経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

功名が後に-5

2007年01月04日 | Weblog
 NHK「功名が辻」の総集編の中で、解説の武田鉄矢の口を通して、
 
 「ピッチャーは全体が見えない。内野主も同様。全体が見えるのはキャッチャーと外野手。だが前者は中枢に近いが、観客に遠い。後者は観客の反応、声が聞こえる位置にいる。一豊・千代夫妻は、外野手であった」

 と、きわめて含蓄ある言葉を語らせている。

 外野にいて学んだ夫婦、とりわけ千代の知恵が、武功では劣る一豊をサポートした、という意味だろう。

 物語のもう少し先の話になるが、実子を震災で失い、その子の代わりとしてかわいがっていた養子の拾君を幼くして出家させたことは、まさに信長や秀吉の相続争いを他山の石に、自分たちの後継者問題が災いとならないため、夫婦でなした涙の決断であったと思う。

 災いの芽は、早く摘め、と容易に言うが、それは他人のことだからいえること。花木の芽だからいえること。しかもそのかわいい芽が、「ぼくは、将来(さき)に災いになる芽です」といった札をぶら下げているのではないのである。
 こうしたことは歴史と他山の石から学ぶ以外にない。学んだことを実践してこそ、教訓が生きる、ということになるのではなかろうか。ここでの外野手という意味は、そういうことであると解したい。
 
 歴史は時間軸である。だから後ろは見えるが、前は見えない。未来は、未来が今になって、はじめて過去として見える。ならば、過去から普遍性あるものを取り出し、その目で未来を観ることだ。
 
 今、私はパソコンの画面を見ている。見ようとしなければ左右は見えない。後ろも見えない。見えないものは、なにも将来(さき)だけではない。 こう考えれば、時間軸だけではなく、この今の全体を「見回す」こともまた不可欠になる。
 そのためには、全体が見える位置、場を選ぶ、ということがきわめて重要なキーになる。
 
 一豊は、たまたま外野の位置にいて、うすぼんやりながら全体の流れをつかめたということではないか。
 私事。私は、たとえばレストランで何処へ座るか、といったら、全体が見えるところに座るように習慣づけるようになったのは、この理由による。
 レストランで、フロアーマネージァや店長が、どこにスタンバイしているかを見れば、そのお店のレベルが掴める。全体を見ないで、下される判断はいびつに決まっている。

 夫婦しての「一国一城の主」の夢具現、成就が、元会長の死により大幅に早くなったこと。その後の秀吉の本社会長就任。秀吉の死後、勝ち組と下馬評の高かった石田派でなく、家康派につく。結果が出てからの判断ならごく至極、といえるが、当時の諸情勢を考えれば、成り上がり、無学歴の上司より、古参の柴田、インテリの明智などに仕えるという方を選ぶ方が良き選択に思えたはずである。また元上司の2世秀頼を立てようという石田派につく方が妥当な判断だったと思われるのに、一豊は、秀吉の次として家康を選んだ。これが歴史に残る有名な話。小牧城ごと、家康に進呈。やるからには、期待を高い方へ裏切ることをなしたのである。これで土佐一国を手にしたことを考えれば、決断の凄みが伝わって、今の私の胸すら震えさせる。

 小説では、千代のススメとしてある。それもふくめて、前に触れた運と巡り合わせが、彼の味方をした、と思わざるをえない。リーダーの資質として、やはり運と巡り合わせに乗るときの果敢な決断、といったことも抜かすわけにはいかない。

 はて、ではこの運と巡り合わせ、どのように招いたらいいのであろう、凡夫の私は、すぐギンギラギンとそう考えてしまうが、そんなことを考えないで心身を、天に委ねる「思い切り」ではないか、と思ったりもする。しばらく考えてみたいので、この稿、ここで閉じたい。