いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

(東京)陸軍幼年学校、1945年(昭和20年)、あるいは、8月2日の空襲の回想

2020年10月11日 13時01分02秒 | 日本事情

西村京太郎 1930年9月6日 -   (作家)[wikipedia]
石田保昭 1930年9月30日-2018年5月18日 (インド学者)[wikipedia]
加藤秀俊 1930年(昭和5年)4月26日 - (社会学者)[wikipedia]

■ 石田保昭が陸軍幼年学校に在学していて、敗戦を迎えたことは知っていた。敗戦を迎えたばかりか、東京の陸軍幼年学校は空爆され破壊された;

石田保昭という人は1930年生まれ。父も祖父も職業軍人という系譜。陸軍エリートの家庭の家風なのか、石田は陸軍幼年学校へ。そこで敗戦。

「一九四五年八月二日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校に二万発の小型焼夷弾が落とされた。直撃弾で死んだ三人の戦友の死体が、焼け残った倉庫にころがされていた。」(『インドで暮らす』)

(愚記事;なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』

■ さて、あの西村京太郎が同じく陸軍幼年学校にいたとのこと。2017年に出版された『十五歳の戦争』という自伝で書いている。この本、出版当時から知っていたが、先日、ブックオフで100円になったので、買って読む。石田保昭の本には詳細が書かれていない1945年8月2日の八王子にあった東京陸軍幼年学校の空爆について、西村京太郎は書いている;

 そして、八月二日、B29の大編隊による空襲が、東京陸軍幼年学校を襲った。
 深夜の午前〇時過ぎである。警報が鳴っていたが、今日も、こちらには来ないだろうと考えて、私たちは生徒舎で、眠っていた。
 それが、いきなりの爆発音である。眼を開くと窓ガラスの外が、真っ赤だった。あわてて、起き上がったが、隣のベットの千葉という生徒が、まだ眠っている。彼は、仙台の生まれで、両親に会って帰ったばかりだったから、疲れ切っていたのだろう。とにかく、叩き起こして、生徒舎を飛び出した。
 別の生徒舎や、大食堂から、炎が吹き上がっている。
 生徒舎の横に作られた防空壕は、満員だった。
 私と千葉は、どこへ逃げるか一瞬、迷ってから
「雄健神社へ行こう」
と決めて、走り出した。
 その間も、バラバラと、焼夷弾が落下してくる。E46と呼ばれる新型の焼夷弾だった。何十発も束ねられ、投下されると、空中でバラバラになり、広い範囲に、バラまかれるのだ。
 私たちにとって、幸いだったのは、それが爆発力よりも燃焼力に優れていることだった。とにかく雨のように降ってくるのである。それが全て爆発していたら、雄健神社に集まる私たちは、全員が、死亡していただろう。ところが、問題の焼夷弾は、地面に突き刺さってから、炎を吹き出す。消化は難しいが、炎を吹き出すまで、逃げれば助かることがわかって、とにかく、走った。
 雄健神社のある丘には、二、三十人の生徒たちが集まってきた。誰もが、疲れ切って、座り込んでいる。私と千葉も座り込んで、眼の下に広がる火炎を見ていた。
 全ての建物が真っ赤に燃えあがっていた。
 怒りよりも、ただ、呆然としていた。
 今日の昼間まで、走り廻り、鉄棒で苦労し、剣道をしていた場所である。その全ての建物が、燃えていた。
 B29の大編隊は、次から次へと現われ、夜明け近くまで、焼夷弾を落とし続けた。
 この空襲で、七人の生徒と三人の教師が亡くなった。
 私たち一年生の死者は一人。名前は及川である。彼と同じ訓育(クラス)でもなかったし、言葉を交わしたこともなかった。それでも、七十年たった今でもはっきり名前を覚えているのは、一年生の死者が、及川一人だったこともあるが、それ以上の理由が、彼の死に方だった。
 及川は、今、靖國神社に祀られていることからもわかるように、陸軍幼年学校の生徒は、兵士だった。だから、私たちは、入校と同時に短剣を渡された。
「この短剣は、天皇陛下から頂いたものであるから、常に身につけていなければいけない」
 と、繰り返し、教えられた。
 だから、私も千葉も、短剣を腰につけて、雄健神社に逃げた。
 ところが、及川は、短剣を忘れて、生徒舎を飛び出してしまったのだ。気がついた及川は、短剣を取りに、炎上している生徒舎に引き返し、死んだ。
 その及川の行動を、校長は絶賛した。
「及川生徒は、死を覚悟して、天皇陛下から頂いた短剣を求めて燃えている生徒舎に引き返した。これは、名誉ある戦死である」
 だから、及川は、靖國神社に祀られた。
 反対に、学校の外に逃げた生徒は、校長から叱責された。
「学校の外まで逃げるのは、兵士が戦線を離脱するのと同じだ」
と。今なら、校長は何というだろうか? (西村京太郎、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』)

1945年8月2日の空爆での犠牲者は10人である。今では、名前が公知となっている(⇒東幼観音と東京陸軍幼年学校(八王子)の慰霊碑の画像に名前が刻んである;下記画像[ブログ 近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 様より])。なお、西村京太郎は、1年生の犠牲者は1名と書いてある。しかし、上のリンク先の画像ではその及川氏ともうひとりの名がある。1年生の犠牲者は2名だと思われる。

■ 陸軍幼年学校の体罰

 もう一つ、幼年学校の堀の内と外とでは、その違いに驚いたのは、私的制裁だった。
 軍隊では、制裁が日常化していると、よくいわれる。徴兵された初年兵は、毎日、理由もなく、古年兵から殴られると聞かされた。
 私も、幼年学校に入ると、上級生から殴られる覚悟をしていたのだが、一回も殴らられたことはなかった。
「将校生徒なら、殴られれなくとも、自分で反省するだろう」
というのが、制裁がない理由だった。 (西村京太郎、『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』)

一方、仙台陸軍幼年学校にいた加藤秀俊は、『人生にとって組織とはなにか』で回想している;

一九四五年、つまり敗戦の年、わたしは陸軍幼年学校生徒であった。幼年学校というのは陸軍高級将校になるための予備校のようなものであって、十二、三で入学。つまり中学生である。それでも軍籍のうえでは「兵長」相当と見なされ、職階的にいえば二十歳の初年兵はもとより三〇歳をすぎた上等兵よりも偉かったらしい。それだけに、規律は厳格だった。(中略)
 ときには兵器検査がある。十二歳の少年であったわたしたちにも、ひとりに一挺「三八指揮歩兵銃」というのがあたえられており、毎日その手入れを怠ってはならなかった。ちょっとしたサビや曇りが見つかっただけでも強い戒告をうけたし、上級生からは横ビンタがとんできた。(加藤秀俊 『人生にとって組織とはなにか』)

つまり、東京では体罰はなかったが、仙台では体罰があったことになる。

■ 忘備

▼東京陸軍幼年学校:場所(敗戦時)、八王子長房町 [wikipedia]

上野地図の「白百合幼稚園」付近

▼仙台陸軍幼年学校:場所(敗戦時)、仙台市三神峯 [wikipedia]

上の地図の「東北大電子光理学研究センター」付近

 



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