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ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2013.5.13 モノは言いよう

2013-05-13 20:23:29 | 日記
 つくづくモノの言い方は難しい。
 ちょっとした言い方の違いで、相手を傷つけるかほっとさせるか、言葉とは実に両刃の剣である。

 例えば「こちらに参加したかったので、○○するのをやめました。」と言うか、「○○するとこちらに来られなくなるので、○○をやめました。」と言うか。

 参加された側からすれば、前者なら(それほど参加したかったのだな。○○があったのに申し訳なかったな。でも嬉しいな・・・)と少しほっとするのではないか。
 が、後者なら(申し訳なかったな。)が先に立つ。(本当は○○の方が大切だったのに、こちらにはいやいやながらの参加だったのかしら、悪いことをしたな・・・)と思わざるを得ない。

 人によって受け取り方も気遣いの仕方も千差万別だ。
 けれど、あまりに相手のことばかり考えて先読みしていると、今度は自分が疲れ果てて身動き出来なくなってしまう。
 そうは言っても自分がされたら(言われたら)傷つくだろうな、と思うことは敢えてしたくない(どうも私はサバサバしていて繊細には見えない、あまり傷つかない、と思われている節があるようなのだけれど、実はうんとヘタレなのだ。今度“fragile”の札でも付けてみようかしら。)し、自分がしてもらったら嬉しいだろうな、ということはちょっと無理してでも張り切ってやってしまう。

 その辺のバランス、人との距離の取り方は、漱石ではないけれど“智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい・・・”だな、としみじみ思う。
 半世紀以上人間をやっていても、人づきあいとはかくも難しいものである。

 特に、メールやライン等対面ではないコミュニケーションが簡単に出来るようになっただけに、その難しさが一層煩雑になっているような気がする。
 もちろん、皆が忙しい日々を送っている中、毎回毎回対面でというわけにはいかないし、電話をかけるにしても先方の都合の悪い時間等を避けて、という気遣いが必要だろう。
 けれど、顔を見て話せばお互いに伝わること、声色や間の取り方を捉えながら話せば(相手の話を聞けば)解ることも、一旦短いメールやラインの文面にしてしまうとそうはいかないのではないか(逆にそういう文章でなるべく誤解が生じないように長く丁寧に書くと“重い”、“うざったい”と感じられてしまうのかもしれない。)。

 心穏やかに日々を過ごすために、いちいち深読みしないでうまくスルー出来ると良いのだけれど、気が付いたことはそのままに放置しておけないので、ついつい・・・。
 我ながらなんとも困った性格である。

コメント (7)
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