借家の庭にイヌノフグリが咲いているのを発見。これまでおいらのブログに多く登場(フグリ)。でも、みんなよそんちのもの。おいらの庭に咲いているのを去年は見なかった。今年初めて咲いたのだろうか?とにかくこれでおいらもイヌノフグリオーナーになったと思うと、ついにここまで来たかと慟哭しそうである。
■過去記事フォロー1;
先日のベルギー、アントワープ関連の記事「3月9日に<<9月16日>>を 」のフォロー(?)。 昭和の成仏のために日夜闘っているおいらはひろひとさんの全画像収集に励んでいる。そんなコレクションの中にひろひとさんがアントワープの展示ブースを視察した写真を発見。どうやら1985年4月25日らしい。場所は筑波山麓。写真左から2番目は入江侍従長。
(クリックで拡大)
アントワープは17世紀に拡大、繁栄した都市です。すでにアントワープはダイヤモンド産業に必要な技術開発において決定的な役割を果たしていました。例えばフランス王フランソワ一世がパリの職人ではなくアントワープの研磨工に注文したのは、象徴的なことでした。アントワープは当時ヨーロッパの商業的中心都市として、世界貿易のおよそ40%を取り扱い、その中でもダイヤモンド産業は大きな部分を占めていました。その後オランダの商業拡大によって世界貿易の中心はアムステルダムに取って代わられるのですが、ダイヤモンド取引におけるアントワープの地位はすぐには低下しませんでした。 ダイヤモンドとアントワープの歴史
■過去記事フォロー2; 恐慌ビジネスの真打ち登場。
愚記事;「鼻っ柱の強い」で言及した、宇野弘蔵、『恐慌論』。佐藤優センセは"短期集中ゼミ"を行ったが、この際テキストは参加者各自調達してくることというお触れ。当時古本屋で数万円。3/14現在
Amazon; 恐慌論 1976年版 3万円出さなくても(出さねぇーよ)、780円で読める。
先月、宇野弘蔵の『恐慌論』が岩波文庫から出版されたと知る(このブログで)。
2005年10月15日 (土) 恐慌論の形成とコニュニティの形成 (伊藤誠氏が挨拶の中で「最近のマル経は、暗い話ばかりだ」と言っていた)のに、今じゃ、祭りだ!
780円で買えて読めるからといって、理解できるか・腑に落ちるかというと別である。
以下、与太です;
社会科学は物理学(近代科学の頂点。原爆を生みだしたし、『物理帝国主義』を形成するに至る)をお手本にしている(らしい)。マルクスも近代経済学も社会・経済現象をモデル化している。しかし、そのモデルの精緻さは物理学には似ても似つかない。ポンチ絵である。宮台センセが竹中平蔵を「ポンチ絵!ポンチ絵!」と罵倒しているが、それはなにも竹中、ネオリベ経済イデオロギーだけがポンチ絵なのではなく、本質的に社会科学はポンチ絵なのである。
しかしながら、ポンチ絵の精緻化、理論と現象の整合性化を図ろうとするのが、徒労におわるにすぎないにせよ、社会科学者の商売なんだろう。宮台センセもガンバった。 でも、そもそもおまいら社会科学者がデタラメである。
それでもやっぱり、サブプライムの"恐慌"を宇野モデルが必要十分に説明できるのか、あるいは宇野モデルの新展開で説明できそうなのかは、素人のおいらにはわからないが、下記のような感想が普通だとは思う。
気になったのは、本書のアクチュアリティである。恐慌論なのに、いくら原理論だといっても、中央銀行や政府の役割がまったく考慮されていないというのは、どうしたものか。解説も、近年の「百年に一度の不況」について嬉しげに語っているが、本当に本書がこれを説明しているのだろうか。 オベリスク備忘録 様 "宇野弘蔵『恐慌論』/栗本慎一郎『反文学論』"
直観的に見て、つまり普通に見て、今度のサブプライム現象は1929年の大恐慌とは、失業率、社会の破壊の様相など明らかに違う。資本制は単純バカではないので、1929年の恐慌をくり込んだ新たな資本制になっているのに違いない。だれだってそう思っている。だから資本制マンセー!というのではなく、むしろ、完全自滅しない資本制だからこそやっかいなのである。
それに対し宇野モデル派は、だからこそ原理論が必要なのだ。状況の影響を受けない原理的なものを把握することが重要なのだと。でも、宇野モデル派は、諸現象をその原理で理解・解析できると考えているのだろうか? 本質は現象するということか? ちがうだろう、逆だ。原理論という色メガネで現象の一部を拾っているのだ。ポンチ絵だろう。 もっともこの種の批判は織り込み済みだと強弁するのが宇野派の秀才ちゃん然としたところらしく、解説で伊藤誠センセは「もっとも恐慌論についていえば、『資本論』にくらべ本書は、あきらかに完成度は高い。とはいえ、本書にもなお考究を要する課題がないとはいえない」と書いている。
悲惨なポンチ絵争い。一方、伊藤センセは他のポンチ絵、というか宿敵ポンチ絵である新古典派ミクロ経済学を批難する。「その教義からすれば、膨大な経済的損失やそれを救済する公的資金の巨額の投入などの社会的費用を生じせしめているサブプライム恐慌のような災厄は、予測はもとより、分析もできない事象とならざるを得ない。それは、とつぜん市場の外から襲来した津波とでもいうしかないのかもしれない」と。政治経済学批判の面目躍如ではある。
それにしても、少し笑えるのは、宇野モデルでは恐慌というのは資本制に固有で市場内で必然的に発生すると考える(おいらもそう思う)。一方、現実は、恐慌が起こるや、巨額の公的資金がとつぜん市場の外から襲来し、資本制を救うのである。今回のサブプライムショックのの後の各国政府と中央銀行の善後策を見よ。この「市場外から巨額の公的資金」の公は原理的には何なのか?知りたいところではある。
たぶん、サブプライム恐慌のような災厄で死の淵を垣間見るごとに"資本"はその再帰制を高め、バージョンアップするのである。再帰的"資本"化!
今日のまとめ; 宇野派はプラトニズムだとわかる。