▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第323週
▼ 今週の武相境斜面
JR横浜線、成瀬駅付近
■ 今週のメタセコイア
■ 今週の草木花実竹
ミモザが、微かに、色づきはじめた。
梅が咲き始めていた。 ピントを合わせ損ねた。
■ 今週の富士山
小山田緑地にて。
■ 今週の町田の人出、あるいは、昼飲み事情
今週日曜日、町田へ行った。非常事態宣言は出ている。この日、まだ週明け直後で、夜8時以降は自粛という雰囲気。のちに出る、昼間も不要不急外出は自粛という呼びかけはまだ出ていなかった。
昼ごはんのため、ひとりで、中華屋に入る。
香港酒家 九龍 食べログ
客は3組。うち2組は酒を注文していた。8時以降の飲酒・会食自粛は意味がないだろうと感じた。
白身魚の甘酢あんかけ定食、790円。
■ 今週の緩衝材
HDを買った。買う前の選定で、だめ理由が通販の場合輸送中に壊れるというものが複数あった。今回買ったやつは、レビューでクッション付きでよかったというのもあり、選んだ。
■ 今週のメッセージ
町田市 下小山田
■ 今週の「(昭和)天皇に達せず」(?)
のし梅を買った。山形 玉屋総本店の約500円のものだ(商品情報)。 見ると、皇太子殿下御献上品(昭和三十四年)、高松宮殿下御献上品(昭和三十四年)と書いてあった。すなわち、ひろひとさんには届いていていなのだ(?)。のし梅天皇に達せず! と与太なことを高松宮殿下つながりで連想してしまった。さて、昭和天皇はのし梅を食べたことがあるのだろうか?
正しい食べ方は、はさみで、横方向に切ると、しおりに説明が書いてあった。
『情報天皇に達せず』=『細川日記』より
■ 今週の「ワシントン・ハイツ」[1] 情報@天声人語への道 (2回目。1回目は飯田久彦)
[1] 愚ブログに現れる「ワシントン・ハイツ」
今週みた本にあった。『戦後体験の発掘』、安田常雄+天野正子 編、三省堂、1991年。平成始動時の有名"インテリ"さま(森毅、富岡多恵子、梅原猛、森崎和江、上坂冬子、古関彰一、大江志乃夫、中沢新一など)に、敗戦とその後の占領時代の経験をインタビューしたもの。なぜかしら、占領が明けたのち生まれた中沢新一も入っている。
この本をつくった安田常雄は、動機の一部について、江藤淳の無条件降伏論争から占領期の検閲研究があったことを挙げている。そして、その江藤的占領観への「違和感」もあると書かれている。
さて、その中で加藤秀俊 [2] のインタビューにあった ([2] 陸軍幼年学校出身者として愚記事に登場);
それから、同級生の辰濃和男なんか、代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅で、ハウス・ボーイというのをやってたんです。
この加藤秀俊 のインタビューには明示されいないが、代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅はワシントン・ハイツに他ならない。なぜ、「代々木公園にあった、アメリカ軍の高級将校のバラック住宅」という言い廻しをするのか?なぜ、直截にワシントン・ハイツといわないのか? 飯田久彦のインタビューに参考となる言い廻しがある。「今の代々木公園にワシントン・ハイツってのがあって、」と。すなわち、ワシントン・ハイツといきなり言っても、「今の人にはわからないだろう」という認識があったと仮定すれば、納得できる。加藤秀俊は、ワシントン・ハイツといきなり言うのを、聞き手はどうせわからないし、通じないだろうと端からあきらめたと考えることができる。
占領時代、米軍住宅には日本人のメイドが多く雇われていた。ただし、おいらは、「私はかつて占領時代、米軍住宅でメイドをしていました」と証言する話を、まだ、みたことがない。一方、元米軍住宅のメイドは小島信夫の小説に出てくる。
そして、ハウス・ボーイ。 江藤淳は書いている;
いうまでもなく、これら”第三の新人”の作家たちが、作品を発表しはじめたのは、占領軍民間検閲支隊(CCD)による事前検閲が廃止された占領末期でなければ、占領終了直後の時期である。しかし、それにもかかわらず彼らの文体が、地を這い、屈折しつつ矮小化し、あるいは過度に断片的で人工的なものとならざるを得なかったのは、一つにはこの時期までに戦後の言語政策と検閲が、日本のジャーナリズムのなかでほぼ完全に制度化されていたことを物語っている。“第三の新人”の作家たちは、ハウスボーイとして、アメリカンスクール参観の教師として、また病者として、占領の屈辱を嘗めたというにとどまらない。それ以上に、これらの人びとは、あの人工呼吸の影響を、それぞれの言葉に刻印されていたのである。 (『自由と禁忌』初出 1984年 [昭和59年])
さて、辰濃和男。ハウス・ボーイをやっていたとされるこの人。おいらは、初めて見た名前だった。ググった。びっくり。
大学卒業後朝日新聞社入社。浦和支局、社会部、ニューヨーク支局長、社会部次長、編集委員、論説委員、編集局顧問を歴任。この間、1975年から1988年まで「天声人語」を担当 (wikipedia)
ぎょえ。13年間も朝日の「天声人語」を担当していたとのこと。天安門事件、ソ連崩壊前の、まだ戦後民主主義的言辞が通用した最後の時代だ。
もちろん、辰濃和男がハウス・ボーイをやって屈辱を嘗めたかはわからない。幸せだったかもしれない。でも、天声人語なぞ読んだこともないのだが、おそらくそれは「彼らの文体が、地を這い、屈折しつつ矮小化し、あるいは過度に断片的で人工的なものとならざるを得なかった」ものに違いない。そして、「天声人語」の文章は、「戦後の言語政策と検閲が、日本のジャーナリズムのなかでほぼ完全に制度化され」た言語空間での「精華」であったのだろう。
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