伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2017/04/17

2017-04-17 08:08:54 | 一日一章・聖書通読日記
エズラ記 9:1-4
『これらの事がなされた後、つかさたちは、わたしのもとに来て言った、「イスラエルの民、祭司およびレビびとは諸国の民と離れないで、カナンびと、ヘテびと、ペリジびと、エブスびと、アンモンびと、モアブびと、エジプトびと、アモリびとなどの憎むべき事を行いました。 すなわち、彼らの娘たちをみずからめとり、またそのむすこたちにめとったので、聖なる種が諸国の民とまじりました。そしてつかさたる者、長たる者が先だって、このとがを犯しました」。 わたしはこの事を聞いた時、着物と上着とを裂き、髪の毛とひげを抜き、驚きあきれてすわった。 イスラエルの神の言葉におののく者は皆、捕囚から帰って来た人々のとがのゆえに、わたしのもとに集まったが、わたしは夕の供え物の時まで、驚きあきれてすわった。』

エルサレムに到着し、主の宮の聖なる器と捧げものを祭司たちに送り届ける任務を果たし、希望を抱いてここから新たなスタートを切ろうとしたまさにそのときに、とんでもない報告がエズラの元に届きました。先にバビロン捕囚から帰還したイスラエルの民の内に、カナンの地の先住民族と婚姻関係を結んで民族の純潔を汚し、主が忌み嫌われる彼らの悪習慣を真似てイスラエルに罪を招き入れ、しかもその首謀者が、民を正しく導くべきつかさたちが率先して行ったというのです。

この悪い知らせを聞いてエズラは着物と上着を裂き、髪の毛も髭も自ら抜いて、夕刻の祈りの時まで、途方に暮れて座り込んでしまいました。着物を裂くのは怒るほどの激しい悔い改めの心、髪の毛や髭を捨てるのは恥も外聞もかなぐり捨ててへりくだる姿勢です。しかも髪の毛や髭を抜くには相当の力が必要で、激しい痛みが伴います。これらのエズラの行為は他人事と思ってい人には到底できないことです。エズラはイスラエルの犯した罪を自分のものとして受け止め、激しく心を痛めて主の御前にへりくだって悔い改めました。

私たちは自分の所属する共同体の罪を、自分さえ罪を犯していなければよいと、傍観者として何の痛みもなく、心の責めも感じることなく、受け流してはなりません。エズラのように自分のこととして真摯に受け止め、共同体全体の罪の痛みを感じる心を持つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezr.9.1-4.ja1955

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エズラ記 9:5-7
『夕の供え物の時になって、わたしは断食から立ちあがり、着物と上着を裂いたまま、ひざをかがめて、わが神、主にむかって手をさし伸べて、 言った、「わが神よ、わたしはあなたにむかって顔を上げるのを恥じて、赤面します。われわれの不義は積って頭よりも高くなり、われわれのとがは重なって天に達したからです。 われわれの先祖の日から今日まで、われわれは大いなるとがを負い、われわれの不義によって、われわれとわれわれの王たち、および祭司たちは国々の王たちの手にわたされ、つるぎにかけられ、捕え行かれ、かすめられ、恥をこうむりました。今日のとおりです。」』

先にエルサレムに帰還した民が犯した罪を聞いて途方に暮れていたエズラでしたが、夕刻の祈りのときに至って再び立ち上がり、着物と上着を裂いたままひざをかがめ、主に向かって手を差し伸べて祈りました。このエズラの祈りの姿勢は、心から悔い改めて主の憐れみを乞う心の現れです。私たちはどんなに悪いことが身に起きても、いつまでも悲しみに打ちひしがれたままではいけません。辛くても、悲しくても、再び立ち上がり、主に心を注ぎ出して祈ることなしに、現状は何一つ変わることなく、打破することはできません。

そして主は私たちの心の悲しみを思いやることのできない無慈悲なお方ではありません。エズラの祈りは悲しみの心と共に実にへりくだり、イスラエルの罪を心の底から恥じて、自分の罪として主の御前に正直に告白しました。この自責と謙遜の心を、祈りとして主の御前に注ぎ出すことが、回復の第一歩です。

http://bible.com/81/ezr.9.5-7.ja1955

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エズラ記 9:8-9
「ところがいま、われわれの神、主は、しばし恵みを施して、のがれ残るべき者をわれわれのうちにおき、その聖所のうちに確かなよりどころを与え、こうしてわれわれの神はわれわれの目を明らかにし、われわれをその奴隷のうちにあって、少しく生き返らせられました。 われわれは奴隷の身でありますが、その奴隷たる時にも神はわれわれを見捨てられず、かえってペルシャ王たちの目の前でいつくしみを施して、われわれを生き返らせ、われわれの神の宮を建てさせ、その破壊をつくろわせ、ユダとエルサレムでわれわれに保護を与えられました。」

エズラは主の憐れみ深さを、イスラエルの歴史と現状から正しく認識していました。イスラエルはバビロン捕囚から第二次世界大戦後までの長きにわたり、独立国家としては存在しえなかったのです。かつてソロモン王の時代には、全世界にその名を轟かせたほどの富と繁栄と広大な領地を持っていましたが、エズラの時代は捕囚から帰還したもののペルシャ帝国の支配下にあり、またイエス様の時代もローマ帝国の管理下に置かれていました。

そのような屈辱的な現状に置かれても、エルサレムに帰還し、主の宮を再興し、神様に礼拝を捧げることができるようになったのは、すべて神様の憐れみの故ですと、エズラは感謝して祈りました。私たちもまた過去の栄光を振り向いてばかりではなく現実を受け入れること、その中にある小さなさいわいにも心から感謝する心が必要です。

http://bible.com/81/ezr.9.8-9.ja1955

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エズラ記 9:10, 13-15
「われわれの神よ、この後、何を言うことができましょう。われわれは、あなたの戒めを捨てたからです。

われわれの悪い行いにより、大いなるとがによって、これらすべてのことが、すでにわれわれに臨みましたが、われわれの神なるあなたは、われわれの不義よりも軽い罰をくだして、このように残りの者を与えてくださったのを見ながら、 われわれは再びあなたの命令を破って、これらの憎むべきわざを行う民と縁を結んでよいでしょうか。あなたはわれわれを怒って、ついに滅ぼし尽し、残る者も、のがれる者もないようにされるのではないでしょうか。 ああ、イスラエルの神、主よ、あなたは正しくいらせられます。われわれはのがれて残ること今日のとおりです。われわれは、とがをもってあなたの前にあります。それゆえだれもあなたの前に立つことはできません」。

知らずに犯した罪、予期せぬ理由により起きてしまった過ちには情状酌量の余地がありますが、知りながら犯した罪には厳しい裁きが科せられるのは当然です。しかしイスラエルが代々犯してきた罪に対しても、神様の深い憐れみによりその裁きは軽減され、信仰の残り火を灯し続けてくださった恵みを知りながら、イスラエルの民たちとつかさたちが犯した罪と、信仰の純潔を保つことのできなかった罪過ちとを、エズラは主の御前にありのまま告白し、もはやあなたと御前に立つことなどできませんと深く頭を垂れて悔い改めました。私たちの罪認識はこのエズラのように深いものでしょうか。心の痛みすら伴わない表面的な謝罪では、主の御前に立つことなどできません。

http://bible.com/81/ezr.9.10,13-15.ja1955
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【今日の聖句】 2017/04/17

2017-04-17 06:45:16 | 今日の聖句
ピリピ人への手紙 2:3-4
「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」

党派心も虚栄も自分のことしか考えない者の自己中心な心から生まれます。汚れた罪人に過ぎない私たちを愛するが故に十字架の死に至るまで謙遜になられた主イエスに倣い、人を思いやり自己犠牲の心を持つキリスト者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/php.2.3-4.ja1955
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