いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

謹賀新年2013年

2013年01月01日 00時22分01秒 | その他

 

今年は、日西交流400周年だそうです。何よりその理由は、伊達政宗の慶長遣欧使節団派遣400周年であるからだ。

関連愚記事;

 ・ 伊達政宗・ヨーロッパに賭けた夢 
 ・ サンファンバウティスタ号 -仙台参り2006⑤-   
 ・ 大泉光一、『伊達政宗の密使』、あるいは王と坊主の同床異夢の野望の果てに


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いささか、また、みずから、ひそかに [聊復自私] 政宗マニアであることとスペインマニアであることをしているおいらは、ここ筑波山麓-霞ヶ浦湖畔の旧仙台伊達家常陸領( [出典] )において、草莽微賎として、ブログにて"イベント"を敢行したい。

▼ 外務省、スペイン大使館の広告 (web site



この外務省文書の「大御所の許可を得て」という解説。これは伊達政宗の慶長遣欧使節団がただの田舎大名のきまぐれじゃないという意味を込めているのだ。 さて、どっちが大御所? ↓ 

 
     松平さん                   源さん 

日本人の顔に対する分解能がないスペイン人がみたら、どうせ兄弟なんでしょう!とおもうべな(?)
(それにしても現在のサブカル世界における政宗のキャラはかっこよすぎだろう。本当は、家康似のたぬきおやじなのに...)

■ エル・グレコ

その「日本スペイン交流400周年」の交流事業の一環なのかわからないが、今月から東京都立美術館(とびかん)でエル・グレコ展が開催される。⇒ web site

 
  ▲ エル・グレコ Google 画像

 ■ エル・グレコの前に《インド人》の話;

 もうかれこれ10年近く前の話。仕事場にインド人のクマールさんが来た。ブラック・ベンチャーでの話だ(解説愚記事; ブラックOK! )。日本人に一般的な悪い癖なのか、おいらの職場の人たちの民度が低かったのか、みんなクマールさんをインド人と呼んだ。クマールさんと名前を呼ばないのだ。「今度来たインド人さぁ ・・・・」とか「おたくに来たインド人さぁ ・・・」とかいう言い方。クマールさんと一番直接仕事をしていたのはおいらで、須藤さんは責任者。おいらの事実上の上司だった。当時、須藤さんは日本の大手メーカーをリタイヤして、そのブラック・ベンチャーで働いていた。その大手メーカーは高度成長時代の花形産業。1960年代は日本が今の中国みたいな時代だ。すなわち、現在アフリカ、中近東に中国の企業が自国の安い労働力を引き連れて、現場系の仕事をしている。須藤さんも昔はアフリカ、中近東で日本企業の《尖兵》として働いていたのだ。だから、英語はできるし、外国人との付き合いもなれている。何より、性格が高潔で、かつ、温厚だった。その須藤さんが少し怒った。須藤さんが怒ったのは後にも先にもこの時ぐらいじゃなかったのではないだろうか。怒った理由はみんながみんな、クマールさんを「インド人、インド人」というからだ。須藤さんは、「ちゃんと、名前をよんでください」と注意したのだ。

 前置きが長くなった。エル・グレコは、スペイン語で"ひとりの男性ギリシア人"という意味。悪意で意訳すれば、ギリシア野郎!か?本名は、ドメニコス・テオトコプーロスΔομήνικος Θεοτοκόπουλοςwiki)。スペインで活躍したが、ギリシア(クレタ島)の出身なのだ。スペインでは、エル・グレコと呼ばれていた。今もよばれている。あのひとめみたらグレコでしかないとわかる作品群がすごい。

 スペインで活躍したギリシア出身の画家の作品が日本に来る。GPS(ギリシア、ポルトガル、スペイン)の内リャンファンを確保しているではないか! つまりは現在国家財政が破綻、あるいは破綻の崖っぷちの国から、これまた恐慌前夜ともうかがえる日本に来るのだ。

そういえば、今のスペイン王妃はギリシアの出だった(wiki)。 La Greco !
(関連愚記事;  おらほの街にKing&Emperor

● 支倉常長はエル・グレコとすれ違ったのか?

今回の「日本スペイン交流400周年」開催の根拠となった歴史的出来事は支倉常長がスペインに行ったことだ。支倉常長はセルバンテスとすれ違っていたかもしれないことは書いた(愚記事:セルバンテスとわれらが支倉常長は「すれ違っている」のかな?と思いつき調べる)。そして、エル・グレコは? グレコは1614年にトレドで死んだ。支倉常長がトレドに来たのは1614年だ。しかしながら、グレコが死んだのは4月、常長がトレドに来たのは12月なのだ。トレドで同じ空を仰ぎ見ることさえしていないことがわかった。