いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今夜、龍馬が人殺す、あるいは、人殺し、人に殺されるII

2010年09月05日 08時50分10秒 | 日本事情

■おいらはねたみ・ひがみ・そねみであふれている。歴史上の偉い人で、かつ、昨今の人気者の御仁が、実は、人殺しだったり、ペテン師だったりすることを叫ぶと、豚のように幸福にぐっすり眠ることができる。連続する熱帯夜でさえ、ぐっすり眠ることができる。

   ・第一弾;人殺し、人に殺されるI、人殺しの伊藤君、人に殺される;


    
- revolverをもったrevolutionist -

■今夜の大河妄想ドラマで龍馬は人を殺す。 予告でやっていた。薩長同盟の成立を受けて、幕府の伏見代官所の捕り者担当者たちは龍馬は捕捉しようとした。別に龍馬を殺そうとしたわけでない。龍馬は"ピストル"で応戦。伏見代官所の捕り者担当者が二人殺されたとされる。

■ちょっとネットで調べただけでは、この哀れな二人の"幕末のおまわりさん"の氏名や素性はわからなかった。かわいそうなふたり。誇大に美化された英雄サマの影になんらかえりみられない、歴史の中の"廃棄物"。

「伏見代官所の捕り者担当者が二人殺されたとされる」という根拠は、おいらは、つかめていない。でも龍馬自身の供述があった;

―折から、かねてお聞きに入れし婦人 -名は龍、今妻といたしおり候- 勝手より走(は)せ来り云うよう、御用心なさるべし、はからずの敵のおそい来りしなり、槍持ちたる人数は、はしごだんをのぼりしなりと、夫(それ)より私も立ち上がり、袴きんと思いしに、次の間に起き候、そのまま大小さし、六発込みの手筒を取りてうしろなる腰かけによる、敵の十人ばかりも槍もちたる、一番右の方を初めとして、一つ打ちたり、と思うにその敵は退きたり、よく敵の胸を見込て打ちしに、その敵は、丸(たま)にあたりしと見えて、ただねたおれるように前にはらばうようにたおれたり、この時筒の玉こめんとて、六発銃の(下記図参照)このようなもの取り外し、...(中略)はしごだんを下りてみれば、敵はただ家の店の方ばかりを守りて進むものなし―



この龍馬の"供述"は、兄にあてた手紙だそうだ。出典は小西四朗、『日本の歴史19、開国と攘夷』(中央公論社)、1966年、からの孫引き。

■"今夜、龍馬が人殺す"の演出について;
 龍馬は、鉄砲で2人殺したという記録が残っていますが、刀では誰も斬(き)っていないと言われています。それを信じるとすると、誰も斬らずに脱出しなくてはいけないという難しさがあります。大河ドラマ『龍馬伝』、寺田屋・龍馬暗殺へのプレリュード (現在リンク切れ)


上記手紙から考えるに、代官所の役人たちは単筒にびびって遠巻きにしてたってことかなぁ。予告を見ると福ちゃんが幕府の役人を人質に逃げている。それにしても"寺田屋騒動でもう1人欠かせないのはお龍(真木よう子)ですよね。龍馬のことを、文字通りカラダを張って守ろうとします。"とか、みんなで楽しんじゃって。殺された哀れな二人の"幕末のおまわりさん"の呪いで不幸になればいぃんだとおもう。

■最上の画像は龍馬のお尋ね者人相書き。ネット上でひろった。以前、愚ブログでもこんな画像を紹介した⇒幕末のお尋ね者。西郷、高杉そして平野次郎(国臣wiki)。その平野の位置に龍馬が収まっているのがこの手配書。本物なのだろうか?後世に作ったものではないのだろうか?もし本物だとすると幕末のその時代から、龍馬は西郷並みの大物扱いだったことになる。


幕末のホリエモン;いかサマペテン師としての龍馬

龍馬って、グローバリゼーションとやらに便乗して、国内慣習を脱"法"してのし上がった"幕末のホリエモン"じゃないか! なぜなら、例のいろは丸事件では、積んでもいない金塊を積んであったとはったりをかまして、万国公法とやらを盾に、紀州藩から賠償金を巻きあげた。

こういうチンピラまがいの行為は 妄想 ドラマでの"盟友"も同様;

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引である。弥太郎は最初から政商として暗躍した。 wiki ⇒詳細;愚記事・パーリアのスティグマ


ペテン師たち →ペテン師の末裔どもの口先処世術
←弱関連愚記事;丸の内サディスティクス

▼ 歴史上のことに現代の価値観や視線でものをいうな!という意見がある。実は、本質的な意味でおいらもそうおもう。でも、問題なのは、現在の価値観を持ち込めない歴史をフィクション化して現代に持ち込んで、あまつさえ、歴史上の人物に感情移入して、それを以って現状に対処する元気づけにしている人々である。龍馬バカの面々。別名、ゼヨ馬鹿。「歴史上のことに現代の価値観や視線でものをいうな!」という言う人のなかで、この問題のある根拠に無批判に漬かっているひとが多い。

○龍馬バカの典型はこれだよね⇒龍馬脳 (人生が驚くほど変わる 龍馬脳のススメ) ←絶対、驚くほど脳ミソがお花畑だょ。もっとも、人殺しもいいぜよ!それが龍馬脳ぜよ!、龍馬脳で脱税だぜよ!とか言ってくれたら、尊敬する。

▼なぜ人を殺してはいけないのか?という問いがある。常識人ほど、そういうことを問うこと自体が愚かという態度をとる。そうか?「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いを、この龍馬の事件を材料に討議してみろよ、常識人の龍馬マニアたち。

▼もっとも、歴史を現在に持ち込んで、自動小銃乱射、手榴弾で自爆の御仁続出ってのも { 困る?/にこにこできる?}


 幕末なんてたかが百年ちょっと前の時代である。繰り返すが、そこでは主体的な確信のみを頼りに暴発する見切り発車的「覇気」はまったくの当たり前の前提だった。その手の「覇気」にかんする限り、西郷や大久保や桂はもちろん、天誅組や赤報隊や彰義隊や白虎隊や水戸天狗党 etc....などのいわゆる負け組(中略)ですら目が眩むほど素晴らしい。あいつらとわれわれは本当に同じホモサピエンスか。近現代人たるわれわれはどうしてしまったのか。情けないことこの上ない。石川忠司、『衆生の倫理』 (amazon)

こういう視点から考えると、「暴発覇気の歴史」をお手軽なホームドラマにしているのが「近現代人」ってことね。



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