私はクリスチャンではない。では仏教徒かといえば、ご多聞に漏れずそれはお葬式の時だけという、ごくごく一般的な日本人だと思っている。けれど、“祈る”ことは結構日常的に自然に行っている。
今を遡る半世紀前、市立幼稚園の抽選に外れて、一年だけ私立幼稚園に通園した。そこがなぜかクリスチャンの幼稚園。毎週日曜学校があり、「天にまします我らが父よ・・・」とお祈りをして、献金をして、オルガンに合わせて賛美歌を歌った。バザーなどのお楽しみ会もあった。先生たちも優しくて、今思えば次に通ったごく普通の市立幼稚園よりそこでの時間が懐かしいと思うほどだった。まあ接点といえばそれだけのことなのだけれど。
瞑想ヨーガでキールタンを歌う時にもお祈りをする。自分のために、自分の大切な人のために、そして世界中の人たちのために幸せを祈るのだ。目を瞑ってそうして祈っていると、間違いなく心が穏やかに安らかになると感じている。
そんな時に、以前もご紹介した毎日新聞の連載、香山リカさんのコラムの最新号を見つけた。以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
香山リカのココロの万華鏡
「祈り」で心に安らぎを /東京(毎日新聞2017年2月14日 地方版)
何年か前、聖路加国際病院の日野原重明名誉院長の病棟回診に同行させてもらったことがあった。向かった病棟は、主にがん患者さんが入院する緩和ケア病棟だ。抗がん剤などの積極的な治療をやめて、痛みなどの苦しさを取り除きながら療養する病棟には、一般的には重症と考えられる方が多く入院していた。
日野原医師は、ひとりひとりのベッドサイドに近づき、患者さんの声に耳を傾ける。苦痛を訴える人より「先生に会えてよかった」と感激して握手を求める人のほうが多かったのが印象的だった。
しかし、中にはからだのしんどさを訴え、「もう治らないのか」と不安を訴える人もいる。ある女性はいろいろなつらさを涙ながらに語ったあと、「私は先生と同じクリスチャンなんです」と言った。日野原医師は「そうですか」とうなずき、「では、ふだんの回診ではしないことですが、いっしょにお祈りしましょうか」と言って、患者さんの両手を自分の手で包み込むようにして、「神さま……」とお祈りを始めた。女性の表情がみるみるうちに穏やかになっていった。
医療の現場は時として過酷で、人間の力ではどうにもならないことも起きる。私がいる精神医療の場にも、どう声をかけてよいか、どんな薬を処方するのが助けになるのか専門家にもわからない、というほど、しんどい状態の人もやって来る。
そんなときふと、日野原医師のあのお祈りを思い出す。診察室でいきなり「さあ、祈りましょう」と言うわけにはいかないし、できるところまではこちらの経験と知識を全力で使って治療する。しかし「私がなんとかしなきゃ」と気負いすぎるのではなく、心のどこかでは、「いっしょに祈りましょうね」と心を何かにゆだねてみる態度も必要なのではないかと思うのだ。あるとき後輩にそう言うと「それってオカルトみたい」と笑われた。決してそういうわけではないが、「祈る」という気持ちを忘れると、私たちは医学や科学技術がすべての問題を解決し、病気を治し、寿命や人の運命さえ変えることができる、とおごった気持ちを持つのではないか。
人間には自分ではどうにもできないことがある。そういうときには、静かに祈ってみてはどうだろう。信仰心なんてなくたっていいし、「相手」は神さま、仏さま、誰だっていい。「私を見捨てないでください。お守りください」。それだけで心が安らぐことだってあるのだ。(精神科医)
(転載終了)※ ※ ※
日野原先生のファンは多い。105歳を迎えられてもなお、連載を持ち、現役で講演等に飛び回っておられる。このブログで、先生が10年日記を書いておられるというコラムを取り上げさせて頂いたことがあるけれど、あれからもう6年。早いものである。
神様のような先生に手を包まれて「一緒に祈りましょう」と言って頂けたら、それこそ祈りは届くように思う。ヨーガや瞑想でも、“祈る”のだと言うと、ここでも香山先生が書かれているようにオカルトとか、ちょっと胡散臭いように受け取る方が多いように感じるので、私も祈るのです、ということを誰かれ構わず言うわけではない。
けれど、当然のことながら医療に限界はあるし、人間は不死身ではない。それでもこうして長い年月、病とともにあると、人智を超えた大きな力が働くことはあるのだと思わざるを得ないことがあると感じている。決して奢った気持ちではない。けれど、全てが割り切れるものでもないのではなかろうか。
だからこそ私はこれからもごくごく自然に日々祈りを続けたい、と思う。そう、まずは明日、無事に治療をして頂くことが叶いますように、と。
さて、昨年、一昨年と土日が続いた2月14日。3年ぶりに平日のバレンタインデーだという。職場のいわゆる義理チョコを用意することもなく、夫と息子にだけ心ばかりのチョコレートを贈った。まあ、余計なお世話と言われるのを承知で、息子が母以外からもチョコレートが頂けますように、とこっそり祈っておこう。
今を遡る半世紀前、市立幼稚園の抽選に外れて、一年だけ私立幼稚園に通園した。そこがなぜかクリスチャンの幼稚園。毎週日曜学校があり、「天にまします我らが父よ・・・」とお祈りをして、献金をして、オルガンに合わせて賛美歌を歌った。バザーなどのお楽しみ会もあった。先生たちも優しくて、今思えば次に通ったごく普通の市立幼稚園よりそこでの時間が懐かしいと思うほどだった。まあ接点といえばそれだけのことなのだけれど。
瞑想ヨーガでキールタンを歌う時にもお祈りをする。自分のために、自分の大切な人のために、そして世界中の人たちのために幸せを祈るのだ。目を瞑ってそうして祈っていると、間違いなく心が穏やかに安らかになると感じている。
そんな時に、以前もご紹介した毎日新聞の連載、香山リカさんのコラムの最新号を見つけた。以下、転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
香山リカのココロの万華鏡
「祈り」で心に安らぎを /東京(毎日新聞2017年2月14日 地方版)
何年か前、聖路加国際病院の日野原重明名誉院長の病棟回診に同行させてもらったことがあった。向かった病棟は、主にがん患者さんが入院する緩和ケア病棟だ。抗がん剤などの積極的な治療をやめて、痛みなどの苦しさを取り除きながら療養する病棟には、一般的には重症と考えられる方が多く入院していた。
日野原医師は、ひとりひとりのベッドサイドに近づき、患者さんの声に耳を傾ける。苦痛を訴える人より「先生に会えてよかった」と感激して握手を求める人のほうが多かったのが印象的だった。
しかし、中にはからだのしんどさを訴え、「もう治らないのか」と不安を訴える人もいる。ある女性はいろいろなつらさを涙ながらに語ったあと、「私は先生と同じクリスチャンなんです」と言った。日野原医師は「そうですか」とうなずき、「では、ふだんの回診ではしないことですが、いっしょにお祈りしましょうか」と言って、患者さんの両手を自分の手で包み込むようにして、「神さま……」とお祈りを始めた。女性の表情がみるみるうちに穏やかになっていった。
医療の現場は時として過酷で、人間の力ではどうにもならないことも起きる。私がいる精神医療の場にも、どう声をかけてよいか、どんな薬を処方するのが助けになるのか専門家にもわからない、というほど、しんどい状態の人もやって来る。
そんなときふと、日野原医師のあのお祈りを思い出す。診察室でいきなり「さあ、祈りましょう」と言うわけにはいかないし、できるところまではこちらの経験と知識を全力で使って治療する。しかし「私がなんとかしなきゃ」と気負いすぎるのではなく、心のどこかでは、「いっしょに祈りましょうね」と心を何かにゆだねてみる態度も必要なのではないかと思うのだ。あるとき後輩にそう言うと「それってオカルトみたい」と笑われた。決してそういうわけではないが、「祈る」という気持ちを忘れると、私たちは医学や科学技術がすべての問題を解決し、病気を治し、寿命や人の運命さえ変えることができる、とおごった気持ちを持つのではないか。
人間には自分ではどうにもできないことがある。そういうときには、静かに祈ってみてはどうだろう。信仰心なんてなくたっていいし、「相手」は神さま、仏さま、誰だっていい。「私を見捨てないでください。お守りください」。それだけで心が安らぐことだってあるのだ。(精神科医)
(転載終了)※ ※ ※
日野原先生のファンは多い。105歳を迎えられてもなお、連載を持ち、現役で講演等に飛び回っておられる。このブログで、先生が10年日記を書いておられるというコラムを取り上げさせて頂いたことがあるけれど、あれからもう6年。早いものである。
神様のような先生に手を包まれて「一緒に祈りましょう」と言って頂けたら、それこそ祈りは届くように思う。ヨーガや瞑想でも、“祈る”のだと言うと、ここでも香山先生が書かれているようにオカルトとか、ちょっと胡散臭いように受け取る方が多いように感じるので、私も祈るのです、ということを誰かれ構わず言うわけではない。
けれど、当然のことながら医療に限界はあるし、人間は不死身ではない。それでもこうして長い年月、病とともにあると、人智を超えた大きな力が働くことはあるのだと思わざるを得ないことがあると感じている。決して奢った気持ちではない。けれど、全てが割り切れるものでもないのではなかろうか。
だからこそ私はこれからもごくごく自然に日々祈りを続けたい、と思う。そう、まずは明日、無事に治療をして頂くことが叶いますように、と。
さて、昨年、一昨年と土日が続いた2月14日。3年ぶりに平日のバレンタインデーだという。職場のいわゆる義理チョコを用意することもなく、夫と息子にだけ心ばかりのチョコレートを贈った。まあ、余計なお世話と言われるのを承知で、息子が母以外からもチョコレートが頂けますように、とこっそり祈っておこう。