世の中のあらゆるものは、それぞれの目的を担って、また全体的に有機的結合されている。システム、社会、生物の生態系、人間の体、等々皆、そうしたつながり、組み合わせの視点からみることができる。そしてどんな小さな存在であろうと、その存在がないと、そのシステムは機能しない。有機的ではない組み合わせ、すなわちバラバラでも機能しない。これは大きな柱時計を中を除いてみたら一番わかるだろう。
日常性も、そうだ。生活もそうだ。人工的なもの、特殊性が強いものは、その周辺との連携性に欠ける。だから、強そうに見えてもろい。景観にあう建物は、背景を景観に守ってもらっていることを意味するし、景観を壊すものは周囲から孤立しているが故に、周囲から支えをもらえない。
こうした考え、視点から、個という企業を見る。また個の企業の中で、「おやっ!?}と感じるものを見つけることから経営革新の糸口を見つける。これはこの仕事について以来、25年、この考え、やり方を積み重ね、磨きをかけてきたつもりだ。
もちろん普遍性あることだから、私は企業の事物のみならず、人も小説や映画なども、そうした見方を無意識にしている。たとえば、生活感の乏しい某元首相が、大蔵大臣になった時、とても案じて、あっちこっちにその憂いを書いた根拠も、床屋以外自分でお金を使ったことがない、買い物したことがない、とその彼が公言していたのをTVで見たのがきっかけである。事実、その後大変な不況に陥ったのは、けして偶然ではない、と思っている。
町をみる時も、そうである。
この町が、町の人の表情。生活感があるか、時間軸、すなわち歴史に支えられているのか。
庶民の生活が豊かであるということは、そこの王様が良い政治をしていたことを物語るが、王様が良い生活をしていることは、庶民が良い生活をしていることを表さない。こうしたことを考えながら、町の中心部に豪華な行政のお城をみたりし、それで感じたことを書き留めておく。
時間軸、すなわち歴史は、文献だけでみるだけではなく、歴史が残したものと歴史を彩った人物の言動と、これまたほとんど無意識につきあわせて見ている。文献だけでは、歴史の過程での権力者の保護と濾過によって残っていることが多いので、そのゆがみを削がないと、事実に近寄れない。
経営者が、経営を書物に学ぶ傾向を案じるのは、そこに理由がある。
生活感、現場感に乏しい普遍性の乏しい、すなわち特殊性を、如何に堆積しても、あるいは連結しても、経営の全体と事実を表すことにならない。だが人が保管し、記録に残そうとする者は決まってそれらなのだ。
そうして歴史も経営も、それ以外のことも「事実」がゆがめられる。それらを起点として見る限り、こまったことに歪んだかどうかもわからないで終わってしまうのである。まさに「結婚詐欺、一生騙せば、良い夫(妻)」である。
「おや」っとした、かすかな疑問は、1に全体と個のつながり、2、時間軸、すなわち歴史、3,日常性すなわち普遍性、この3つの条件を欠けると起きなくなることを、心したい。
年を重ねることは時間軸、歴史を重ねることなのだから、高齢化時代はむしろ有利になる。年のせいにしては年が怒る。その有利性に着眼して、活かすことこそ普遍性ある対応、である。、「おやっ?!」と感じれば、進歩発展、経営革新だ。
肝要なことは、「おやっ?!」と感じる心を失わないことである。
日常性も、そうだ。生活もそうだ。人工的なもの、特殊性が強いものは、その周辺との連携性に欠ける。だから、強そうに見えてもろい。景観にあう建物は、背景を景観に守ってもらっていることを意味するし、景観を壊すものは周囲から孤立しているが故に、周囲から支えをもらえない。
こうした考え、視点から、個という企業を見る。また個の企業の中で、「おやっ!?}と感じるものを見つけることから経営革新の糸口を見つける。これはこの仕事について以来、25年、この考え、やり方を積み重ね、磨きをかけてきたつもりだ。
もちろん普遍性あることだから、私は企業の事物のみならず、人も小説や映画なども、そうした見方を無意識にしている。たとえば、生活感の乏しい某元首相が、大蔵大臣になった時、とても案じて、あっちこっちにその憂いを書いた根拠も、床屋以外自分でお金を使ったことがない、買い物したことがない、とその彼が公言していたのをTVで見たのがきっかけである。事実、その後大変な不況に陥ったのは、けして偶然ではない、と思っている。
町をみる時も、そうである。
この町が、町の人の表情。生活感があるか、時間軸、すなわち歴史に支えられているのか。
庶民の生活が豊かであるということは、そこの王様が良い政治をしていたことを物語るが、王様が良い生活をしていることは、庶民が良い生活をしていることを表さない。こうしたことを考えながら、町の中心部に豪華な行政のお城をみたりし、それで感じたことを書き留めておく。
時間軸、すなわち歴史は、文献だけでみるだけではなく、歴史が残したものと歴史を彩った人物の言動と、これまたほとんど無意識につきあわせて見ている。文献だけでは、歴史の過程での権力者の保護と濾過によって残っていることが多いので、そのゆがみを削がないと、事実に近寄れない。
経営者が、経営を書物に学ぶ傾向を案じるのは、そこに理由がある。
生活感、現場感に乏しい普遍性の乏しい、すなわち特殊性を、如何に堆積しても、あるいは連結しても、経営の全体と事実を表すことにならない。だが人が保管し、記録に残そうとする者は決まってそれらなのだ。
そうして歴史も経営も、それ以外のことも「事実」がゆがめられる。それらを起点として見る限り、こまったことに歪んだかどうかもわからないで終わってしまうのである。まさに「結婚詐欺、一生騙せば、良い夫(妻)」である。
「おや」っとした、かすかな疑問は、1に全体と個のつながり、2、時間軸、すなわち歴史、3,日常性すなわち普遍性、この3つの条件を欠けると起きなくなることを、心したい。
年を重ねることは時間軸、歴史を重ねることなのだから、高齢化時代はむしろ有利になる。年のせいにしては年が怒る。その有利性に着眼して、活かすことこそ普遍性ある対応、である。、「おやっ?!」と感じれば、進歩発展、経営革新だ。
肝要なことは、「おやっ?!」と感じる心を失わないことである。