経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

他山の石で

2007年01月15日 | Weblog
雪印があの事件を起こしたとき、不二家の人たちは、どう思ったのだろう。
  1,新聞、TV、ラジオなど読んでいなくて、そんなこと知らなかった。
  2,そんなことは他社のこと。内には関係ない。
  3,うちではあり得ないことだ。
  4,内にもあるかもしれないが、知らんふりしよう。
  5,内にあるかもしれない。ないかもしれない。どちらにしてもこの際徹底的に問題を調べ   て、うちの体質改善を図ろう

 まだあろうが、おおむね以上の5つのいずれかとしよう。
当時の不二家が、1-4のいずれであったかはわからないが、はっきりしていることは、5ではない、ということだ。
 
5であったら、どうだろう。今の事件は起きなかった。それどころか、一つのきっかけでこの会社は大きな幸運をつかめたことは間違いがない。

 何を言いたいか。いや自分に改めて言い聞かせていることは、幸運の女神は、平等にあったが、この女神を選択せず、悪魔の方を選択したのは、運でも“つき”でもない。自分の意思決定である、ということである。

 私は、経営指導の仕事を生業にしている。当然のことだが、関心は企業の盛衰である。すなわち企業には盛んになる企業と衰退する企業、二種類があるということである。ではその分岐はなにで決まるのか。誰が決めているのか。今、私のパソコンは動いている。夜は動いていいない。なぜか、スイッチのオンしているから動いている。夜はオフしたから動いていない。ではそれは誰がやったのか。この私である。私の意思決定である。皆、答えは、これ、同じである。

この単純なことを、知らなかったわけではない。知っていた。わかっていた。だがそれは言葉だけであった。

「つき」があるとかないとかも含めて、自分に帰因している。自分の意思決定である。すべてとは言わない。すべてではないだろう。だが自分の性にしないと、自分で手を打てないではないか。飲み過ぎた。二日酔いだ。これ、神のなさったこと。では私はとっくにアル中になっている。

 このことを学んだのは、繰り返される「企業事件」からである。なぜ同じような事件が繰り返されるか、それに関心を持ち、調べていて、気がついた。まさに我が子に教わる思いである。だが、企業のこととしてはわかっても、自分自身の問題として、そのことが心中から理解できたのは、それと同じことが自分の身に起きた時である。

 人の痛みは、わからない。これも普遍性のある事実である。人の痛みがわかるには、その人と同じ身にならないと、実のところはわからない。ところが、現実のところ、生死、盛衰が関わることにおいては、それでは遅いのである。死んでから生きているときの悔いをしても手遅れ。

 だからこそ、あえて意識して、5の選択を習慣づけることを自分に課している。習慣作りしている。まだ道、半ばにも達していないが、死んでからは遅い。間に合うわけはない。だが生きている間であれば間に合う、と私は確信している。