いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

猿谷要と永井陽之助の間に何があったのか?あるいは、後ろから前から、針生一郎;米中両刀使い

2015年04月01日 19時34分03秒 | 日本事情

(ネット上で全く疑問視されない些細な疑問 [どころか地球上で誰も言及しない疑問] を思いついた)

3月に仙台に行って宮城県立美術館で開催されていた「我が愛憎の画家たち; 針生一郎と戦後美術」を見に行った(愚記事)。

その展示の冒頭、針生一郎の生い立ちの説明文に、第二高等学校で永井陽之助と 猿谷要 と一緒だったと書いてあった。

もちろん、何事にも無知なおいらが、針生一郎と猿谷要が関係があったとは知る由もなかった。

(ここで、おいらが、内心、驚愕したのは、猿谷要が出て来たことだ。 猿谷要。 知っている。まさか、仙台にいたとは全く知らなかったが。 猿谷要=アメリカ学者。 アメリカ! おいらが、一番、「直視」したくないものである!!! [アメリカが嫌いですか?: 愚ブログ記事群] 、・ アメリカが嫌いですか?(google) [関連愚記事;アメリカが嫌いですか:ダイエー論北米出張20] という問いには、  元気よく、「ハイ! 嫌いです」と答えるおいらは)

一方、針生一郎が永井陽之助と一緒だったのは知っていた。というか、永井陽之助経由でおいらは針生一郎を知ったのだ。その針生一郎を知ったのは、1985年の『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)という30人あまりの永井と交友のある"著名"学者(ほとんどが保守系・穏健の有名だが普通の=全然危険でない学者)の寄与小論文から構成された624ページの本であった。永井が東工大を退官する記念の、退官論文集みたいものだ。ただ、永井陽之助は世間に著名なので、文藝春秋社が商品として出したのだ。針生一郎が寄稿したのは、第二高等学校で一緒だったからだ。

そして、気づいた。この『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)には、猿谷要の寄稿がないのである。

猿谷要といえばアメリカ学者であり、永井陽之助もアメリカで修行したのであるから、二人は、境遇は似ているし、政治学-人文社会学的領域という共通の土俵の当時の著名学者である。 その猿谷要が、寄稿していない。 もちろん、1985年当時、猿谷要は存命。

猿谷要 wiki

なお、今となっては、知られることになったが、永井陽之助と江藤淳の関係も一触即発状態だったとのこと。

・  吉田教授と江藤教授が犬猿の仲であることは、はじめから知っていた。これは保守本流同士の確執である。一方、永井(陽之助)教授と江藤教授の折り合いの 悪さも半端ではなかった。江藤教授を口説いて連れてきたのは永井教授だが、文学が専門だったはずの江藤教授が領空侵犯して、政治問題に口を出すようになっ て以来、衝突を繰り返していた。 (今野浩、『すべて僕に任せてください―東工大モーレツ天才助教授の悲劇』;)[愚記事]

そんな江藤淳も『二十世紀の遺産』(永井陽之助 編)には、大人らしさを失うことなく、きちんと、寄稿している。

と、いうことは;

猿谷要と永井陽之郎の間に何があったのか?

  話は変わる;

■ 後ろから前から、針生一郎;米中両刀使い

現在ぬっぽん、そしてこの先半世紀余りの、われらがぬっぽんの外交的・戦略的課題は、米国・中国とどう切り結んでいくか?である。

関連愚記事;
米国は中国と戦争する気はない。日中開戦こそ日米同盟の破綻
・ 米中に挟撃され没落する日本中産階級   

前門の虎、後門の狼、に他ならない。 絶体絶命で、わくわくどくどき、である。

沖縄を踏みにじり日米が戦争をしたと同様のことが、この先この日本列島で、米中戦争という形で出来するだろ う。そして、日帝陸海軍が現地琉球/沖縄人を殺したように、将来起こる米中戦争では、在日米軍は日本現地人を、作戦上やむを得ずといことで、殺すことにな るだろう。もっとも、そんなことより中国軍にぬっぽんずんはたくさん殺されるだろうが。 (愚記事

 さて、針生一郎が1973年に中国の文化大革命を「礼賛」した。

それにしても、わたしは中国革命の原点である 延安を訪れて、抗日戦争のさなかに、この奥地でなしとげられた事業にほとんど圧倒された。一見退却ともみえる二年余の大長征を経て、八路軍がここにたどり ついたのち、党と軍の根本的な再建をはじめ、開墾、農・工生産、解放区の自治、大衆工作、学習など、すべてが統一的におこなわれたのである。ハン・スーイ ンの『毛沢東』によれば、中国革命は五・四運動以来、文化革命の性格をもっていたというが、延安時代には、今日にいたるすべての問題の原型がすでにふくま れていたのである。「文芸講話」の「文芸」が、文学や芸術だけでなく、歌舞、演劇、祭りなどをふくめた大衆工作の意味であることも、今度わたしははじめて 知った。(針生一郎、『針生一郎芸術論集 文化革命の方へ』、「われわれにとって文化大革命とは何か」) [愚記事]

針生一郎さんをよく知らないおいらは、針生一郎はバカサヨかと思った。 しかも、敗戦時まで"右翼"。

でも、事情は、少し違った。 1973年に文革中国に行く前に、1968年にアメリカに行っていたのだ。しかも、1か月。さらには、それはアメリカ国務省の「招待」なのだ。

そして、その経緯と理由が、面白い。 1960年代は米中の他に、ソ連がいたのだ。

針生一郎、ソ連の悪口を言って、アメリカ国務省からスカウトされ①、ソ連の悪口を言って=日本での新左翼だから、文革中国に招かれた②のだ。

① 

針生:ふーん。日ソ文学シンポジウムで僕が日本側の基調報告をやるために、ソビエト、東欧に初めて行ったんです。それが65年のこと。その時に雑誌 に書いた論文が、非常にソビエト、東欧について批判的というか、「制度となった社会主義よりも、資本主義社会の中で社会主義を求めている我々のほうがはる かに純粋だし思想が深い」というようなことを書いたものだから、当時アメリカ大使館の文化アタッシェだったニコルズという人が「いやいや、あなたの書いた ものはおもしろかった。あなたのような人がアメリカへ行けばいいんだが」と言うから「私も行きたいんだ」と言った。国務省招待でしか(アメリカには)入れ そうもないから、国務省招待でニコルズが呼んでくれるって言うんだけど、アメリカ大使館というのは我々が書いたものを全部ファイルしているから、下っ端が 反対した。最後の最後に国務省派遣でかつて日本に来たグリーンバーグが「針生なら是非国務省招待で呼べ」という手紙を寄越してやっと実現したわけ。だから 僕はニューヨークでお礼の意味もあってグリーンバーグの家を訪ねた。そうしたら、ユダヤ人マフィアの親玉みたいな感じで、ユダヤ人の美術家が引きも切らず いろいろ訪ねてきて。それにいろいろ指示をしたり世話をしたりしていて、「いや、こうはなりたくないもんだ」と僕は思った。それいっぺんだけで行かないん だけども。

加治屋:グリーンバーグが針生さんを推薦したのはどういう理由なんでしょうか。

針生:日本で社会主義や原爆のことまで話せたのは僕だけだという意味ですよ。

針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日

② 買えなかった図録に書いてあった。 角栄の日中国交回復後、中国共産党は新左翼系を指名し、文革時中国に招待。

まとめ; 針生一郎の属性のひとつは、正統的ボルシェキズムへの異端性である。彼自身、一時は、日本共産党の党員であったが、事実上、追放されている。

中国とアメリカが異端であったという、今では信じられない時代のことだ...。

↓ こういう時代だ; (愚記事; ユートピアを求めて


 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。