経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

相手を間違っていませんか

2007年01月23日 | Weblog
 競争の相手は、同業他社。競争は、勝負に勝たねばならない。当然だ。いきおいそこへ意識や関心が集中する。集中させないと勝負に勝つことはできない。
競争の対象は、消費者やお客ではなく、ライバルである。
ライバルを叩き、自分が有利に、ということだ。まさか消費者やお客に代わって代理競争しているのではあるまいから、消費者やお客のこと、そっちのけで自らの競争にひたすらする。これが集中する、という意味だ。

だから、つまりはお客様第一なんて看板と口だけで、ライバルとの戦いに夢中で明け暮れ、ということになる。肝心な消費者やお客は、主客ではなく脇役に押しやられる。否、ときにはライバルに打ち勝つための道具に成り下がる。そうした企業は、その自分の欲望を充足したい執念で、脂ギンギンで、消費者に迫ってくる。だからすぐわかる。嵩じてそれが過ぎて、アウトローにナリ、マスコミを賑わしたりもする。

誤解しないで欲しい。競争が悪いことなどなにもない。またもリコールがあったから、毎日自動車事故が発生しているから、車に責任がある、なくせ、といったことは暴論である。
競争は資本主義の誇りである。今や共産国ですら崇めだしている。消費者にとっても、競争によって、価格が下がり自分たちに大いに貢献していることは知っている。競争関係のなさを嘆き、大型店の出店を請うている消費者も少なくない。
競争の原理が、世に大きな貢献をしていること。そしてその大いなる恩恵を受けていることに、心から感謝もしたい。

だから悪者扱いすることは誤りである。
これまた、人の活かし方、使い方の問題なのである。
競争は、直接的、かつ第一義に的には自分のため。このこと認めることだ、と私は思う。なにやかんやとカッコつけないで、自分が第一なのだ、自分がそうであるように、自分以外のすべての人が、と。自分が、というその気持ちを、お店に来られるお客様も、自分第一に痛烈に思っておられるのだ、と意識して思うことだ。
 消費者だって「あなたの夢や目標具現のため、あなたお店で買い物をしているのではなく、自分の欲求充足のためですわよ」、って思ってはいまい。

説明のため、「マズローの欲求」を、使いたい。
 ●生理的欲求
 人の基本的欲求であり、具体的には、食物、水、空気、休養、運動などに対する欲求。
●安全・安定性欲求
 安全な状況を希求したり、不確実な状況を回避しようとする欲求。
●社会的欲求
 集団への所属を希求したり、友情や愛情を希求したりする欲求。
●尊厳欲求
 自己の価値や自尊心を実現したいという欲求で、たとえば他者からの尊敬や責任、自立的な行動の機会を希求する欲求。
●自己実現欲求
 自己の成長や発展の機会を求めたり、独自の能力の利用および潜在能力の実現を求める欲求。
マズローのいう欲求の主体は、他者ではなく「自己、自分」、「自己」の欲求の充足である。その具現のために、商人は、自店の繁栄を他者に協力してもらうために、他者一人一人がもつ、上に掲げたマズローの欲求を満たして上げて、自己の欲求具現のためにご協力頂く」のである。

こう考えたら、あなたの目的はライバルに勝つことではなく、対象もライバルではなく消費者、お客になる。そもそも上で「その自分が儲かるためには、是非ともお客様に買っていただくといった形の協力関係作りが不可欠だ。そのためには、どうしたら自分はどうしたらいいか」、こうした命題に、まじめに取り組む人や企業に、ライバルのことなど考える暇があろうはずがない。

これは、戦いの論理の「敵と味方」、「生きるか死ぬか」、といった極論部分を経営に引いてきたことの最大の罪であろう。手段やノウハウを戦争から学びたいのであれば、主語、主体を見誤ったことと、売り買いの経済行為は、元来人が平和に生きていくためのものであって、争いにはそぐわないもの。この2点を念頭に置いて、置き換えて用いなければ、危険なことでないか。ニトログリセリンが多くの人々の命を救い、そして多くの人類の命を絶った。
使う人の「心」に関わる使い方の問題を、すり替えてはならない。商人の心が、大事だ、ということを、「なにをいまさら」、「そんなんで、生き残れるか」という人々に、まずは「相手を間違っていませんか?」と伝えていきたいのである。