経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

私が歯の治療に新潟の十日町市の鈴木i医院へiいくそのわけ

2005年10月18日 | Weblog
現実には法の規制があるから、かりにということで、もし積極的に宣伝や営業活動するお医者がいたとしたら、どうおもうだろうか。、手術代の半額キャンペーンがあったら、並ぶだろうか。ずいぶん前、そんなことを考え、営業のない経営の研究に没頭した。自己矛盾が嫌なので自分の会社でも、当然営業活動をやめた。それに自分の会社で実験しなければ、誰も、どこも受け入れてくれるはずがなかった。
 7社あった顧問先ですら、びっくりされたのだから。

 今はなれたから、まったく辛いと思わないのだが、当初は辛かった。
こんな田舎で、と、自分がびっくりするくらいあった売り上げが、たちまちその半減、またその半減と落ちていくのは、生活に直結するだけに苦しかった。
 でも曲げたら自分は、お終いぞと耐えてきた。妻が、アルバイトをして支えてくれた。ついにはアルバイトでは足りずスーパーに勤めて生活を支えてくれた。

 おかげで、もとに戻らずやり続けることが出来、随分成功事例が蓄積された。うまくいった事例から、こうすればうまくいくというルールを。うまくいかなかった 事例から、こうすればうまくいかないというルールを掴む。さらに前者を理由を除去し、後者の理由を入れる。この積み重ねで、普遍性のある、そして確信の持てるセオリーができる。。

 時間はかかったが、完成した。あとはこれを多くの人に、と取り上げていただければいい。実績がでた企業の経営者から、口から口へ。講演などを通じて、理解していただいた方の口から口へ、広がればいい。
 
 鹿児島の私が、歯の治療に、遠く新潟の十日町市の名医、鈴木宏先生のところへ通うのは、近くで便利で、優しい親切な、「やぶ」に1年通うより、年に2回で徹底的に治してくれる名医の鈴木先生の方が良いからだ。

 私の理論がの、真に役立つものならば、口から口へ、伝わり、本当に自分の事業を、「繁栄し続けるもの」にしたい方が、縁ををたどって来てくださる。遠くにいる人、近くにいる人、距離に関係なく、真の願いは持つ人はおられる。そうした、良いご縁を待つ。
 
 

最近、私が妻を大事にし始めたその理由

2005年10月17日 | Weblog
 1945年に封切られた「素晴らしき哉、人生!」というアメリカ映画は、まさにそのタイトルどおり、素晴らしい映画である。

 この2時間を超える映画の1時間40分は、ツキなし、お人好しの一人の男のただただひたすら奮闘記である。残りのうち20分が、その主人公が破滅に苦しむ。肝心な「素晴らしき哉、人生!」は、最後の10分程度。これでは、看板に偽りありだ。

 だがそうではない。またこれを単純なハッピーエンド映画と見るのでは、どうも納得いかない。

 それは最後の方で、「友がいる者は、敗北者ではない」という天使から主人公へのメッセージが出てくることで、でこの映画の長い長い前半が、実は複線になっていることがわかる。この謎解きができて、初めてタイトルの、「素晴らしき哉、人生!」の本当の意味が理解できるのである。
 それぐらい含蓄のある言葉なのである。
 このブログ映画の批評を行うつもりはない。(映画に興味がある方はhttp://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=jatudonka をご覧ください)

 映画を借りて、言いたいことを言いたいのである。まずはネタバレしない範囲で、この映画を見て置きたい。

 主人公のジョージは、小さい頃から何事につけ貧乏くじを引いてしまう。町を出て、広い世界での成功を見ていたのに、出る寸前に父がなくなり、つぶれかかった家業を継がざるようになった。新婚旅行も出かける直前で、会社の信用不安が発生オジャン、といったようになにごとにつけ、うまくいかない。

 父親から引き継いだ家業は、住宅業なのですが、人が良いため取引はいつもお客さん有利で、ほとんどもうからない。さらに彼の会社を買収を狙う悪徳有力者に様々な嫌がらせを受け、ついに会社に80000万ドルの穴を出してしまう。そこで自殺を試みるのだが、これすらじゃま失敗。
 結局、結局ディームス・スチュアート演じるこの主人公 ジョージは、何1つ自分の夢は実現しませんでした。
 
 ここからです。申し上げたいことは。
 自分の夢は実現しないこと。イコール ジョージの人生は、不幸?とんでもない。タイトルのように彼の人生は、「素晴らしき哉、人生!」そのものだった。

 なぜか、彼は自分の夢を果たすことではなく、町の人々の夢を果たしたのです。
 事業では損ばかりしていた、と上に書きました。裏返して言えば、その分彼のお客さんは得をしたことになります。彼のおかげで、やすくで家を手に入れてた人は喜ぶことになる。

 でもそうしたことは事業の資金繰りにはマイナスになってもプラスになることはありません。ここが微妙なところですが、短期的にはそうです。。
 でも人生いのです。そうした自分の得を考えずに、町の人の方、良かれの彼のあり方が、町の人たちが、彼の友として潰れること間違いない彼の会社を支えてくれることになるのです。それが「友がいる者は、敗北者ではない」という言葉の背景にあります。

 ここで彼が目標として、困ったときに支えてもらうために、町の人に善くしていく目標を、最初に立てて動いていたらどうなったかわかりません。わかりませんが
それは、打算には間違いない。恩着せがましくとか、「いざというときのために人脈を」というのでは、どうでしょう。
 私は自分の専門が、「経営戦略」なのですが、そういったことが嫌い。受け付けません。

 ここはやはりジョージみたいに企みなしに、というのでなければ、こんな嘘みたいなラストシーンは出てこないのでは、と思います。企みのない人が、信頼や信用を蓄積できるからです。

 そもそも町から出られなかったことで、彼が町での「素晴らしき哉、人生」を送ることになった。こうしたことを考えると人間の浅知恵で、人生を動かそうなんて考えることが、どうかな、って気もします。

 彼の奥さん役が、この映画の数年後の作品「地上より永遠に」でアカデミー助演女優賞を受賞しているドナ・リード。この妻の存在も見落とせません。

 妻と友、これが素晴らしい人生には不可欠。生きるための手段として、「夢」が大切だ、ということは否定しない。しかしそれは目的ではない。では目的はなにか。、素晴らしき人生を送ること。そのために何が、この「何が」が人によって異なるのでしょうが、それが妻と友とこの映画ではいっている。
 これを広げれば、「 他人との繋がり(嶋崎喜一先生)」ということになるのでは、と考えらました。 時には、人智より天智、神よりかみさん、自得より他得、おおよそ経営学に逆らうところにも、素晴らしい人生があるかも、といったことに思いを寄せてもいいのかな、とそのことを書いておきたかった。
 
 ちなみにこの映画のDVD。書店で500円で買えます。


 

営業の本が売れ続ける。その理由。、

2005年10月16日 | Weblog
 書店におびただし営業・販促の本が並んでいる。それだけ売れない、あるいは売ることに潜在的な不安を持っている個人や、企業が多いということであろう。

 様々なタイトルの営業、販促に関する本が並んでいる。しかも、次々と入れ替わる。著者も、タイトルも、次々入れ替わる。

 こうした状況から、何が読み取れる。
1に、それらの本はすべてとは言わないが、ほとんど効果がない、ということである。理由は以下の通り。 (著者に問題有り、という意味ではない。私も書き手だから、それは言わない)

①「私はこうして営業に成功した」という類の本は、その著者の特殊性が加味されている。その特殊性が故に、、購入した読者は、自分や自社に適応できないことがほとんどだ。② 「感性時代の営業法、不常識のなんとか」の類の本は、その著書の経験の範囲内における普遍性を説いたものである。そこで多くの読者はその普遍性に惹かれ、「俺でもやれる」と思い購入する。しかし、現実に実施しようと思えば、会社それぞれ特殊性、固有性をもつから、それが理由で、普遍的なものを固有に、逆翻訳しなければ使えないことに、なる。そこで本の多くは、事例ややり方など、戦術を示しているが、その親切が仇になる。なぜなら事例がやり方は、常に特殊的なものだからである。こうして、この本は使えない。として役に立たのということになる。

2に、こういう問題もある。出版社、書き手から見た場合、たとえば、「たちまち売上が上がる方法」の類の本がいいか、「売れる体質づくり。10年後には営業は入らない」の類の本を出すか、これは目先、どちらが売れるかの問題であるから、答えは簡単。

 読者にしてもどちらを買おうかというと、まずは、「今日が食えての明日」だろう。

 こうして売り手と買い手のニーズが一致。書店に並ぶ本は、「とりあえず今日売れればいい本」がずらりと並ぶことになる。

 ところが読者は、その購買動機となる「とりあえず今日売れればいい本」の類のどの本を買ったにしろ、①1に述べた理由で、費用対効果の効果は期待できない。②「とりあえず今日」ということは、明日以降は期待できない。そればかりか、明日を担保に今日の売上ということになる、の問題が内包されているのである。、

 水虫の薬を買って、切れ間効き目がなかったからといって、資料を断念する人は少ない。また新薬に手を出すはずだ。効き目のなかったこれまでの薬ではなくて、新薬である。こうしてリピートされる。このことは何を意味しているか。このたぐいの薬が、効き目がないということを前提に成り立っていることである。

 それでも、「とりあえず今日売れればいい本」にがっかりした読者は、おかしなことに、「もう2度とこの類の本は買わない」と決意するものが少なく、「今度こそは、、」と、かすかな期待を抱いて、また新たな著者、新たなタイトルの本を購入し続けている。

 つまり出版社にしてみれば、効果がないということを前提にして、成り立つ、いわれる商売になる本は、皮肉なことに、「とりあえず今日売れればいい営業・販促の本」ということになる。

 つまり売り手側からみたら、この商法こそ、営業業績が期待できる「営業あるいは販促」なのだ。だが読み手から見たら、まずは投資対効果が期待できない、ばかな意思決定になる。

 そもそも、そうした投資に対して効果を期待できない、損をする判断を繰り返すような読者が、いい営業マンになれるわけはないではないか。
 さらにそもそも。誰でも簡単に触れるようなノウハウが、書店の平積みの台に並べられた2000円以下の本の投資で、安易に手に入ると微かな期待を持つような人が、いい営業マンになれる資質があるはずがないではないか。

 

「大望を抱けばこそ」 

2005年10月15日 | Weblog
 人をみな、限度に近づくと無意識にブレーキがかかります。これは、人が本来持つ、いわば赤信号が、正しく機能していることを示しています。
それを無理して、走ろうとすると、人は狂い、破滅に向かうのです。

 人間の機能を最適最善に生かすために、心と体で構成された組織体を人はもっています。
 
 「壁」とは、つまり赤信号が正しく働いた証ですから、むしろ人間として喜ばしいことです。
 
 あとは、心と体が出してくれたそのシグナルに、どう謙虚に、どう素直に、耳を傾け、工夫改善を図り、進歩発展をはかっていくかです。
 これが人としての革新、進歩発展としての最善の方策です。
 
 こうした健全な人としての機能を、モジュライトしたのが経営の組織体です。経営に問題があるとしたら、人工的経営そのものではなく、それを作り、それを動かす「人間の方の組織体」に根本問題がある、と考えます。

 経営者以上の、経営ができるわけがないと言われるのは、その意味です。

 人間という組織体にも、心事業部、身体事業部、仕入係、出荷係、広報係、配送係、すなわち 口、耳、手足、心臓、肛門といったようにそれぞれの機能を果たす役割分担がある。これらをいつくしみ、健全を保つことで、人間としての組織体が機能する、ということです。

 体が健康でなければ、組織は健やかな機能はできなくなります。
 心が健康でなければ、組織は、正しい反応はできなくなります。
 各部署、それぞれをを、いつくしみ、仲良くなれるよう、心が絶えず配慮しなければ、組織の各部位は、たちまちバラバラに、すさんでしまいます。

 繰り返します。企業組織は、人間という組織のモジュライトなのです。
企業の革新を成す場合、まず成す人間の方の組織が、心身共に健全であるのか、求める企業革新レベルとの乖離はないのか、確認を行くことが大切です。

 自動車で外出をする前に、車の点検をするが如く。
 この点検係が、道を示す師、聞き、言う友、諫言を吐く部下、です。

 人誰しもこの三者を欠くと、自分が見えず、傲慢になる、自信喪失する。そして自滅への道を歩み始める。
これは、紀元3千年の古今東西の歴史が証明しています。

 人は哀しくも、弱いものだからこそ、この三者は欠かせないのです

 大望を抱けばこそ、心すべきことはこの3者を身近にこの三者を置くことです。

情報開示の重要性を知るべし

2005年10月13日 | Weblog
 世の情報開示が潮流になったこと。だが企業はどうも消極的だ。そのマイナス面をみて、プラス面を見てみようとはしていない。このことは、どの世界にもいる保守主義者と同じ、哀れな末路を迎えることになる。

 簡単にいえば、もったいないじゃないか、と私は思う。消費者は自分の稼いだお金から買い物(投資)をするのだから、リスクを避け、少しでも有利な買い物をしたいという欲求は潜在的に強い。ならばそのための公平な情報開示を、強く欲求している。あんらば情報開示した企業を選択肢、そうでないところに背を向ける。自明の理である。
 
 消費者の情報ニーズがことさら強いのは、国政が情報開示をまな板に上げたが故ではない。会社のお金や公費でモノやサービスを買う場合より、自らの財布から支払う消費者がより真剣になる。ここのところが実感できない。消費者との情報を、むしろ積極的に共有せしめ、さらには消費者が、消費することで自分の生き方や考え方を表現するといったことに喜びや満足感をもつ。それに企業としてはいかに手助けするか、といったことが今後の企業命題となっていることに気がつかないようでは、まず危うい、怪しげな企業の誹りは免れまい。
 
 ましてや自社内のパート、アルバイトなどに情報を与えないような企業では、内部から崩壊は確実である。ちなみに、情報開示の本質は、「信頼」にある。この意味の深さを知るべし。
 

その歪んだ社会システムの象徴、開かずの踏切に思う

2005年10月12日 | Weblog
開かずの踏切で、年配の女性一人がなくなり、もう一人が大怪我をされた。

 別の事故のせいという事情があるにせよ、1時間も開かない踏切がある、ということはいかに、この社会が人を軽視したシステムであるかという象徴である。

 車や電車よりあくまで人が優先。人同士では、より弱者が優先されてこそ、社会システムはうまく機能する。これはシステムの素朴なセオリーである。

ずいぶん以前のこと。 スペインのヘスースシリ牧師主宰の 「ベンボスクこども共和国」ロスクサーカス」の人間ピラミッドというのを知った。

 子供達に人間ピラミッドを作らせる。何度も何度も作っているうち、弱い人間を中心に、小さい人間を上にしないと、うまく作れないことを子供達は知る。

 こうしたことを通じて、世界もこうでなければいけないんだという無言のメッセージを、世界上に伝えてているのが、ヘスースシリ牧師の思想である。(インターネットで調べたが、今は何も検索できない。どうしたのだろう)。

「人に優しい地球環境を」とか「人に優しく」と、口を酸っぱくして教えることの重要性を否定するものではないが、日常の空間や風景が、人間にとって心地よいこと。それも弱者を起点に置いたものであるならば、実効性のないお説教など不要になる。

 思いを伝えるのは、けして言葉だけではないはず。それに「覚えさせる」といったありかたはいかがなものか。
 やはり自分でつかみ、その自分でつかんだものを仲間と共有し、そのことの心地よさを喜び合うことで、伝えられていくのが望ましいと考える。

 車や列車は強く、速い。対して人は弱く、鈍い。それらを人間より優先して道路や踏切や、などなどが造られる必然性などこれっぽっちもないのである。
 強く、早いものが少しだけ譲れば良いことである。それがそうなっていない、主客転倒のシステムにこそ、根本的な間違いがある。間違いのシステムを作った人眼の間違いである。

 人が作った規則ヤシステムは、人が容易に是正できる。間違いは糺せる。即、人優先、弱者優先に作り替えることだ。
 でなかったらなくなられた方は浮かばれないし、また同じようなことが繰り返されるであろう。

 天災防止に妙手がないのであれば、せめて人災は起きない社会を造りたいものである。



今良し、が暗い未来を造る

2005年10月11日 | Weblog
 割安感の乙類焼酎の、いわゆる3Mの1つが1.8リットル5万円で売られている。もちろん特定銘柄だ。大衆酒がこんなにも高額である。
 
 高いということは、自分が買う場合はチョイト困るが、それでも売れるのであれば業界としては悪いことではない、私自身むしろ喜ばしいことと思っている。

 だがそれが投機の対象として、不当に価格がつり上げられている。つまり価値を評価しての価格ではないのである。こうした状況は許されない。投機は見逃してはならない。

 ここまで売れるようになった芋焼酎。その背景には涙ぐましい焼酎業界の苦心があったことを知っている。それを思うとこれまでの苦労に水を差し、最悪の場合水泡化してしまうことになりかねない投機による価格釣り上げといったことは、許してはならない。

 だから、業界はそうしたことを招かないために、投機に対して手を打つべきだ。売れることに浮かれ対策を怠っては、必ず臍を噛む。清酒が通ってきた道を、せめて芋焼酎だけでも取ってはならない。
 そうした思いを一昨年専門誌に書いた。

 だが業界からは「せっかくのブームに水をさす」と冷ややかな反応が多かった。
 さらに原料の芋の生産量を上回る芋焼酎といった、あり得ない現象についても警告した。消費者は無知ではない。こうしたことが、売れるということでの「奢り」で」、見て見ぬふり、身内のかばい合いをしているのであれば、それは消費者を敵に回すことになる。

 対して「売れているからいいじゃないか。消費者が買っているからかまわないではないか。」という声がある。
 だが、この今良しが、先も良しに見えないことは、これまでの歴史が証明している。
 
 明るい希望に満ちた将来のために、今やるべきは、といった戦略眼が乏しいことは哀しいことだ。 今良しが暗い未来を造ることであっては、決してならない。

 

学ぶの本質は、日常性にあり

2005年10月09日 | Weblog
 1939年に上映されたフランク・キャペラ監督の「スミス都へ行く」という名作がある。昨夜、何十年ぶりかみて、政治の本質、政治家の関心は、本来どこにあるべきなのか、あらためて感じさせられた。。

 全知全能の神様には学びが必要なのか。必要だ、と断定して良い。では誰から学ぶのか。そのことを考えてみたい。
 神様はなぜ学ばねばならないか。彼の上には誰もいないが、地球上に人間だけで63億人、それもどんどん生まれ、死ぬから入れ替わる。トップの位置にいるからこそ、彼は人間だけでも63億に、個別対応しなければならないのである。(神様の仕事は個別対応を無視しては成り立たない)。だから、凡夫の私たちより学ばねばならないことになる。63億の皆に名前があり誕生日が違うのだから、それはそれは大変、忙しいはずだ。
 
 この神様を経営者トップのあなたに置き換えてみよう
 トップはトップであるが故に、その学びの場も、情報源も上ではなく下にある。否、下にしかないのである。
 なぜあなたは、上から学ぶことに夢中するのか。少なくともあなたが学び、情報を得る中心は、下からであるはずだ。
 
 消費者を対象としている事業であれば、彼らが購買するかしないかで、事業の死活が決まるのである。だから彼らと、彼らとの接点を持っている販売員からの学び、情報収集がまずは優先されるのは当然である。
 同様、消費者との空間を共有すること。特殊な場より日常性に重きを置かねばならないのは自明の理だ。
 
 で、ここで自問自答していただきたい。この1ケ月。上と下、非日常と日常、業界関連人と一般消費者と区分して、あなたが時間を割いたのはどちらだろう。そのウエイトは、どうだろう。

 以前触れたが青森・日専連で全職員のMMAP研の会をやったとき、常務のOさんは、最初から、中抜けもなく、一般社員と同様、参加されていた。
 ここで100名が平均30のカード(情報)をポスト・イットに書いた。Oさんは、2時間で3000の情報を得たことになる。
 彼のようなスタンスを取る人こそ情報の本質をわかっているトップである。


新しい道のつもりで元の道を歩いているのではないですか?

2005年10月08日 | Weblog
 構造的変革とは、1に今までのあり方ではうまくいかないことを前提にしています。2に、小手先の変化対応では対処しえない状況が恒常化していることを現しています。
 これまでの成功者が,過去の成功体験を持って、今後はこの道だよと先を示す演繹的手法では、うまくいかないのは当然です。
 ですから、たとえば新入社員教育など根本から見直す必要があります。ちなみに私の知っている会社ではでは既に12年前から新入社員が先輩社員に消費者教育をやっています。

 今後は、過去をどれだけ知っているかではなく、どれだけ過去を捨て、虚心坦懐、手空きにし、それぞれの人に自由に個々のやり方で、今に向かって押し寄せてくる未来に対応し、その結果として個々に自ら成功体験も失敗体験も得てもらう。そのなかから普遍性の高いものを集約してルール化していく。 こうした帰納的アプローチが企業経営に関する学習の中心になります。

 経営革新、新しい技法、新陳代謝、いろいろやっても、結局またこれまでの道を歩いている。それが一番安心な気がするのだが、実はこの安心こそ、恐いことはないのです。いつもの道は未来に埋けない迷い道なのですから。

未来が次々やってくる

2005年10月05日 | Weblog
「未来が、今に向かってやってくる」という映画「哀愁」の中のセリフが、好き
です。

未来の方が、こちらへ進んできてくれる、それに対応する。それが生きること
です。無理に進まなくても、未来の方がやってきてくれる。なんとすばらしいことでしょう。でも、後ろを向いていては、受容も対応もできません。どう訓練しても、動物は前に走る方が、後ろへ走るより上手で、早い。

 当たり前のことの中に、生き方の根本みたいなものが、織り込まれている。すご
いことですが、当たり前のことを当たり前に守りさえすれば、人生って単純で簡単。そんなふうに思っています。

 こちらへ向かってくる未来に、この「今」にどかっと腰を据えて、ようこそようこそと、お迎えし、対応する。

 これだけでいいのですからね。楽ちん。次々画面が変わる映画みたいで、おもしろいではないですか。

 ですが、ちょいとでも後ろを向いたりすると、危ない。だから車の運転席は、
常に前向き。人生も前向き。

 でも、後ろから襲われたら、という心配のために、車にはバックミラー、人間
には、先祖、商人には消費者がついてているのです。
 よくわたしが、商人の皆さん方へ、消費者を背につけよ、といっているのはそのことです。後ろに目がついていないのは、そのためであるのかもしれません。

 ちなみに、いつも後ろから見守ってくださる先祖にはお墓参り。では消費者へ
の御礼は??、、、、。これが欠けると、消費者は背を向けて、後ろが危うくなるんです。