コリント人への第一の手紙 1:1-3
神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日からコリント人への手紙を通読します。コリントは交易で栄えたギリシャの港湾都市でしたが、町全体が歓楽街となっており、姦通することを「コリントする」という隠語になっていたほど風紀の乱れた町でした。そのコリントに、アテネ伝道で大きな成果を上げられず失意の中で訪れたパウロが、アキラとプリスキラ夫妻と出会い、1年半も腰を据えて伝道した町でした。パウロにとってコリントの教会は、伝道の情熱を余すことなく注いだ、愛してやまない群れでした。そのような背景を覚えてコリント人への手紙を読むと、御言葉をまた深く味わうことができますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.1-3.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:4-9
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。 あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、 キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、 こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。 主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。 神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。
風紀の乱れた町に住んでいたコリントの異邦人たちが、はじめて義なる神の御言葉を聞き、イエスの十字架の購いを信じてきよめられ、罪の中から救い出されたことは、パウロにとって大きな喜びでした。なぜなら神の義から遠くかけ離れた生活を送っていた人々が、パウロの伝道によって神を信じ受け入れて悔い改め、主の再臨の日に責められることのない者とされたからです。一人の罪人が悔い改めるならば天の軍勢の前に大きな喜びがあると言われたイエスの御言葉の通り、これこそ福音宣教の醍醐味です。私たちもまた救霊の喜びを共に分かち合うことのできるよう、福音宣教に励む者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.4-9.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:10-17
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。 わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。 それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。 もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
神の教会といえ、地上にある限り、罪ある人間の集まる場所ですから、そこには様々な問題を抱えています。コリント教会の問題点の一つは、我々は特定の指導者に付くといって教会の中で派閥争いが生じたことです。これは今日の教会の中にもよく起こることですから、私たちはパウロの教えに耳を傾けなければなりません。教会は、キリスト・イエスを頭とする一つの体であり、パウロも、アポロも、ペテロも、すべてはキリストを証するために遣わされた使徒であり、キリストに取って代わるものとなってはなりません。これまで数多く輩出された偉大な神父や牧師、信仰の先達たち、聖母マリヤでさえも、尊敬することはあっても、神に等しき者として崇拝してはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.10-17.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:18-25
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
十字架に死なれたイエスを敗北者と見るのが、神を信じない人々の小賢しい知恵の限界です。義なる神、愛なる神、罪を憎まれる神のご性質を正しく知り、それらをすべて矛盾させずに人を救う道を成し遂げる唯一の手段がキリストの十字架であると、神の知恵に気付かない人には到底理解できないからです。人の能力と知恵の限界の中に留まり続けたまま死を迎えたいならば、それは致し方ありません。しかし人を越えた唯一の存在であられる神の力を信じる者には、キリストの十字架こそが神の力、神の知恵、神の義、神の憐れみのしるしなのです。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.18-25.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:26-31
「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
神の前にはすべての人は平等です。貧富のさ、権力の差は多少あっても、神の絶大な御力と恵みの前には、ほんのわずかな誤差の範囲にしかなりません。全宇宙の大きさの中で地球がどれほど大きいでしょうか。人の肉眼で分子の大きさを見分けることができるでしょうか。ですからこの世の富や権力、栄光を誇る者は、どんぐりの背比べをしていい気分に浸っているだけの憐れむべき存在です。私たちが誇るべきは、こんな微々たる存在の私たち一人一人を覚えて愛していてくださる偉大なる主の御名です。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.26-31.ja1955
神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、 コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
今日からコリント人への手紙を通読します。コリントは交易で栄えたギリシャの港湾都市でしたが、町全体が歓楽街となっており、姦通することを「コリントする」という隠語になっていたほど風紀の乱れた町でした。そのコリントに、アテネ伝道で大きな成果を上げられず失意の中で訪れたパウロが、アキラとプリスキラ夫妻と出会い、1年半も腰を据えて伝道した町でした。パウロにとってコリントの教会は、伝道の情熱を余すことなく注いだ、愛してやまない群れでした。そのような背景を覚えてコリント人への手紙を読むと、御言葉をまた深く味わうことができますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.1-3.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:4-9
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。 あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、 キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、 こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。 主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。 神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。
風紀の乱れた町に住んでいたコリントの異邦人たちが、はじめて義なる神の御言葉を聞き、イエスの十字架の購いを信じてきよめられ、罪の中から救い出されたことは、パウロにとって大きな喜びでした。なぜなら神の義から遠くかけ離れた生活を送っていた人々が、パウロの伝道によって神を信じ受け入れて悔い改め、主の再臨の日に責められることのない者とされたからです。一人の罪人が悔い改めるならば天の軍勢の前に大きな喜びがあると言われたイエスの御言葉の通り、これこそ福音宣教の醍醐味です。私たちもまた救霊の喜びを共に分かち合うことのできるよう、福音宣教に励む者とならせていただきたいと願います。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.4-9.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:10-17
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにし、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。 はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。 キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。 わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。 それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。 もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
神の教会といえ、地上にある限り、罪ある人間の集まる場所ですから、そこには様々な問題を抱えています。コリント教会の問題点の一つは、我々は特定の指導者に付くといって教会の中で派閥争いが生じたことです。これは今日の教会の中にもよく起こることですから、私たちはパウロの教えに耳を傾けなければなりません。教会は、キリスト・イエスを頭とする一つの体であり、パウロも、アポロも、ペテロも、すべてはキリストを証するために遣わされた使徒であり、キリストに取って代わるものとなってはなりません。これまで数多く輩出された偉大な神父や牧師、信仰の先達たち、聖母マリヤでさえも、尊敬することはあっても、神に等しき者として崇拝してはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.10-17.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:18-25
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
十字架に死なれたイエスを敗北者と見るのが、神を信じない人々の小賢しい知恵の限界です。義なる神、愛なる神、罪を憎まれる神のご性質を正しく知り、それらをすべて矛盾させずに人を救う道を成し遂げる唯一の手段がキリストの十字架であると、神の知恵に気付かない人には到底理解できないからです。人の能力と知恵の限界の中に留まり続けたまま死を迎えたいならば、それは致し方ありません。しかし人を越えた唯一の存在であられる神の力を信じる者には、キリストの十字架こそが神の力、神の知恵、神の義、神の憐れみのしるしなのです。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.18-25.ja1955
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コリント人への第一の手紙 1:26-31
「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
神の前にはすべての人は平等です。貧富のさ、権力の差は多少あっても、神の絶大な御力と恵みの前には、ほんのわずかな誤差の範囲にしかなりません。全宇宙の大きさの中で地球がどれほど大きいでしょうか。人の肉眼で分子の大きさを見分けることができるでしょうか。ですからこの世の富や権力、栄光を誇る者は、どんぐりの背比べをしていい気分に浸っているだけの憐れむべき存在です。私たちが誇るべきは、こんな微々たる存在の私たち一人一人を覚えて愛していてくださる偉大なる主の御名です。
https://www.bible.com/bible/81/1co.1.26-31.ja1955