いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

江藤淳、『アメリカと私』は、渋谷の東急スカイラインビルで書かれた。

2014年06月15日 18時50分49秒 | その他

(今夜もどうでもいい話です。おいらが気づいた公知情報のメモです)

それは渋谷の盛り場の真ん中にある洋式アパートの一室であった。九月中旬にはアメリカ人学者の一家が来て住むことになっているので、一カ月足らずしか空いていない。それでもよければ、という話である。 江藤淳、「日本と私、- 適者と遊牧民 -」

JR渋谷駅から南平台方面への道すがら

6/1に報告した散歩(愚記事:東京散歩2)で六本木から渋谷駅を抜けて池尻大橋へ向かった。渋谷あたりの画像は6/1の愚記事にあまり掲載していない。渋谷駅を西に抜けてすぐに古いビルが目に留まった。いかにも経済成長期の遺物、昭和の遺物だと感じた。画像も撮った。何よりビルの名前を記録しておくためだ。名前を東急スカイラインというのだ。今も賃貸ししているとネットで知る(賃貸し情報)。もちろんこの建物を狙って行ったわけではない。予備知識なしに歩いていて目に留まったので、記録しておいただけである。もっとも全景は建物に近すぎて眺められなかった。建物全体はこういう風体である。


Google 画像

さて、週末、のんべんだらりんと本を読んでいた。江藤淳、『言葉と沈黙』、文芸春秋、平成四年(1992年)、に書いてあった;

アメリカから帰って来てから、市ヶ谷のマンションを金を借りて買うまでの間だけでも、二回引っ越してるんです。三十九年(1964年)の八月の末ごろ帰ってきてまず入ったのが、渋谷の南平台の東急スカイラインという、わりあい大きな賃貸しマンションでね。知り合いの人がその一区画を持っていて、それを応急に貸してもらったんだけれども、オリンピックがもうすぐ始まるっていうんで広げた前の道路を、夜っぴて自動車がワーワー行ったり来たりする。いまの渋谷の高速道路のところですからね、もう眠れやしないんですよ。 -六十年の荒廃-

一方、この1964年(昭和39年)に2年間のプリンストン滞在から帰国した時の状況は『日本と私』(関連愚記事)に書いてある;

 私たちが借受けた渋谷のアパートはビルの九階にあったが、どういうものか拭いても拭いてもほこりが降りつもって来る。私も家内も、二年ぶりでやっと引き取ることのできた犬も、眠っているうちにほこりに埋まってしまいそうだ。異常渇水がつづいているので高層アパートはしゅっちゅう断水する。その用意にタイル張りの風呂桶に水をはっておいたら、いつの間にかぬけて空になってしまっていた。栓がおかしくなっているのだ。

(中略)

 とにかくなにもしないでいたら干上がってしまう。私は引っ越した晩からほこりでザラザラする借ものの机にむかって、週刊誌の連載読みものを書きだした。それはアメリカ滞在記のようなもので、第一章は「適者生存」というのである。日本の社会だって同じことだ。ただ「適者」になるための条件がちがうだけである。   江藤淳、『日本と私』、初出1967年 朝日ジャーナル、現在 ちくま学芸文庫 『江藤淳コレクション2』に収録。

 

この渋谷、東急スカイラインビルは東京オリンピック前にできていたので、今は築半世紀ということになる。なお、今このビルの詳細をネットで調べると9階建てらしい。つまり、江藤は最上階にいたのだ。どんな風景が見えたのか?記載はない。

改めて、年譜を見ると;

昭和三十九年(1964)三十一歳

(前略) 6月、帰国の途につき、ポルトガル、スペイン、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、オーストリアを経て八月上旬東京に帰る。住む家なく渋谷南平台東急アパート、市川市市川五丁目八十六番地を転々とす。オリンピック直前の東京の変貌に衝撃を受け、心楽しまず。高階秀爾と識る。十二月、都内新宿区市谷左内町三十二番地の分譲アパートに漸く定住所を設ける。十二月よりふたたび「朝日新聞」に「文芸時評」を書く。 
  新編 江藤淳 文学集成5 江藤淳年譜

■ 箱に住みたがることについて;

おいらの 母親 かぁちゃんは江藤淳より7つ歳下である。存命だ。もちろん、江藤とは何ら関係ない。彼女はとにかく箱に住みたがった。そして、今も住んでいる。8階。

おいらは、土地付き一戸建ての方が"高級"だとおもうのだが...。彼女は結婚した20代からずっと箱に住んでいる。今、彼女は箱の一区画を財産として保有し、住んでいる。そんなに好きなのか!箱!と、おいらはあきれている。 

おいらがが小学校に入る前のがきんちょの頃、1970年代初頭、札幌にも上記"東急スカイライン"のような高層マンションがあったのだが、それを見て、こんなところに住みたいわぁと言っていた。さらには近所にオリンピックの選手村として11階建ての箱住宅が建った。彼女の願望がより惹起されたのであろう。果たして、望みは叶ったのだ。

(もっとも、最近気づいたことは、北国の土地付き一戸建ては「雪かき」が大変なのだ。特に、老人には手におえない。だから、集合住宅は楽なであるという一面がある。)

一方、不肖の愚息のおいらはそのうち50歳になろうというのに持ち家とは縁遠い。いかなる不動産をも保有したことがない。そして、実は、今借りている家こそおいらが生まれて初めて住んだ一戸建ての家なのだ(関連愚記事;借景生活)。40歳過ぎるまで、おいらは生まれて一度も一戸建てというものに暮らしたことがなかった。庭というものに初めて接した。縁側にも座った。三日で飽きただよ。縁側が縁側廊下ではなく、ただの沓脱用の台座だったのだ。そして、肝心の庭は踏みにじられもした

そして、ぶどうを育てている。いつか、イエス様認定の立派な「ブドウ園」になれるようがんばっている。