ローマ人への手紙 11:1-6
そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。 神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。 しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
神の民イスラエルが神に聞き従わなかったからとて、神から見捨てられたわけではありません。神からかけ離れた異邦人に過ぎなかった私たちを召し出してくださった恵み深い神様は、ご自身の民の中に今なお、まことの神に聞き従う「残れる者」を選んでおられます。神の恵みを受けた私たちは、恵みの中に留まるために、神の民イスラエルに対して勝ち誇ってはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.11.1-6.ja1955
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ローマ人への手紙 11:7-12
では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。 「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。 ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。 彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
神の民イスラエルが待ち望んでいたはずの救いに与っていないのは決して皮肉ではなく、神の恵みを知らなかった異邦人に救いが及ぶまでの期間限定の一時的な状態だということです。イスラエルの不従順によって異邦人の私たちに神の恵みが行き渡るならば、まして神の民であるイスラエルが福音を受け入れたならばどれほどの祝福となることでしょうか。すべては全人類を救いに導き入れようと願っておられる神の御心です。
https://www.bible.com/81/rom.11.7-12.ja1955
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ローマ人への手紙 11:13-18
そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、 どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。 もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。 もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
パウロは異邦人伝道のために神に召されましたが、パウロ本人の願いは、同胞であるイスラエルが一人でも福音を受け入れ、救いに与ることでした。ではなぜ異邦人に向けてあれほど熱心に伝道したのかというと、異邦人の救いを見てイスラエルが本心に立ち返ることを願っていたからでした。ですからパウロは、救われた異邦人が救われていないイスラエルに対して優越感を抱くことを、接ぎ木のたとえを以て戒めています。私たちはイスラエルという優良なオリーブの根に接ぎ木された野生の枝であり、根がなければたちどころに枯れてしまう存在に過ぎないことを忘れてはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.11.13-18.ja1955
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ローマ人への手紙 11:19-24
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
更にパウロは、野生種のオリーブの枝が優良株のオリーブに接ぎ木されて永遠のいのちに与る恵みを受けることができるならば、まして同じ優良株のオリーブの枝が元の原木に接ぎ木されるならば容易に恵みを受けられるはずだと説きました。そして、異邦人の私たちを憐れむが故に元の枝を切り取ってまで接ぎ木してくださった神様は、元の枝であるイスラエルを惜しまないはずがありません。イスラエルの不従順によって神の恵みが向けられた私たちが、イスラエルに対して勝ち誇るならば、それは御心に反することであり、神の憐れみを受けるに相応しい者ではなくなってしまいます。むしろイスラエルの枝を切り取ってまで私たちを接ぎ木してくださった神の心の傷みに思いを馳せ、何とかしてイスラエルが元の救いに立ち返るようにと祈る者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/81/rom.11.19-24.ja1955
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ローマ人への手紙 11:25-29
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。 神の賜物と召しとは、変えられることがない。
アブラハムの信仰によってイスラエルを神の民とされた選びと召しは、永遠に変わることはありません。たとい今は神に敵対する者となり、神の憐れみと恵みからかけ離れているように思えても、イスラエルに対する神の愛と憐れみ、そして選びは、今なお続いています。
https://www.bible.com/81/rom.11.25-29.ja1955
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ローマ人への手紙 11:30-36
あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
神に不従順である者は、神の救いに与ることはできません。そこには神の民イスラエルも、異邦人である私たちも、何ら区別はありません。そこで神は神の民でなかった私たちに神の憐れみに与るチャンスを与えるために、いったん神の民イスラエルを不従順の中に閉じこめたというのです。人を偏りみない神様の知恵にただ感謝したいと思います。
https://www.bible.com/81/rom.11.30-36.ja1955
そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。 神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。 「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。 しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。 それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。 しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
神の民イスラエルが神に聞き従わなかったからとて、神から見捨てられたわけではありません。神からかけ離れた異邦人に過ぎなかった私たちを召し出してくださった恵み深い神様は、ご自身の民の中に今なお、まことの神に聞き従う「残れる者」を選んでおられます。神の恵みを受けた私たちは、恵みの中に留まるために、神の民イスラエルに対して勝ち誇ってはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.11.1-6.ja1955
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ローマ人への手紙 11:7-12
では、どうなるのか。イスラエルはその追い求めているものを得ないで、ただ選ばれた者が、それを得た。そして、他の者たちはかたくなになった。 「神は、彼らに鈍い心と、見えない目と、聞えない耳とを与えて、きょう、この日に及んでいる」と書いてあるとおりである。 ダビデもまた言っている、「彼らの食卓は、彼らのわなとなれ、網となれ、つまずきとなれ、報復となれ。 彼らの目は、くらんで見えなくなれ、彼らの背は、いつまでも曲っておれ」。 そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。 しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
神の民イスラエルが待ち望んでいたはずの救いに与っていないのは決して皮肉ではなく、神の恵みを知らなかった異邦人に救いが及ぶまでの期間限定の一時的な状態だということです。イスラエルの不従順によって異邦人の私たちに神の恵みが行き渡るならば、まして神の民であるイスラエルが福音を受け入れたならばどれほどの祝福となることでしょうか。すべては全人類を救いに導き入れようと願っておられる神の御心です。
https://www.bible.com/81/rom.11.7-12.ja1955
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ローマ人への手紙 11:13-18
そこでわたしは、あなたがた異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務を光栄とし、 どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。 もし彼らの捨てられたことが世の和解となったとすれば、彼らの受けいれられることは、死人の中から生き返ることではないか。 もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりもきよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。
パウロは異邦人伝道のために神に召されましたが、パウロ本人の願いは、同胞であるイスラエルが一人でも福音を受け入れ、救いに与ることでした。ではなぜ異邦人に向けてあれほど熱心に伝道したのかというと、異邦人の救いを見てイスラエルが本心に立ち返ることを願っていたからでした。ですからパウロは、救われた異邦人が救われていないイスラエルに対して優越感を抱くことを、接ぎ木のたとえを以て戒めています。私たちはイスラエルという優良なオリーブの根に接ぎ木された野生の枝であり、根がなければたちどころに枯れてしまう存在に過ぎないことを忘れてはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.11.13-18.ja1955
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ローマ人への手紙 11:19-24
すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。 もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。 神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。 しかし彼らも、不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
更にパウロは、野生種のオリーブの枝が優良株のオリーブに接ぎ木されて永遠のいのちに与る恵みを受けることができるならば、まして同じ優良株のオリーブの枝が元の原木に接ぎ木されるならば容易に恵みを受けられるはずだと説きました。そして、異邦人の私たちを憐れむが故に元の枝を切り取ってまで接ぎ木してくださった神様は、元の枝であるイスラエルを惜しまないはずがありません。イスラエルの不従順によって神の恵みが向けられた私たちが、イスラエルに対して勝ち誇るならば、それは御心に反することであり、神の憐れみを受けるに相応しい者ではなくなってしまいます。むしろイスラエルの枝を切り取ってまで私たちを接ぎ木してくださった神の心の傷みに思いを馳せ、何とかしてイスラエルが元の救いに立ち返るようにと祈る者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/81/rom.11.19-24.ja1955
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ローマ人への手紙 11:25-29
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、「救う者がシオンからきて、ヤコブから不信心を追い払うであろう。 そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、彼らに対して立てるわたしの契約である」。 福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。 神の賜物と召しとは、変えられることがない。
アブラハムの信仰によってイスラエルを神の民とされた選びと召しは、永遠に変わることはありません。たとい今は神に敵対する者となり、神の憐れみと恵みからかけ離れているように思えても、イスラエルに対する神の愛と憐れみ、そして選びは、今なお続いています。
https://www.bible.com/81/rom.11.25-29.ja1955
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ローマ人への手紙 11:30-36
あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、 彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。 すなわち、神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。 ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。 「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。 また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
神に不従順である者は、神の救いに与ることはできません。そこには神の民イスラエルも、異邦人である私たちも、何ら区別はありません。そこで神は神の民でなかった私たちに神の憐れみに与るチャンスを与えるために、いったん神の民イスラエルを不従順の中に閉じこめたというのです。人を偏りみない神様の知恵にただ感謝したいと思います。
https://www.bible.com/81/rom.11.30-36.ja1955