前回は、江戸時代後期の庄内藩における「磯釣り」の実情を、残された文献、資料を基に垣間見ましたが、磯の釣り場に恵まれた和歌山の紀州藩、高知の土佐藩などでも心身鍛錬のため磯釣りを奨励したとされますが、だぼ鯊の手もとには、和歌山城に勤めていた人物が磯釣りをしていた、という記録があります。
磯で釣客怪死
海神、山鬼の祟りか
この物語は今からざっと二九〇年前の享保十一年(一七二六年)に矼某という人が著わした「続・蓬窓夜話」に収められたミステリーです。
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紀州に鈴木周徳という人物がいた。和歌山城の奥坊主(茶室を管理し、将軍に茶を進め、登城の諸侯の接待、給仕の係。髪を剃り見たところ僧体なのでこう呼んだ)で、身上も貧しくなく、平凡に暮らしていたが、周徳は釣り好きで、公用閑暇の折節は「雑賀崎」「田ノ浦」などというところへ「磯釣り」に出かけ、一日中、巌(いわ)の上で過ごし、魚釣りに熱中した。
享保十年の暮れ、ある日周徳は用事があって外出したが、晩になって帰ってきたら衣服が肩より裾にかけて水浸しなので家じゅうが大変驚いて「誤って海に落ちたのか」と問いただしたが、本人は一向に平然として、水に濡れたという実感もなさそうなので皆が不思議でならない様子で怪しんで不思議なことがあるものだと。
その後、しばらくして周徳は何処かへ出たまま家に帰らない事態が起こった。一家従類驚き騒ぎ心当たりを尋ねまわって探したがその行方は杳としてわからず、皆が途方に暮れていたら誰言うとなく「釣りに行ったのではないか」、ということになった。そこで、よく出かける田ノ浦、雑賀崎番所の鼻方面の磯で浪に打たれて海の藻屑となったのではと、心当たりを尋ねまわったらどうやら田ノ浦の沖のある磯に渡ったらしいということが判り、舟を頼んで磯に渡り、手分けして探したところ磯辺より一段高いところの岩のくぼみで咽喉を掻き切って息絶えているのを発見、「これは…」と一同、驚いてその体を見ると喉はかき切られてはいるが本人の脇差は、ちゃんと鞘に納められており、周りを見渡しても刃物らしきものは見当たらない。
不思議に思って一人が脇差を抜いてみると、刃には少し血がついたような痕跡はあるが、周徳が、仮に自害したとしても、咽喉を見事に掻き切った後、平然として、脇差をまた元の鞘に収めるなどとても考えられず、一同、絶句して首を傾げるばかりであった。
田ノ浦の、その磯には昔から怪しきことが多いので、その事情を知っているものは磯釣りに出かけることは控えているが、なにしろよく釣れる事でも知られており、周徳は、多少の怪しい風評などものともせず、ここに通い詰めていたようだった。
それが、どうやら海神、山鬼の祟りに触れ、このような、悲劇を生む結果になったのではないだろうか、と後々まで語り継がれた。
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以上が、このミステリーのあらましです。田ノ浦には昔から好釣場として有名な「姥岩」がありますが、作者は、この物語の舞台は明かさず「ある磯」としているところが意味深長です。
ともあれ、判ったことは、和歌山城に勤めていた人々に、かなり釣りの好きな人が多かったということです。範囲を、南紀方面に広げると江戸時代の紀州藩の釣りの実態がさらにうかびあがるのではないでしょうか。
(八木禧昌記。イラストも筆者。からくさ文庫主宰)