コリント人への第二の手紙 5:1-5 口語訳
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
ここにたとえられている幕屋とは、私たちの体のことを意味しています。地上の幕屋とは生きている今の肉体を、天から賜るすみかとは、神と共に永遠に生きる栄光のからだを指しています。地上の肉体は様々な欲望に支配され、誘惑に負けて罪を犯してしまいやすいものです。そのことをパウロは、地上の幕屋の中で重荷を負って苦しみもだえていると記しています。しかし天のからだは神の栄光に包まれて、罪も咎もしみもない、きよい永遠のいのちを宿すものです。その天のからだをいただく保証として、神様は私たちに、地上にいながらその心にきよい御霊を宿してくださいますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.1-5.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:6-11 口語訳
だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。
地上の肉体は悪、しかし魂はきよく尊いものという考えにとらわれてしまうと、それはグノーシス主義という異端の教えに陥ってしまいますから、注意が必要です。その考え方が極端になると、地上の肉体は悪なのだから、どれほど罪を犯しても魂さえきよく保っていれば救われるという誤った教えに傾いてしまいます。そこでパウロは、この地上の肉体を宿していながらも、肉体を離れたとしても、ただ主に喜ばれる者となることが神の御心であると教えました。そして私たちはやがて神の御前に立たされ、その業に応じて報いを受けることを思い起こさせています。罪の支配するこの世において、悪の道に陥ることなく、罪の誘惑と戦いながら、心も体もきよく保つ私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.6-11.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:12-16 口語訳
わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
パウロはまたも自己推薦のことを例に挙げましたが、もし私たちが自らを誇るために生きているとしたら、それは人と自分とを比較し、人よりも優位に立ちたいと思う心の現れであり、人を肉によって知ることに他なりません。キリストの愛が強く迫っていることを知る私たちのこの地上のいのちは、決して自分の栄光を求めるためのものではなく、私たちを罪から解放するために命を懸けて救い出してくださったキリストのために、ひいては神の栄光を現すために授かったものだということを、私たちは忘れてはなりません。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.12-16.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:17-21 口語訳
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られた者、との有名な御言葉は、キリストの十字架の購いを受けて新しく生まれ変わることを念頭に挙げながら、罪人である私たちを義なる神と和解させてくださったキリストの福音を自らの身を以て証しし、世に伝えるべきことをも説き勧める教えです。罪きよめられたこの体を、自らのためにではなくキリストの証人として、世の人々に神との和解を得させる福音の使者として、尊く用いさせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.17-21.口語訳
わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
ここにたとえられている幕屋とは、私たちの体のことを意味しています。地上の幕屋とは生きている今の肉体を、天から賜るすみかとは、神と共に永遠に生きる栄光のからだを指しています。地上の肉体は様々な欲望に支配され、誘惑に負けて罪を犯してしまいやすいものです。そのことをパウロは、地上の幕屋の中で重荷を負って苦しみもだえていると記しています。しかし天のからだは神の栄光に包まれて、罪も咎もしみもない、きよい永遠のいのちを宿すものです。その天のからだをいただく保証として、神様は私たちに、地上にいながらその心にきよい御霊を宿してくださいますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.1-5.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:6-11 口語訳
だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。
地上の肉体は悪、しかし魂はきよく尊いものという考えにとらわれてしまうと、それはグノーシス主義という異端の教えに陥ってしまいますから、注意が必要です。その考え方が極端になると、地上の肉体は悪なのだから、どれほど罪を犯しても魂さえきよく保っていれば救われるという誤った教えに傾いてしまいます。そこでパウロは、この地上の肉体を宿していながらも、肉体を離れたとしても、ただ主に喜ばれる者となることが神の御心であると教えました。そして私たちはやがて神の御前に立たされ、その業に応じて報いを受けることを思い起こさせています。罪の支配するこの世において、悪の道に陥ることなく、罪の誘惑と戦いながら、心も体もきよく保つ私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.6-11.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:12-16 口語訳
わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。
パウロはまたも自己推薦のことを例に挙げましたが、もし私たちが自らを誇るために生きているとしたら、それは人と自分とを比較し、人よりも優位に立ちたいと思う心の現れであり、人を肉によって知ることに他なりません。キリストの愛が強く迫っていることを知る私たちのこの地上のいのちは、決して自分の栄光を求めるためのものではなく、私たちを罪から解放するために命を懸けて救い出してくださったキリストのために、ひいては神の栄光を現すために授かったものだということを、私たちは忘れてはなりません。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.12-16.口語訳
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コリント人への第二の手紙 5:17-21 口語訳
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られた者、との有名な御言葉は、キリストの十字架の購いを受けて新しく生まれ変わることを念頭に挙げながら、罪人である私たちを義なる神と和解させてくださったキリストの福音を自らの身を以て証しし、世に伝えるべきことをも説き勧める教えです。罪きよめられたこの体を、自らのためにではなくキリストの証人として、世の人々に神との和解を得させる福音の使者として、尊く用いさせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/1820/2co.5.17-21.口語訳