いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

春嶽

2004年11月11日 13時05分04秒 | 日本事情
▼松平春嶽。なぜかしら雅号で呼ばれる人物。名は慶永、松平慶永。

越前藩主。越前松平家。ただの大名でなければ、さらにはただの松平家でもない。

藩祖は松平秀康。家康の次男。松平姓に戻る前は結城秀康。養子に出てた。兄で長男の信康は信長に死を賜る。なので、事実上長兄となった。しかし、2代将軍は秀忠。弟だ。長子相続は江戸幕府300年の大鉄則。なぜなら賢愚で後継を決めると内乱になる。長子相続だと運命で決まる。

その長子相続の大原則が適用されなかったのが秀康。その家系が越前松平家。つまり、将軍家になりそこねた大名家なのである。影の将軍。

その影の将軍役が、昨夜のNHK・その時歴史は動いた:▽秘録・幻の明治新政府将軍が新政府へ?維新を変えた最終抗争▽鳥羽伏見、」「で紹介されていた。

徳川を徹底排除して革命ニッポンを捏造しようとする薩長。漸進的に近代化をして、かつ旧来との連続性を保持しようとする春嶽。保守を体している春嶽。その対決である。

慶喜と春嶽の宥和策で戦争の契機を失う薩長。そこで西郷隆盛は江戸で焼き討ちをおこさせ徳川を挑発する。まさにテロリズム。正攻法の政治でまっとうなことをする春嶽。手段を選ばない極悪非道な薩長。

自分達が世俗の政治をすることが天皇への義務と考える徳川大名たち。天皇なんか心中ではちっとも尊敬していないくせに「玉をつかんだものが勝ちなんだ」と天皇を手段として扱う薩長。

おいらが薩長が嫌いな理由は、自分は何の内容もないくせに権力ばかりほしがったことである。自分たちになんら文明的要素がないので、権力を握ったあとやったことは西洋の猿真似である。自分に似合わないことを必死でやるのがみじめくさいのである。鹿鳴館とか、悲惨だね。

大久保利通なんてのはドイツの宰相のひげをまねしていた。これは嘲える。これじゃ、モー娘にあこがれてワンポイントをまねてその気になっているチュー坊である。

ところで、錦旗を翻し、戦争をはじめた薩長軍=皇軍=天皇の軍隊。皇軍の戦死者、および鳥羽伏見より以前に「天皇」のために死んだ「志士」を祀る靖国神社。

▼中曽根元首相に「頭の硬い宮司」と罵倒されている、元靖国神社の宮司さんがいる。彼こそが、いわゆる「A級戦犯」を、確信をもって、合祀した人物である。中曽根元首相の言い分はA級戦犯なんか祭られているから中国から文句はつけられるは、天皇陛下が参拝できないんだ、というものである。ちなみに ひろひとさん は、戦後靖国神社を参拝している。日中国交回復とA級戦犯合祀以前のことである。これに対し、宮司は戦犯というものは、裁判という形式をとりつつも、敵の論理で殺されたのだから戦争犠牲者。だから合祀は当然というものである。
 中曽根元首相の在任中のいわゆる靖国神社公式参拝、つまり拍手とか宗教儀礼をしなければOKという論理に基づく、をした時の宮司長が彼であった。拍手とか宗教儀礼をしないのは非礼であり、そんなことなら公式参拝などしなくていいという論理であった。中曽根首相の靖国神社公式参拝は実は当該神社の宮司長と相当の溝があったのである。その宮司は松平永芳といい、春嶽の孫だそうだ。

▼深夜のインチキ皇軍誕生に抗した春嶽の孫が敗残日本の靖国神社の宮司とは歴史とは2重3重に皮肉なものである。でも、この2人に一貫していることがあると思う。

「吾嘗て大勇を夫子に聞けり。『自ら反りみて縮からずんば、褐寛博といえども、吾惴れざらんや。自ら反りみて縮かれば、千万人といえども、吾往かん。』」
(訳)私はむかし、大勇とは何かを孔子様に伺ったことがある。孔子がおっしゃるには、「自らを省みて、正しくないとわかれば、たとえ相手がとるにたらないものでも私は恐れる。しかし自らを省みて、正しいと思うのであれば、私は千万の敵であろうと恐れることはない。」