いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第28週

2015年05月09日 18時43分30秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫


   ―都内、九段下あたりにて―

■ 今週の「産業化」


ソース; http://www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/map.html

「明治日本の産業革命遺産」には、松下村塾も入っているのだ。理由は、人材育成らしい。

大日本帝国発祥の魂の源(松下村塾;革命テロリスト養成塾::世界で一番成功したテロリスト養成学校)。

テロリストというばかりでなく、「我々は狂人である」と御本人さまたちが主張している。

それでは、そんなにすごいのかというと、掘立小屋である;


愚記事; 松下村塾。ほったてごや。日帝発祥の地。 朝鮮人や支那人が見たら、こんなのにやられたんか!と驚くだろう。

韓国政府はこの世界遺産登録に反対である。理由は朝鮮人が徴用され、少なからずが死んだからだという。その対象は本当の産業遺産の施設である。でも、朝鮮人が一番の的とすべきは、われらが日帝の魂の誕生場所である松下村塾ではないだろうか?

それにしても、今回の世界遺産の登録リストに松下村塾を入れた人たちの意図は、松下村塾も世界遺産に承認されること。世界的に承認されること。それがよいことだと思っているのだろう。その意図に邪心を見出そうとすることは「普通の」日本人にはないだろう。でも、天邪鬼なおいらは思う。

今回の大義名分は、「明治日本の産業革命遺産」である。吉田松陰は、別に、日本の産業化を、願っていたわけでもないだろう。むしろ、開国直後から横須賀に造船・製鉄所をつくったのは徳川幕府であり、その責任者の小栗上野介忠順は、薩長クーデター勢力に斬首された。 

もちろん、吉田松陰の第一の願いは、政治「革命」である。そして、成功したその革命は、狂人テロリストの成果である(愚記事:赫々たる業績は2皇帝の奪取と3国王の生け捕り、 愚記事群: 革命国家日本

実は彼らは きちがい なんです。
おいらが最初彼らを知って調べたとき、外国船に砲撃するわ、英国公使館を焼き討ちするわ、老中暗殺を企てるわ、こいつら きちがい だな!と思っていた ら、なんと!松陰は 狂 をキーワードに掲げ、山縣はそれに呼応して号を 狂介 と称していた。それを知ったとき、おいらは、舌をまくやら、恐れ入るや ら....。 (愚記事;松下村塾;同上リンク)

今回の世界遺産登録は、「世界で一番成功したテロリスト養成学校」を産業化の枠組みに押し込める(パッケージ化する)ものだ。やってる本人たちは、全く悪気ななさそうなのだが、自分たちが下記のような「或る経済的大国が極東の一角に残」ったことを寿いでいることに無自覚なのであろう。

日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」 (誰かが昔いったらしい言葉)

 もちろん、経済第一!、産業第一!の現実主義路線が支配する現政権の象徴ではある。

■ 今週の誤字


ソース

■ 今週の「乱射」

(吉田松陰ってどんな人だったか?って感覚を得たい人は、中川八洋さんを見ればいいのである。主張内容ではなく、形態をである。)

中川八洋さんが、ついに、江藤淳と渡部昇一に「発砲」。

江藤淳、渡部昇一らは“朝日チルドレン”と呼ばれるべき存在。中川八洋掲示板

愚記事 ①「ついに、元勲・山縣公を的にかけ、乱射。中川八洋センセの近況 」、②サブテーマとしての同業者への乱射も、いつもどおり、圧巻です、など乱射芸を追ってきた。

今日の乱射芸はただで誰でもみれる。驚くのが、渡部昇一にも的を向けたこと。中川八洋と江藤淳との付き合いは知らない。さらには江藤は死んだので、影響は少ないだろう。中川は「江藤淳は日本共産党員であった。1960年に離党したが後悔」と主張している。そして、中川は「江藤淳が成仏できた」と"喜んで"いる。いい人なんだょ、八洋さん。

江藤淳が1999年7月に自殺したとき、朝日新聞は大きな追悼文を掲載した(7月22日付け)。弔辞者は福田和也だった。これを見たとき、江藤淳は成仏できると確信した。朝日新聞が、江藤淳を共産党員として遇し、北朝鮮人に追悼文を書かせたのである。江藤淳の永眠する心が安らかにならぬはずはない。(中川八洋掲示板

中川八洋と渡部昇一は対談もしている(You Tube)。 少し前には「反脱原発」で同席している; (YouTube )。何があったのだろう?

なお、中川八洋さんは日米戦争の出来に憤激する。そして、日米関係の重要性を強調する。一方、これまで安倍内閣を痛烈批判。でも先日の日米外交についてのコメントはなし。

ところで、中川八洋さんが、まだ的を向けていないのが、福田恒存 (福田恒存は実に常識豊かな正常な感覚の評論家」といっている)、林健太郎。おそらく、今回の「乱射」の根拠のひとつが福田恒存の『問い質しきことども』における、福田の渡部昇一、江藤淳批判なのではないだろうか?それにしても、『問い質しきことども』は30年前以上の本なのだが。

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渋谷のスクランブル交差点-インド交差点;ぶつからないことに驚くよ

2015年05月07日 19時48分49秒 | その他



「一斉に渡るので、ぶつからないことに驚くよ」

外国人旅行者がSNS投稿した場所1位が渋谷のスクランブル交差点とのニュース;

外国人旅行者が日本で楽しんでいる内容を、観光庁がビッグデータを用いて分析。すると、彼らのツイート内容から独自の視点で楽しむ様子がわかってきました。さて、最も投稿が多かった場所は?※56秒ごろ~

⇒ http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/news_business/p8dcb7e993823ac3b482022c1f1938977

■ 別に日本人にとっちゃ、普通かと思っていた。

インドじゃ、牛の大群と車が交差点を通りすぎるが、大丈夫。 

愚記事より


ぐるっとパス使用記録6;臨海エリア、葛西臨海公園、そして、九段下・昭和館

2015年05月05日 19時51分41秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面、 
ぐるっとパス使用記録2;目黒方面、  
ぐるっとパス使用記録3; 多摩方面、 
・ぐるっとパス使用記録4; 渋谷・日本橋方面、
・  ぐるっとパス使用記録5; 上野方面、(+旧江戸城方面: 片岡球子展)

に続く第6弾。

▼60; 葛西臨海公園

▼22; 昭和館

公式サイト; 昭和館

7・6階の常設展示室では「母と子の戦中・戦後」をメイン・テーマとして、昭和10年頃から昭和30年頃までの国民生活向上の労苦を伝える実物資料を展示 しています。昭和館には現在約4万3500点の実物資料が収蔵されており、常設展示室にはそのうちの約700点が展示されています。

大政翼賛会のポスター。 「家庭も小さな鉱山だ」、ってなんか聞いたことあるぞ。

wikipediaの「都市鉱山」の項には、「1980年代、東北大学選鉱製錬研究所の南條道夫教授らが提唱したのが最初である」、とある。

「都市鉱山」の発想(元ネタ)は大政翼賛会時代にあったのだ。

■ 特別企画展 戦後70年 よみがえる日本の姿 ~オーストラリア戦争記念館 所蔵写真展~ (web site

このたび昭和館では、「戦後70年 よみがえる日本の姿~オーストラリア戦争記念館 所蔵写真展~」と題し、特別企画展を開催する運びとなりました。
オーストラリアの首都・キャンベラにあるオーストラリア戦争記念館は、主に第一次世界大戦から近年に至るまでの戦争に関する資料を所蔵・展示しています が、オーストラリアが主要国として英連邦占領軍に参加し、日本に進駐したことから、日本国内の写真や映像を多く所蔵しています。

たまたま、「オーストラリア戦争記念館所蔵写真展」をやっていた。敗戦後日本を占領したのは連合国軍であるが、ほぼ米軍、そして英軍もいたことは知っていた。四国、中国地方に英軍は進駐した[1]。江藤淳の本のどこかに広島は、原爆のことがあるから、イギリス軍占領下になった、みたいことが書いてあったと記憶している。なお、中国軍(蒋介石軍)が政治的パフォーマンスのため来たけど国共内戦ですぐ帰った、と何かで読んだ気もする。

[1] イギリス連邦占領軍は山口県、広島県、島根県、鳥取県、岡山県と四国4県の占領を担当、残りの都道府県はアメリカ占領軍が担当することとなった (wikipedia)

なので、下記呉で撮影された写真は上記の記述と調和的である。でも、この写真の説明が「子供たちと遊ぶ英連邦兵士」なのである。おいらは、豪兵なのに、なぜ「子供たちと遊ぶオーストラリア兵士」と書いてもらえないのか不思議。このslouch hatは、彼が豪(オーストラリア)兵であることを示している。当時はオーストラリア国軍はなくて、英連邦軍の一組織に過ぎなかったのだろうか?なお、オーストラリアは国として極東委員会のメンバー国。

恵比寿(今の防衛庁の目黒基地)が豪軍のキャンプであったと知る。

Camp Ebisu [Google画像]

■ 関連愚記事; シンガポール住民の前で道路を掃除させられる豪兵。


30年来の聞き間違いに気づいた; chinese rice(誤) ⇒ chinese dice(正)

2015年05月03日 17時50分52秒 | その他

林芙美子の「一九三二年の日記」を読んでいた。林芙美子のパリ滞在日記だ。

   Amazon

しばしば、「支那めしを食う」とある。 例えば;

四月二十三日(土曜日 samedi)

白井、大屋とともに支那めしに歩いて行く。

食べあきたのだが金がないので仕方もない。

とある。(なお、ここで白井とは、白井晟一 (wiki)である。林芙美子@人妻の恋人と目されている)

文脈からみて、支那めしは富裕時に食するものではなさそうだ。

林芙美子が、金が欲しいと唸っていたパリ時代。やはり、「支那めし」とは困窮の記号なのであろう。

そして、この林芙美子の「一九三二年の日記」の「支那めし」をみて、おいらの頭の中では、中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」が鳴る(YouTube; 中村あゆみ,「翼の折れたエンジェル」)。

~♪~ チャイニーズ・ライスを食って 生きてくふたりの夢を 誰もがいつだって 笑いとばした ~♪~

やっぱり、「支那めし」=チャイニーズ・ライス( google画像)って、カネはないが夢だけはある若い二人が甘受すべき困窮の象徴なのだろうと思った。

でも、おかしいな。

おいらなら、毎日、「支那めし」=チャイニーズ・ライスでOKさ。 うれしいよ。

おいらの「支那めし」好みはともかく、本題に戻って、林芙美子問題。

本件はお金以前に、問題がある。 姦通じゃないか。

■ なので、中村あゆみのチャイニーズ・ライスって具体的になんだろう?とググってみた。

そしてわかったよ;

~♪~ チャイニーズ・ダイスをふって 生きてくふたりの夢を 誰もがいつだって 笑いとばした ~♪~ 

だって(歌詞)。 チャイニーズ・ダイス (google 画像)。

チャイニーズ・ライス(「支那めし」)じゃなくて、チャイニーズ・ダイス = 支那賽子なんだよ。

30年間、ずーっと、勘違いしていたのだ。 なお、この勘違いは前例があり、凡庸なまつがいであったことも間抜けだ。

 


新しい街でもぶどう記録;第27週

2015年05月02日 19時58分48秒 | 草花野菜

■ 今週の草木花実


都内台東区三ノ輪にて

■ 今週の kids' burden、あるいは、:: 人生は重荷を背負いて、長き道を行くが如し ::

  

身軽・お気楽のおいらは、今週は多摩動物園と上野動物園に行った。

当代ぬっぽん列島に活動する子供たちが、家康の徒であり、皆、その訓(おしえ)に従い幼少から実践しているとわかった。

  :: 人生は重荷を背負いて、長き道を行くが如し ::or YouTube ;  The Beatles - Carry That Weight

▼ なお、右図の少年は an Indian boy である。インド系の学校の生徒群が上野動物園に来ていた。

たまたま、巻き込まれた。 インド系の学校の 生徒 児童たちは、かつて、日本がインドから象をいただいて、大興奮したことも知らないのである(関連愚記事; 日本の敗戦廃虚の中からネルーに象さん下さいと送った日本がきんちょの象さんの絵がどれもこれも象さんじゃなかったことに、ネルーがショックを受けたとされている。)。将来、IIT(愚記事;約10年前IIT=インド工科大学 出の諸君へのインタビュー)に行くか不明であるが...。


愚記事;ほんもののぞうさんをみたいな

「豊かな」現行ぬっぽんにおいては、ほんものの象さんや、ほんもののパンダを見ることができる。おいらは、ほんもののニホンザルを見た;

毛づくろい/のみとり?、をしていた。おいらが生まれて一度もやったことがないことだ。

これを見て、なぜおいらが「出世」できなかったか、わかった。

ありがとう!、動物園。 ほんものの動物たち!

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ぐるっとパス使用記録5; 上野方面、(+旧江戸城方面: 片岡球子展)

2015年05月01日 19時51分28秒 | 東京・横浜

ぐるっとパス使用記録1; 新宿方面、 
ぐるっとパス使用記録2;目黒方面、  
ぐるっとパス使用記録3; 多摩方面、 
・ぐるっとパス使用記録4; 渋谷・日本橋方面、

に続く第5弾。

▼ 7; 恩賜上野動物園


ライオンor トラ [忘れた]のえさを啄(ついば)む雀


ジャイアントパンダ舎

 

おいらは生まれて初めてパンダをみた。

なお、今上野動物園にいるパンダは、リーリーとシンシン。現場にもカタカナで表記してある。しかし、支那文字表記が、おいらには、見当たらなかった。今ネットでしらべると、結構探すのに時間がかかった。(でも、なんのことはない、当局のサイトに書いてあるのだが)やっと、リーリー(力力)とシンシン(真真)とわかる。それにしても、彼らの元の名前は、「比力(ビーリー)」、「仙女(シィエンニュ)」らしいのだが、なぜか日本では同じ支那文字2連続の名前となる。蘭蘭、康康、以来そうなのだ。なぜなんだろう?

 あまり関連しない愚記事

▼ 1;下町風俗資料館

原子双六(google)なるものが昭和24年(1949年)に出たらしい。湯川秀樹のノーベル賞に便乗したものだ。この原子双六のあがりが「ノーベル賞受賞」なのだが、その数歩手前が「ビキニ環礁での水爆実験」である。なお、昭和24年(1949年)は日本は占領下であり、廣島・長崎の惨状は報道規制・検閲で広く一般には公開されていなかった。これは今の「若い人」は知らないことだろう。そして、湯川秀樹さんが戦時中海軍が京大に委託した原爆開発研究に携わっていたことは今の「あらゆる世代の日本人」はあんまり知らないことだろう[google]。

▼ 11; 一葉記念館

「一葉記念館」、って名前がいい。なまえもひとひら。 「恩賜上野動物園」とは違う。ぐるっとパスで行ける78ヶ所の中ですごいのが、例えば、「国立科学博物館付属自然教育園」など。

樋口一葉はモダニズム前の人なので、母親に「女は学問はいらない」と学校を辞めさせられる。これは林芙美子や片岡球子(後、登場)の時代とは違うのだ。

(▼24; 東京国立近代美術館、 片岡球子展)

国立近代美術館はぐるっとパスに入っているのだが、割引がわずかであるので、前売り券を買った方がまだ安い。

片岡球子。 おいらは、このあいだ知った。 針生一郎経由で知った。

元祖、ヘタウマ、(google)にほかならない。印象深い作品も多いのだが、ふざけんてんのか?と苦笑してしまう作品もある。

でも、初期の「枇杷」とか普通にうまい。「飼育」とか、すごい。 「守破離」を一瞬で駆け抜けたらしい。

 

そして、知ったさ。球子は札幌っ子だって。作風を見ると、北海道のイメージは全くない。特に初期の枇杷や曼珠沙華など、むしろ、北海道にはない植物。でも、逆に、道産子の目が、枇杷や曼珠沙華などに注目したのかもしれない。彼女にとって、目新しかったから。

球子(1905年生まれ)は、札幌北九条小学校。そして、札幌高女。さらに、上京。女子美術学校日本画科高等科へ。

実家は酒造業であり、プチブルの出だと今日知った。

なお、1905年生まれの片岡球子が(林芙美子は1903年生まれ)、戦時中どうしていたのか?は知る由もないが、本展示には1点示してあった。


片岡球子、『八風不動』 昭和18年(1943年)作