いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

靖国宮司は南部の殿様

2006年04月16日 14時55分48秒 | 日本事情


散花の吹寄せ

■小沢一郎さんが民主党の党首となって、一番最初にぶち上げたのは、靖国神社でのいわゆる「A級戦犯」合祀問題。小沢党首は、靖国参拝を是とした上で、「A級戦犯」という言葉、概念にそもそも疑問を呈し、いわゆる「A級戦犯」というもの言いをする気使いを示し、さらには東條大将は自分の岩手関係者であること、もし東條を祀りたいのであれば東條神社をつくればいいなど、いろいろ配慮を示したうえで、そもそも「A級戦犯」の靖国合祀は間違い、と主張。そして善処策については、政権を取ったら実行すると思わせぶり。凡人が思いつく策はいわゆる「分祀」。

■そもそも「A級戦犯」の靖国合祀は間違なのであれば、責任はそれを実行した当時の宮司の松平永芳さんにあることになる。事実、いわゆる「A級戦犯」の合祀は、当時の松平宮司の決断によるものであり、その決断の理由は明確に文書化されている。

松平宮司の言;
私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に間いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです。巣鴨で絞首刑になられた東条英機(元首相・陸軍大将)、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎(以上、陸軍大将)、武藤章(陸軍中将)、広田広穀(元首相)の七柱。それに囚われの身や、未決のままで亡くなられた梅津美治郎(陸軍大将)、小磯国昭(元首相・陸軍大将)、永野修身(元帥海軍大将)、平沼騏一郎(元首相)、松岡洋右(元外相)、東郷茂徳(元外相)、白鳥敏夫(元駐イタリア大使)とあわせて十四柱。
    その根拠は明白です。昭和二十年八月十五日に天皇様のご命令によって、われわれは一切の交戦行為をやめた。しかし、むこうが撃ち込んできたときは、応対せよという但し書がついていたんです。ソ連が十五日以降に千島列島に上陸したので応戦したのはその例で、相当な戦死者が出ています。
    九月二日にミズーリ号での調印があり、占領行政が始まる。そして二十六年の九月八日にサンフランシスコで平和条約の調印がある。その発効は翌二十七年の四月二十八日、天長節の前日です。
    ですから、日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二十七年の四月二十八日だといっていい。その戦闘状態にあるとき行った東京裁判は軍事裁判であり、そこで処刑された人々は、戦闘状態のさ中に敵に殺された。つまり、戦場で亡くなった方と、処刑された方は同じなんだと、そういう考えです。
 
「靖國」奉仕十四年の無念 (現在リンク切れ)

■もし、小沢民主党政権ができて何か策をなすとすれば、対応をする靖国神社の宮司は、南部利昭さん。南部の殿様。南部家は盛岡、今の岩手・一部青森(八戸)を領有してきた外様の大藩。そして、戊辰戦争の「賊軍」。つまり、戊辰戦争で戦死した南部家家臣は靖国神社に祀られていない。

南部利昭さん、と伊達の殿様、の御尊顔はこちら。

南部家第46代の利昭さんは、電通に25年勤めた経歴。旧華族という属性が靖国宮司就任に一番求められたもの。宮司の経歴は特にないし、そもそも求められていない。


■盛岡・南部家は、戊辰戦争の時、家老の楢山佐渡を筆頭に、薩長の幼帝を戴き日本を専有・僭主する意図を見抜き、奥羽越列藩同盟の主力として、薩長に寝返った秋田・佐竹と主に戦った。楢山の信条と行動は、戊辰戦争に先立って、京都で実際に西郷隆盛や岩倉具視と会見して、そのいか@サマを見抜いたことに基づく。薩長を偽官軍、偽皇軍と見る認識は、旧盛岡・南部家家臣の出の大日本帝国下の最初の政党出身宰相・原敬の日記にも見えるらすい。

■盛岡・南部家は維新後、伯爵家となるが、第42代当主、南部利祥さんは日露戦争で戦死する。旧「賊軍」の華族が官軍となりて、戦死することこそ、ふたごこころなきことを示す何よりの証左となったのであろう。悲しい話である。

■後に若くして戦死する南部利祥さんに、陸軍幼年学校への入学を薦めたのは旧家臣で当時陸軍大学校教授であった東條英教さんである。東條英機さんのパパに他ならない。英教さんは安政2年(1855年)の生まれであるから、戊辰戦争・明治維新は13才の時となる。これは以前に紹介した同じ「賊軍」出身の柴五郎の4才年上。英教さんは16才(くらい)の頃歩いて上京、陸軍の学校に入り、大日本帝国の栄光に浴することを選ぶ。後に、陸軍大学校を第一期生として10名中首席で卒業。

■そんな日帝最初のガッコ・エリートの人生が....。明治22年ベルリンを訪れた山縣有朋に、ベルリンに滞在、研究をしていた英教さんは山縣に面会(初対面だったらしい)、陸軍の人事は長州偏重でけしからんと詰め寄った。東條英教、35才、山縣有朋51才。山縣はいうまでもなく、日帝を己の槍働き始めて作り上げた、陸軍の最高実力者である。まさか、英教さんはガッコ秀才で、山縣なぞチンピラ上がりと考えていたわけでもなかろうが、たぶんドイツの軍事学をお勉強・習得することで全世界を獲得したような気分になってしまって矜持におぼれたのか、あまりに不用意な言動で、以後山縣から忌避され、陸軍でのエリートコースからの脱落を余儀なくされる。

その山縣・長州閥批判というのは論理的に記述されたものが残っているらしい。『隔壁聴談』

ちなみに、それを息子の英機は読んだことは確実。

そして歴史は;

東條英機は、歴史的には山県有朋や伊藤博文がつくりだした大日本帝国の<拡大された矛盾の清算人>であったと思う。保阪正康の言葉)

という役回りを東條英機が担う。因果なものである。

■もし、東條英機さんが、大日本帝国の<拡大された矛盾の清算人>であるなら、そして事実として、国民と天皇の身代わりとなって戦勝国の<リンチ>を甘受したのであれば、その追悼はただではすまない。

●空想することは、豪腕(笑い)小沢が、イワテ・コネクションを使って、南部宮司が旧家臣である東條の御霊を「引き受けて」新たに神社をつくり、そこの宮司に南部がなる、というシナリオ。これだと、単なる「分祀」ではないことになるかもしれない。



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