いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

回顧;北京2005年、あぁ、あれは清朝残滓だったんだなぁ。 西蔵僧-毛肖像画像に至るまで

2013年10月13日 08時56分15秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 

 2005年に北京に行った(中国出張① 北京に着いた )。当時は当然ながら北京という街の概略を全く理解していなかた。それを東京にたとえなるなら池袋と渋谷と新宿の東京での位置関係を知らないようなものだ。事実15年前、おいらが、始めて筑波山麓に来たときの東京についての理解だ。最近は東京の地理感は少しは高まった。一方、最近、旅行ガイドや本で北京の街の概略と、さらに由来を知った。

 2005年の当時は地下鉄が3線しかなかった、1号線、13号線、八通線だ。おいらが泊まった宿は都の西北にあった。今北京の街の概略を知ってみれば、北京の西北部は北京大学、精華大学、人民大学など有名大学が多い、いわゆる文教地域なのだ。もっとも、文教地域なのであの時期には紅衛兵が誕生し、跋扈した。


  -2005年の北京―

 夕方宿のまわりを歩いた。陽がすっかり暮れたあとで、街角に目立つ黄色の灯り。羊肉の字が見えた。店の前には数人の人がいた。よく見ると、焼きながら売っているのだ。1本買った。印象的だったのは、七味唐辛子みたいものをたくさんかけて、串をわたしてくれたこと。普通の日本人なら羊の肉を珍しがったかもしれない。日本の日常で羊の肉を食べることはめったにない。ただし、この中国に来た前の日もおいらはつくばで羊の肉を食べた。ジンギスカンだ。この頃、つまり2005年頃、今となっては忘れ去られてしまったようだが、ジンギスカンブームというのが起きた。事実、つくばの西大通りの洞峰公園あたりには数件のジンギスカン屋が出現した。

  一方、村上春樹の『羊をめぐる冒険』にもあるように、近代より前の日本には羊はいなかった。だから、ふつうの日本人は羊の肉には縁がうすい。しかし、おいらは子供の頃から羊の肉を食べていた。なぜなら、おいらは道産子だからだ。ジンギスカンは北海道でふつうである。でも、北京ではふつうであるとは気づきもしなかった。

 北京は元々元の都で、明を経て、清朝の都になった。元はモンゴル人の国だし、清朝も北方の女真族の系統の満州人だ。彼らは放牧民族の系譜を持ち、羊を飼い、食べていたのだ。

 2005年当時、おいらは、北京は清朝の都であり、羊の肉売りは典型的清朝の伝統的残滓だと気付かなかったのだ。

西蔵僧

 北京で行った場所は少ない。おいらが選んだのは孔子廟だ。今思えば、回族、満州族、そして漢人などを束ねていた清朝帝国のうち、漢人文明しか目に入っていなかった。

中国=漢人→共産党の都というステレオタイプだ。がきんちょの頃、戦場のメリークリスマスはみなかったけど、ラストエンペラーは見たのに。2005年当時、紫禁城=故宮にも特に興味はなかった。むしろ、興味があったのは孔子廟。文化大革命で打ち壊されて、廃墟にでもなっているかと思った。違った。確かめた。すなわち、文化大革命で破壊されて廃墟になっているのではないかと思っていた。行ったょ。普通にあった。その時の訪問記はこれ⇒ 愚記事: 中国⑬ 孔子廟

 なお、当時は前述のとおり北京には地下鉄が少なく、宿からそこそこ歩いて大鍾寺駅に行き、西直門で2号線で乗り換えて行った。今では、おいらがこの時泊まった宿の通りには地下鉄が走っている。

 北京を歩いて、結局故宮に行った。ただし、北門から。現在では故宮の見物は一方通行らしい。すなわち、南門からのみ入ることができて、北門に抜けるのだ。北門から入ったおいらは南門へ向かった。今から思えば あたりで 西蔵僧の集団をみた。びっくりした。まさか、北京でチベット僧がいるとはおもわなかった。チベット人ならともかく、法衣を着たお坊さんの集団だ。「中国共産党はチベット仏教を弾圧している」はずなので、驚いたのだ。

 北京で西蔵僧に会うとは思ってもみなかったおいらは、その前年に行ったインドのデリーにおいては、意識的に西蔵僧をみに行った。次のダライラマはインドに亡命している。もちろん、中国共産党に襲われたチベットからインドに逃げたのだ。そして、デリーにはチベタン街があるのだ。愚記事; デリーのチベタン街

 こういう背景があったので、北京で西蔵僧を見て、びっくりした。でも、そういえば、次のダライラマは「ふたり」いて、中共が認めているダライラマがいるんだよな、と思いついた。そうなのだ、ここ北京にきている西蔵僧グループはチベタン中共派なのだとわかった。

 しばらく観察していた。まず驚いたのは毛沢東の肖像入りの冊子をもっている。ここで、彼らはチベタン中共派と確信した。そして、2013年の今となってわかったのだが、この冊子は「毛沢東紀念堂」のパンフレットなのだ。「毛沢東紀念堂」とは、毛沢東の遺体が「展示」されていて、人民がその"ミイラ"
に謁見できる場所だ。そこに行ったらしい。

出口前;


- 「毛沢東紀念堂」のパンフを手にする西蔵僧 -

そして、天安門

 かれらは、ずいぶんそこにいた。なかなか先へ行こうとする気配がなかった。西蔵僧の観察も十分かなと思ったおいらは先へ進んだ。出口だ。門をくぐれば、出られるらしいとわかった。その門をくぐった。門をくぐっているときに、門をくぐれば広場で、そこは外なんだとわかった。門からは直立した門衛が目立った。その直立した門衛の横を通りすぎた時、振り返った。

 

あー、ここが天安門なんだ!とわかった。

がきんちょの頃、康煕字典も知らないのに"書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとし"ていた時、写真でみていたあの天安門なのだ。

   

 そして、気づいた。さっきの西蔵僧グループももうすぐここから出てくるだろう。マオさんの肖像とともに写真を撮ろうとおもいつたのだ。しばらく待った。そして、来た。 その時とった画像がこれなのだ;


  ―2005年-

2005年のおいらは、清朝皇帝がチベット仏教の「檀家」だって知らなかった。北京の西蔵僧は清朝残滓だったのだ。