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【COGHCC聖書通読】 2019/02/15

2019-02-15 07:55:13 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第一の手紙 9:1-7

わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主にあるわたしの働きの実ではないか。 わたしは、ほかの人に対しては使徒でないとしても、あなたがたには使徒である。あなたがたが主にあることは、わたしの使徒職の印なのである。 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。

コリント教会を建て上げた伝道者であるパウロを、主の12使徒の一人ではないと批判して見下す人々がいたようです。しかしパウロは、他の教会からは使徒と認められなくとも、現に神を信じ救われた人々がコリントの教会にいることが、自分が使徒職に相応しい働きをしてきたことの証明なのだと弁明しました。更にパウロは、信徒たちからの献金によって生計を立てていることさえも非難されていたようです。そこでパウロは、兵役に就く者は国民からの税金で生計を立てていること、農夫たちが収穫の実を得ていることをたとえに挙げて弁明しました。現代の教会においても、教職者の働きについてあれこれ非難する人は少なからずいますが、パウロのように誠実に働き、福音の実を収穫する聖職者を、私たちは人間的な観点で非難してはなりません。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.9.1-7.口語訳

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コリント人への第一の手紙 9:8-14

わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。 もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。

パウロは自分に宛てられた非難に対し、律法や祭司に関する規定を引用して、正当な報酬を得る権利が自分にはないのだろうかと問いかけつつ、パウロ自身、そのような権利を行使しないように努めてきたことを証しました。実際、パウロはコリントでの伝道を始めたときには、アキラとプリスキラ夫妻と共に天幕作りの仕事をして生計を立てながら、伝道していました。私たちはそのような教職者によって信仰を養われているのですから、神の働きに専従する者の生活を一般信徒が支えることは、神の御前に正しいことです。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.9.8-14.口語訳

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コリント人への第一の手紙 9:15-18

しかしわたしは、これらの権利を一つも利用しなかった。また、自分がそうしてもらいたいから、このように書くのではない。そうされるよりは、死ぬ方がましである。わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。

教職者が信徒たちによって支えられるべきことの正当性を説いたパウロ自身は、その権利を行使しないで働いてきたとの自負がありました。なぜなら、パウロは人に頼まれて福音を宣べ伝えていたのではなく、主の迫りに自主的に応答して、伝道せずにはいられなかったからです。自分自身にではなく、宣教の実に誇りを持つことは、実に尊い心です。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.9.15-18.口語訳

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コリント人への第一の手紙 9:19-22

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

パウロは一人でも多くの人を救いに導くために、相手と同じ立場に立って、自分自身が相手に合わせて、福音を宣べ伝えてきました。私たちは自我をなかなか捨て去ることのできない頑なな存在ですが、パウロのように福音のためならば自分のスタイルに固執することなく、相手に受け入れられるように自らを臨機応変に変えることができる柔軟さを持つ者でありたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.9.19-22.口語訳

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コリント人への第一の手紙 9:23-27

福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。 そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。 すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。

何故パウロは福音のためにならどんなことでもすると断言できたのでしょうか。パウロが自分の働きをアスリートにたとえて、勝利の栄冠を得るためにどんな苦しいトレーニングにも歯を食いしばって耐え抜くように、やがて天の御国にて神様から冠を授けていただくためならば、いかなる苦難も迫害も試練も何一つ苦にはならない、苦になるはずがないと答えています。パウロの目標、ゴールはこの世の誉れや祝福にではなく、常に神の御国にありました。私たちの人生のゴールはどこにあるでしょうか。

https://www.bible.com/bible/1820/1co.9.23-27.口語訳
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【今日の聖句】 2019/02/15

2019-02-15 06:45:07 | 今日の聖句
ハバクク書 3:17-18 新共同訳

いちじくの木に花は咲かず
ぶどうの枝は実をつけず
オリーブは収穫の期待を裏切り
田畑は食物を生ぜず
羊はおりから断たれ
牛舎には牛がいなくなる。
しかし、わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る。

神の祝福を象徴するいちじく、ぶどう、オリーブの実が生らないほど幸福とはかけ離れた人生の苦難に陥るときも、主の故に喜ぶことができるとは、何たる深い信仰でしょうか。試練の中でも神の救いを待ち望み、先の見えない将来に希望を抱く私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/hab.3.17-18.新共同訳
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