伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2019/02/25

2019-02-25 07:35:22 | 一日一章・聖書通読日記
コリント人への第二の手紙 3:1-4 口語訳

わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。 わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。

当時シナゴーグと呼ばれるユダヤの会堂を渡り歩いて聖書の説き明かすしを語っていた巡回説教者は、エルサレムからの推薦状を持参して自分が正統な教えを語る資格があると証明していたようです。コリント教会に混乱をもたらした人々は、パウロはそのような紹介状を持っていないと批判し、その教えの正当性を疑わせようと仕向けました。しかしパウロは、福音の実を結んだあなた方コリント教会の人々こそ推薦状なのだと反論しました。芽を出したばかりの苗ではその植物の種類はわからなくとも、その実を見れば何かがはっきりとわかるように、私たちがいよい実を結ぶならば、その教えが神から来た正統なものであると証明できます。私たち自身が神からの推薦状、福音の確かな証明書となることができるよう、御言葉の教えを忠実に守り行い、きよい御霊の実を結ぶ者とならせていただきたいと願います。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.1-4.口語訳

*****

コリント人への第二の手紙 3:5-8 口語訳

もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、 まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。

聖書が旧約・新約とあるのは、翻訳が古いか新しいかではなく、神と人との間で交わした約束が古い契約か新しい契約かという意味です。クリスチャンは旧約・新約共に、神が私たち人間に賜った契約であることを信じる者です。新しい契約が交わされると古い契約は上書きされるように、私たちキリスト者は旧約聖書という原契約の上に、新約聖書という新しい契約に更新された神との約束を信じているのです。殊に石の板に刻まれたモーセの十戒は、人に罪が何たるかを意識させ、罪を犯す者は死に定められることを教え諭しましたが、イエスの十字架という新しい契約は、神の御前に罪を告白して悔い改めた者は罪に死に、キリストの復活と共に新しい永遠のいのちをいただく約束を得たと確信する者です。それが文字は人を殺し、霊は人を生かすというキリスト教の本質的な教えであり、私たちはこの信仰告白の上に立っています。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.5-8.口語訳

*****

コリント人への第二の手紙 3:9-13 口語訳

もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。 そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。 もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。

消え去るべきものとは、モーセの十戒を守りきれずに希望もなく死んで行く者、永存すべきものとはキリストの十字架を信じて罪赦され永遠のいのちに与った者を指します。私たちクリスチャンはこの希望の上に立っています。暗闇の中で懐中電灯をつけてもライトが当たった場所しか明るくなりませんが、朝日が昇るとき地上全体が明るく照らされるように、旧約の灯は人を部分的にしか明るく照らすことができませんが、新約の光なるキリストの栄光は、すべての人を罪から救い永遠の輝きを放つ者となす眩いばかりの光ですから感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.9-13.口語訳

*****

コリント人への第二の手紙 3:14-18 口語訳‬‬

実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

シナイ山の頂でモーセが十戒を授かった後、モーセの顔が神の栄光で光を放っていたため、人と面会するときには顔に覆いを当てていたという記事があります。聖なる神と直接顔を合わせると、私たちは光を放ち、罪の支配するこの世においては顔覆いを当てなければならなくなりますが、光の根元であられる栄光の神に向かうときには、私たちは顔覆いなしに主の栄光を見させていただき、光り輝く栄光の御体をいただいて永遠に生きる者とさせていただくこの特権に与らせていただいた恵みに心より感謝いたします。

https://www.bible.com/bible/1820/2co.3.14-18.口語訳
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【今日の聖句】 2019/02/25 | トップ | 【今日の聖句】 2019/02/26 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。