ですから、繰り返しになるのですが、「考えること」は、動くこと抜きではできないのではないか。なぜなら考える材料は、これまで脳に蓄積された知識という在庫とあらたに外部から脳の中に仕入れ、取り込まれたもので成り立っていると思うからです。

そう考えると、誰かがいったこと、本に書いてあったこと、インタネット情報などを、口に入れ消化せず、そのままはき出すようなことでは、血肉にもならない。高性能のICコーダーから、素晴らしい講演が流れたとして、「このICコーダーは高性能だから、素晴らしい講演をしている」と、感服する人はいないでしょう。

でもこのコーダーと同じようなことをして、結構粋がっている人は少なくありません。聞いている人は、へきへきしているのに気づかない。立派なことを言った人が立派だということにはならないわけですから当然です。立派なことをして、なして、行動して、世間の人は立派な人だ、と人は認めてくれるのですから。

幼い子供ならともかく、きちんと自分なりに消化して、自分の知恵化して、自分の言葉でいう。これが大人です。

 しかし、ただむやみにそこらを動き回っても、かかるエネルギーが無駄になるばかりか、成果は得られません。上で、あえて「動く」と表現したのは、行く方向が定まっている動きである「行動」と区別するために、あえてそう表現しました。つまり行動は、「何かの成果を得るため」という目的志向的な動きです。

何をなすかわからないまま、材料を集めに動いても、料理になりますまい。インドカレーを作る、と決めたら、効率的に必要な者を求めて行動できますし、旨いか不味いの差はあってもインドカレーができます。まちがってもオムレツができることはない。

「目的志向」の凄いところです。動きに目的を持たせると、行動になる。その目的志向をさらに強く打ち出すために、私たちは『戦略を確定する』といったことを、実は日常生活でも意識せず使っている人もいる。使わない人もいる。使う時もある。使わないこともある。これを意識して誰でも、いつでも使うようにしたら、すごく進歩発展するぞ、やろうじゃないか、ということで出来たのが、脳力開発なのです。ご興味ある方は、徳島や新潟・十日町市で年に何回か、不定期にやっていますので、ぜひ一度のぞきに来てみてください。詳細は、私のホームページ http://jatsudon.in.coocan.jp/
をご覧ください。