いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

novel

2006年09月18日 20時49分14秒 | 
保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』には、小説とは、哲学や自然科学と同様に、誰も見たことがないものを描くことが最重要だとしている。事実、小説は英語のnovelで、小説という意味のほかに、新規な・見たことのないという小説の定義にほかならない意味を持つ。「誰も見たことがないもの」というのは原理的に経験できないのである。例えば、科学技術の世界でnovel materialといったら「これまでない性能をもつすんばらしい材料」という意味。

■同様に、作家自身の見地からは、村上春樹『やがて哀しき外国』において;

 ときどき「私はこれまでに、もう何冊も何冊も小説が書けるくらい面白い経験をしましたよ」と言う人の出会う。考えてみればけっこう多くの人の口から同じ台詞を聞いたような気がする。とくにアメリカに住むようになってからはそうだ。

とアメリカという外国に住む日本人から豊富な体験をもつことが小説を書く原因となるかのごとき発言をよく受けることに対し、村上は;

 僕自身はこれまで既にけっこうな数の小説を書いてきた人間だけど、現実の人生においてはものすごく面白いことなんてほとんど経験しなかった。

と言っている。つまりは、すごい経験をしたら小説が書けると思っている シロウト さんを、村上流に上品に、いなしているのである。

■そんな村上は、三島由紀夫など過去の作品を相当読み込んで周到にかつ戦略的に作品群を展開しているのだということを逐次示したのが、佐藤幹夫の『村上春樹の隣には三島由紀夫がいつもいる。』。すばらしい。この佐藤の本を読んで思うのは、佐藤の指摘のとおり村上が実際にそう本歌取りというか本歌いじりをしてそうである。重要なのは、佐藤のように過去の蓄積と比較考量することによって、むしろ村上のnovel(新規な・見たことのない)が明らかになるということ。我々が直面するのは村上の作品そのものであって、それ以上でも以下でもない。つまり、novelを知るには先行作品を知るべしという逆説。だって、novel作品を作ることは現在・未来のものをつくる行為、先行作品を知るのは過去、かつすでにnovelでないものを知る行為。

別の観点では、佐藤の読みをみて、読むってすごいんだなと自分で村上を読み込むひとが出るということ。佐藤の本を読んで、その結果に感動して、村上って三島と関係深いんだよね、といってまわるのは普通のお人(というか おばか)。読みの可能性は読者の数だけある。

■読みの可能性は読者の数だけある。といっても強烈なのが、小森陽一センセ 『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』 。 まあ、あいかわらずの小森節がお元気で結構なことですが、{『海辺のカフカ』で「癒されている」ヤツラは<米帝>の手先}(いか@サマ暴力的要約)というのはオーバーランなりよ。安倍憎しで対米従属の首魁は岸信介というのも強引で、対米従属の第一責任者は吉田茂、あるいは、お望みなら、ひろひとさんもどうぞ、そして、解放軍=マッカーサー将軍サママンセー@府中刑務所のヨヨギの諸君でないべか!? それにしても、小森センセ、呼び捨てはいけません。呼び捨ては。せめて、ヒロヒト「さん」にしましょう。なぜなら、我ら朝敵にも礼節ってものがあることを きゃつら にみせつけませう!

■平野啓一郎ブログ のweb2.0的世界において、「名誉」を守るということについて

佐藤亜紀『鏡の影』と平野啓一郎『日蝕』の内容が酷似している、という意見があることについて、平野啓一郎は自分は『日蝕』を書く前に断じて佐藤亜紀『鏡の影』を読んでませんと主張しているもの。

上記の保坂/村上の話の主旨に基づくと、もし仮に平野が佐藤亜紀の『鏡の影』を知っていたとしても問題ない、つまり平野啓一郎の『日蝕』は小説=novelである。なぜなら、文学賞の選考委員がこれは小説=novelであると認めたのだから。

もちろん、佐藤亜紀が平野啓一郎の『日蝕』を自分の『鏡の影』のパクリと主張、あるいは訴えることはできる。しかしその場合は、矛先は文学賞の選考委員に(も)向かうべきである。もしかして、『日蝕』は『鏡の影』の盗作であり、文学賞の選考委員が『鏡の影』を知らなかったから、平野啓一郎の『日蝕』を小説=novel=新規な・見たことのない作品と誤認したかもしれないからである。

■それにしても、文学賞の選考委員は大変だ。なぜなら、この世の先行作品を全て知らないと選考委員は勤まらないからだ。