経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

情報の偏りをどうするか

2006年12月04日 | Weblog
昨日の続き。
人すべてが知らずして入り込んでいる危うい「トコロ」で、私たちは生きている、といったことを述べた。

 では、どうしたらいいか。その解は、手前味噌ながら、師の城野 宏が提唱してきた「脳力開発」にある。これはキーワードで示せば、「動く」ことと「協力関係」、それに「普遍性」、もの3つで、思うことを述べてみたい。

 動くこと、協力関係。これを私流に簡単に説明すると、「前だけしか見えないのであれば、後ろを見よ」。「自分の足りないところは、協力関係でカバーせよ」、ということになる。
 (普遍性については、後述する)
 
以下、「情報」を例に取り、画竜点睛の誹りを受けたい。
情報を集めて、そのほとんどが共通、同じ方向にあったとする。たとえば敵は右の道から来るだろう、という意見が90%だった、ということ。多数決や重要性の原則ではこの10%は無視される。ここでも大を取り、小を捨てる、といった、とんでもない論理が、一見正論として大きな顔をしてまかり通ることになる。こと選択の問題として、例を挙げればわかりやすい。選択は択一だから、小さいもの、ここでは10%は切り捨て、つまり存在しないものとして、無視されることだ。これは、ないもの、みえないものを見えないと、とするのではなく、明確に見えるものを、無「視」、つまり見えないものとして扱おうということだ。

よくいじめ問題ででる、この「無視される」ことが、どんなに残酷なことであるか、ここで述べることもなかろう。

話を戻す。
敵(=対応すべき対象物)は、当方の情報の確率、その読み方に従って行動しているのではない。むしろ相手が右と読むなら左の道から来ることを選択するということになる。大を取り、小を捨てるありかたでは、対応できない。確率論も過去のシュミレーションも然り。

ではどう考え対応したらいいのか。
ここで、味方の90人が右といっているのなら、なにもそれに反対することなどない。そのこと自体が、情報の一つとして、受容し、あなたは他との10%に対して、情報を収集し、備えればいいのである。みんなが上を向いているときには、あなたは下を見る。これで上下を見ていることになる。欠けているところを見る。少数派にたってみる。これでまさか、といったことを避けることができるのである。

もう一度整理しておきたい。
 目は前方180度、見える距離にも限界がある。足を使ってぐるりと回れば360度みることができる。遠くが見えないなら、近づけばよい。そのために足がある。双眼鏡を使う手もある。自分でみることができないところは、同志に頼む。

 1にその口もある。手と足と口を使って動くこと。
 2に、仲間、同志、友達との協力関係づくり

 この二つが、生きていくに不可欠なことだ。
 だから、「それみろ、俺のいった10%の方で、敵は来ただろう」と思ったり、言ったりしたのでは、リーダーとしては完全失格。2の要件を失うからである。

 他の大多数が、90%を一挙に消去法で絞ってくれたからこそ、自分は10%に集中できたのである。この世、こうした協力関係の存在で成り立ち、その成り立ちの中に生きているのが、この私たちなのである。

 ならば
 
 国はどうあるべきか
 企業はどうあるべきか
 自分はどうあるべきか

 皆々、同じ式で解を得ることができる。

 余計なことだが、経営指導をして25年、つくづく思うことは、経営者というのは実にまあ、普遍性を無視し、特殊性を追いかけるのが好きだな、ということである。
 見よ、今朝の朝刊にも、宝くじを当てて成金したような輩の本が、絶賛売り切れごめんだって。

 これが脳力開発でいう、「特殊性」と普遍性」の意味である。やれることとやれないことがある。やれないことは特殊性。やれないことは、やれないから、何の足しにもならない。

 世の中には、見えるものと見えないものがある。
 見えないものは、形として現れない限り、他人はいざ知らず、凡夫の私は見ることができない。見たいとも思わない。なぜなら見えるものを、見過ごしたり、見逃したり、見違ったり、見落としたり、見て見ぬふりをしたり、見誤ったり、見下したり、見上げたり、そういったことばかりにかまけている日々だからだ。残りの一生を掛けて、見えるものだけでも、正しくみたいものだ。積み残しの「見えないこと」は、あの世への宿題。むこうでゆっくりやろう、と考えている。

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