いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

時代の寵児 空想虚言者  自動制御装置内蔵人間、あるいは、大卒@しかもS3/馬鹿女が支えるインチキ大先生

2015年11月22日 21時50分49秒 | 日本事情

「ICUの荒木です。札幌からかけております。先生が栃折さんに心配しないように電話をしてください、とおっしゃいましたので。こういうことです。(中略)オルガンを弾いていられたところ、右手右足がしびれてきて、一時的なものかと思ったが、翌朝になってもなおらないので札幌医大の内科医長和田武雄先生に往診をお願いしました。私は郷里なので森先生よりちょっと遅れて札幌に行ってまいりました。和田先生をよく存じあげています。外科の和田先生とは別の方です」
栃折久美子、"札幌で"、 『森有正先生のこと』

この本は2003年に刊行された本。森有正と愛人関係にあったらしい栃折久美子が、1970年のことを回顧した文章。

今の人が読んだら、(もっとも今の人は森有正のゴシップ情報の本なんか読まないだろうが)、「外科の和田先生とは別の方です」って意味が分からないだろう[1]。 なお、あのエロ小説家の渡辺淳一センセには、『ダブルハート』という作品がある(Amazon)。札幌医大は、渡辺淳一センセの勤務病院だった。さらには、北山修が札幌医大で勤務していたという史実は、かなりトリビアではある。

この本、 『森有正先生のこと』、を知ったのは2-3週間くらい前、中村健之介、『永遠のドストエフスキー 病という才能』という本を通してだ。「森有正は空想虚言者」と書いてあり、森有正は「奇妙な人間」であり、その観察記が、栃折久美子、『森有正先生のこと』とわかった。

栃折久美子、『森有正先生のこと』を読んだ。

ところで、江藤淳の「フォニー/フォニイ」という言葉が話題になったことがある。論争にもなった。詳細は、小谷野敦、『現代文学論争』の"三 フォニー論争 一九七三-七四"にある。端的にいって、フォニイとは高尚ぶっているが実はインチキである、ことだ。その江藤淳の「フォニー/フォニイ」考で名指しされた作家は、辻邦生、加賀乙彦、小川国夫。そして、その三人のうち、実に、(少なくとも)二人が森有正の"取り巻き"である。特に、辻邦生は"筆頭家老"である。

そして、結論は、栃折久美子、『森有正先生のこと』に書いてある。

栃折久美子と大学時代の恩師臼井吉見との会話;

(1971年、森有正がまだ生きている時、そして、死ぬ5年前)

(栃折久美子)「今日は、O大先生(著名な画家)のところへ行った帰りなんです。O先生、I先生(大作家)、そして森先生。このお三方のことを、私は時々ひょっとしたらインチキなんじゃないかって、考えることがあるんです。そこが魅力でもあるんですけれども。」

(臼井吉見)「その考えは、大変おもしろいな。人から聞いたことなんだが、井上靖さんが長い間かけて考えて、Iさんはインチキだという結論に達し、これはもう生涯、変わることはあるまい、と言ったそうなんだ。」

 栃折久美子、『森有正先生のこと』とは、1960年代末期から約10年間、毎年パリから日本に「カネを稼ぎにくる」森有正の、多分に理不尽な、雑用を栃折久美子が、喜び進んで、引き受ける話。昭和3年生まれの大卒女子による元祖「だめんず・うぉ~か~」。「だめんず・うぉ~か~」とは、男がだめだめなばかりでなく、それを支える女も同時にだめだめであることが重要。それを報告した「奇書」。昭和のインテリバカ女の記録。「先生」とセックスするって神経が信じられない。

この栃折久美子、『森有正先生のこと』を、今の時代のフェミニズムの教室での教科書にしたらいいと思う。明治生まれの昭和の大先生はこんなバカ女(昭和の馬鹿女!)に支えられてたって。日本の真実!戦後でもこんな調子だったのだ!

自動制御装置内蔵人間。この栃折久美子、『森有正先生のこと』で興味深い語彙は、自動制御装置内蔵人間。栃折久美子は自分は、自動制御装置内蔵人間だから、森有正先生の理不尽な雑用に振り回されているように見えて、破滅しないのだと云っている。そうなのだろう。そして、その自動制御装置内蔵人間が、森有正の破滅=社会性の欠如、金銭にだらしないこと、なによりインチキがばれることを救ったにちがいない。

それにしても、栃折久美子が森有正とつきあっていた頃、すでに、渡辺一夫などは森有正を相手にせず、面会謝絶にしていたらしいのだが、そのへんのことは、『森有正先生のこと』に見えない。

なお、栃折久美子、『森有正先生のこと』には、森有正がいいつける雑用のひとつのエピソードとして、江藤淳の投稿記事の切り抜きを持ってこい、というのがあったと書いてある。江藤淳のどの文章であるのかは書いていない。

▼  栃折久美子、『森有正先生のこと』の詳細は、極東ブログ、[書評]森有正先生のこと(栃折久美子)にある。今の人には知りようがない、「森有正」のその当時における意味が書いてある。時代の寵児だったのだ。おいらもその余韻は感じたことがある。

・日本人には個人意識は持てない

・日本人には真の恋愛も困難

とか云っていた森有正先生の御本を、あの頃、ぬっぽんの"いんてり層"はありがたくご拝聴していたのだ。

森有正が時代の寵児であった時代については、この書評に尽きる;

レビュー対象商品: 生きることと考えること (講談社現代新書) (新書)
投稿者  かぬひもと

本書がなぜ滑稽なのか。それは森有正が徹頭徹尾パリを礼賛しフランスを礼賛する一方で、東京をくさし、日本人を罵倒し、日本をダメな国とレッテルを貼り続けているからだ。これに尽きる。一言で言えば、森有正という人は「フランスかぶれのオバケ」みたいな人である。

■ 今では、森有正=インチキは周知らしい; 幻想振りまいた仏文の知的群像 平川祐弘

≪虚構にまみれていた森有正≫

辻邦生が森のデカルト研究の草稿が死後、何も残されてないと驚いたが、あれは驚く方がかまととで、間違いだ。因みに、渡辺格氏は『ももんが』の平成15年 5月号で晩年の父君は森が帰国し自宅を訪問しても頑として会わなかったこともその理由も引用するに忍びないほどあけすけに書いている。それなのに、森有正 に感心するフランス哲学の教授はまだ東大にいるらしい。だがそんな人は森と同じでフランス語で論文を出すでもなく生涯を終えるに相違ない。


[1] 和田心臓移植事件

・参考愚記事群 [森有礼]

 



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