いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

pseudo birds / 偽鳥

2015年05月14日 19時55分39秒 | その他


-都内、目黒区にて-

■ 今日知ったこと;

林芙美子は2度魯迅に会っている。二度とも、上海にてである。

知った理由は、平林たい子、『林芙美子』に書いてあった;

尚この旅行の終わりに、「巴里日記」にはないが彼女は上海で魯迅と会見した。

この「巴里日記」とはフィクション作品としての林芙美子の1931年ー1932年のパリ滞在記。これとは別に、「一九三二年の日記」という"ノンフィクション"がある。作品ではなく日記で生前は非公開。現在は読むことができる(「林芙美子 巴里の恋―巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙 」[Amazon])。その「一九三二年の日記」にも魯迅との会見の記述はない。というか、魯迅と2回目に会った1932年6月の日記は欠落(4/25~6/30の部分が破り取られている)。

つまり、林芙美子はパリの帰りの1932年6月に上海で魯迅と会うのであるが、この1932年6月という時期は既に上海事変(関連愚キーワード)が起きた後ではないかと、おいらは、気づく。 ネット探すと有ったよ。 林芙美子の魯迅会見の思い出(雑誌「改造」1937年4月号、魯迅追憶。魯迅は1936年(昭和11年)10月に死んだので、その追悼だ http://web.fukuyama-u.ac.jp/rcosr/suishin/report/09/pj5/pj5-1-3_2.pdf)。「魯迅氏は上海事件の後のせいか非常に疲れたような顔をしておられた」と林芙美子は書いている。

こう書いた1937年4月から半年後、林芙美子は南京陥落に乗り込むのである。

林芙美子が南京入城の際、ある男性に肩車されていたそうだ。そして、その後、その男性との面会を謝絶している。 公知だが、おいらは、現在、詳細を調査中。

■ なお、魯迅との会見の1度目は1930年(昭和5年)。稼いだ金での最初の海外旅行でのことだ。

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