いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「能や歌舞伎」バカ

2013年11月06日 20時36分49秒 | 日本事情

[前置] (おまわりさん、ごめんなさい。 おいらは、ルサンチマン(=ふりかえり、そして、再感受すること)を駆動力に生きています。 

ふりかえるな! r o w ! 反しています。 

常に、ふりかえっています。 漕いでません。 おまけに不利被って(ふり かぶって)います。 同情してください。  漕いでません。 でも、センズリはこいています(愚記事; おいらはポルノ三昧で暇を潰している)、 ゆるしてください。)

■ 日本料理、日本画、日本文学、日本家屋、日本庭園... 日本なんとかはたくさんある。

(関連愚記事; やはり、■日本大好き!は、サヨに学べ!

でも、「日本劇」はきかない (日本自由民主党もきかないが、)。 「日本演劇」というものいいはあるようだ。日本演劇史、という言葉使いとか。 例えば、おうどん氏はいっている;

演歌といえば前進座の傑作「旅の終りに」はレコード会社の演歌部門を舞台にして、うつりかわる時代をたくみに捉えていたが、この劇はドサまわりの演歌歌手を描くことで、時代を超えて存在し日本演劇の祖でもある遊行する河原乞食の世界へと、目を向けさせる。 (劇評26 菅間馬鈴薯堂

でも、やはり、日本演劇という言葉は日常語ではない。この列島での演劇を対象化したい「玄人」のひとしか使わない言葉だ。少なくも、日本料理という頻度で日本劇ということばは使わないだろう。そもそも、日常で日本劇なんて聞いたことがない。

何が言いたいかといえば、この列島での演劇は簡単には「日本」の元にまとまらないのである。おうどん氏の言に従うならば、「河原乞食」という祖は同じでも、その後の、遊行で、てんでんちりぢりばらばら、簡単には「日本」の元にまとまりたくないに違いない。

● 「能や歌舞伎」バカ

能と歌舞伎だってそうに違いない。 成因、由来は全然別物である。さらにはそれらが興隆を極めた時代、その愛好者は別の集団である。全然、関係ない。それなのに、高度成長期以来、日本が大国化し、特に欧米との交流が深まった。その時、「国際化について、欧米の文化を受容、享受し、なおかつ欧米文化を摂取し、同化するばかりが国際化ではなく、日本人としてのアイデンティティーが重要だ、日本人なら「能や歌舞伎」くらい親しんでいないとダメだ!」みたい国際人のお小言があった。 例えば;

また、ケンブリッジに戻っていまだ疲れが抜けきらない二〇〇四年七月上旬、歌舞伎のボストン公演に感激した同僚が、著者の部屋に入ってきて著者を質問攻めに遭わせ、改めて著者の能、歌舞伎等伝統芸能に関する知識の貧弱さを痛感した。奥深い歴史を持つ「日本の魅力」に対する無知に恥じ入った著者は、次の一時帰国の際、千駄ヶ谷の国立能楽堂に赴くことに決めた次第である。 (栗原潤、『日本の知識戦略』)

特に上記の著者に恨みもないのではあるが、明確に文章にしているので、例示として引用した。 それにしてもすごいよね。ガイジンが歌舞伎ってすごいよね!って言ってたので、能を観にいった。

= ガイジンが寿司ってうまいよね!って言っていたので、天麩羅を食べにいった! 

  = ガイジンが沖縄に行ってすごかった!って言っていたので、北海道に行った!

現在、能と歌舞伎を同時に享受する神経はありえるだろう。ただし、能や歌舞伎が興隆としていた時代にその両方を享受する神経は見当たらない。

「能や歌舞伎」という、暴力的な、くくりはなかったに違いない。 それでも、江戸時代、「能や歌舞伎」は江戸城の人々をして、うつつ(現実)を抜かせしめていた。

■ 江戸城では、男は能に、女は歌舞伎にうつつをぬかす。

 能や歌舞伎はおもしろかったらしい、当時の人たちには。うつつを抜かしまくり。

▼男は能

例えば、第5代徳川将軍、綱吉は能にはまりまくり。ちなみに、当時「能」という言い方はしない。猿楽である。それを良くおもわなかったのは白石。新井白石だ。白石はのちに7代将軍となる家宣に仕えたが、家宣に能楽禁止を提言している。なお、当時すでに能楽は武家の式楽となっていた。

この背景は、江戸初期には有力な武将・大名は派手に能楽遊びをして、散財したらしい。伊達政宗もそうだ。偉すぎて、家臣は何も言えなかったのであろう。 つまり、能楽は権力者がうつつを抜かし、かつ散財までする危険な遊びだったのだ。

なお、将軍さまや大名さまは、歌舞伎は観なかった。下賤とされたからだろう。

▼女は歌舞伎だ。

白石が家宣に諫言した時代、大奥の女たちは歌舞伎役者を江戸城に引っ張りこんでいた。

江島生島事件(えじま いくしま じけん) wikipedia

● 江戸時代中期の えすたぶりっしゅめんとサマ は、芝居にうつつを抜かしていたのだ。

でも、芝居は芝居でも、能と歌舞伎だ。 能と歌舞伎の間には、深くて暗い河がある、らしいのに。

たとえ、能と歌舞伎の間や男と女の間に深くて暗い河があったとしても、芝居にうつつを抜かしていた江戸時代中期の えすたぶりっしゅめんとサマは、討幕という暴力的な、くくりを施せば、にこにこできる。能と歌舞伎で討幕だ。遊行する河原乞食を祖とするアナーキスト・「能や歌舞伎」バカたちは、偉そうにお城に居住して芝居にうつつを抜かしている   えすたぶりっしゅめんとサマ  を、後唐の荘宗が弑逆に遭ったように、転覆させるのだ。

その討幕のためには、能と歌舞伎の間には、深くて暗い河がある。 遊行する河原乞食を祖とするアナーキストたちは、今夜も舟を出す、 row! and row!

薩長同盟ならぬ、 「能や歌舞伎」バカ の実現のために、である。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。