(上図の2005年の意味は、おいらが初めて中国に行った年という極私的なもの)
六四天安門事件は覚えている。この事件は日本社会への影響も大きかったと思う。今からは信じられないが、1980年代は7割の日本人が中国に親しみを感じていたのだ。ただし、この六四天安門事件で対中感情を変えた人が日本人の2割。その証拠↓
■ 四半世紀前より数年前のおいら;
- 7割の日本人が中国に親しみを感じていたからと言って、中国語を学ぼうとする人が多かったか?といえば必ずしもそうではない。現在、中国に親しみを感じる 日本人が少数派になっている状況で中国語を学ぼうとする人の方が、1980年代より多いだろう。1980年代半ばすぎ、千人を超える入学者を迎えたおいらが入っ た大学の1年生用の中国語のクラスは全学でひとクラスであった。その頃は第二外国語は大学制度として必修であったにもかかわらずである。なお、当時は「教養部」というのがあったのだ。 -
■ 四半世紀前のおいら;
天安門事件をどのように知ったかの瞬間の状況の記憶はない。当時のおいらは学部に上がっていた。その頃は、テレビも新聞も借りて住んでいたアパートにはなかった。
忘備録を確認した;
今、「歴史」を調べると、六四天安門事件の戦車による大量弾圧が行われたのは6/3深夜から6/4未明。
一方、おいらが、六四天安門事件の大量殺傷を知ったのは6/5(月)であるとわかる。
おそらく図書館の新聞か、夕方のラジオで知ったのだろう。
六四天安門事件は日曜早朝に起きたのだ。血の日曜日事件!
おいらは、6/5になって知ったらしい。
「せんめつ」の大和文字がかわいい。やはり、おいらは昔から支那文字に弱かったのだ。
そして、何より、今回、忘備録を見直して気づいたことは、六四天安門事件と同じ日の6/3-6/4に、ホメイニが死んだのだ。→ wiki
おいらの、この日の関心事は、中国とホメイニだったのだ。 すっかり、忘れていたよ。