経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

三葉虫と恐竜、滅びの論理

2007年05月04日 | Weblog
三葉虫が、地球を制覇していたに時代があった。そのおびただしい数が、他の種を圧倒していた。それが消えた。
恐竜が、この地球を我が物顔で闊歩していた時代があった。あの巨大さが、他の種を圧倒していたという。それが壊滅した。
このように、ある種が栄華を極め、そして消えていた。なぜか。
前者の消滅の理由は、その繁栄にある。数が増えすぎたことにある、というのが定説。
後者の消滅の理由は、その巨大化にある。大きくなりすぎたためというのが定説。

ミクロでいえば、少なくとも生き物には、ライフサイクルがある。たとえば人は小さく生まれて、徐々に成長し、大きくなり、やがて死を迎える。これは、あらゆる例外のない普遍の原則である。マクロが、ミクロを調和したものであるということであるならば、人類は人の総和であるから、このミクロの人の持つ、このミクロの原則に支配されることになる。マクロが、ミクロの総和ではない異なるものと仮定しても、このミクロの原則が、適用されないということにはならない。こうしたことを自然の摂理だ、と言うには、私の知識は乏しく幼稚的であるのだが。
だが、自然の摂理ではないか、とここで仮説をしたのは、そうした原則が、生き物ではない経済に持ち入れられている、と考えているからである。

先の三葉虫はその数の増大化により、たとえば彼らの食する食料の需給バランスが崩れたこともひとつ、と考えたら、これは経済の、需給と供給の原則。
先の恐竜は、その巨大化により、その身体組織の、たとえば情報伝達力の鈍化現象が起きたこともその理由のひとつ。

さて、ここで反論があろう。前者。需給と供給の原則とは、コップがあって、コップの要領以上の水を注いだとしても、落ち、こぼれる。この「落ち、こぼれる」ことによって、コップの中の水は安定する。それでこぼれる三葉虫が出ることによって、大多数の三葉虫は種を保てるはずだ、と。
これ以上は、ダーウインの本でも読んでみなければ、私には答えようがない。
そこで、経営の例で考えてみる。


倒産ということは、消費者がこれ以上は、そういうありかたは、通用しない。もう通さんぞ、といった意思表明の選択が多数だった、ということ。消費者がうちらに貢献してへん、といった判定をくだした結果だと考えたらどうだろう。
ミクロでは凶器有価状になれば、工場の操業調整をしているではないか。

ところが、マクロの企業になると、国が嘗ての社会主義国家並ではないにしても、
保護政策を採っている産業がある。こうしたことで調整弁が働くことがない産業、あるいは企業は、三葉虫と同じ運命で、やがて消滅するのでは、と案じているのである。

おそらく、三葉虫には、増え続けることが種の繁栄、という方針しかなく、調整機能を想定していなかったのだ。
おそらく、恐竜は、大きくなることで、天下をとれる、という方針しかなく、組織効率の概念がなかったのだ。

倒産は、倒産しない企業から見たら、必要なのです。Aというお米屋が倒産したから、今晩からお米が食べられない、といったこともないから、消費者にとっても困ることはない。
冷たいようですが、それが現実。この冷厳な事実が、国などの統制により機能しなくなる、といったことがあれば、その方がむしろ不幸なこと。

倒産がある。だから倒産しないよう工夫する。工夫を競ってくれるお陰で、消費者は選択の楽しみが増え、それがまたマクロの消費を増やす。こうした腎管こそ、種のゴーイングコンサーであり、社会、国家、企業の永続的発展の礎にある。そうしたことを、私はわからないまま、自然の摂理、と思っているのです。
自然の摂理により、淘汰されたくないのなら、消費者に残って欲しいといわせるだけの貢献をし続けることです。あなたの企業が生き残るために尽してくれる消費者を増やすことです。自業界の繁栄、自社を大きくすることに始終していては、あなたの業界は、先輩、三葉虫。あなたの企業は、先達、恐竜と同じ。同じなら、同じ末路を辿ることになるのでは。