alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

スーパーウーマンはこんなに大変

2010年10月16日 | 日仏子育て事情


 今日は土曜日だから思いきって研究は
お休みにして、普段できないことをしよう!と
思い立ち それなら前から行きたかった
展覧会に行ってこようということにして、
そこに行く途中によるカフェで 何しようかと
考えたけど これまた「研究」の本はやめ
最近面白くてつい読んでしまう
『スーパーウーマンはこんなに大変』を
持っていくことにした。

スーパーウーマンはこんなに大変
菊地 有子
バベル・プレス




 
 さーてあんまり時間もないし
バスを待ってる間から 何か有益なことがしたいと
思っていたら そうかこの時間でも読めるんだと
その本をバックがら取り出すと ついつい
ついついはまってしまって
結局今日1日で読んでしまった。
電車の中でも 電車を待つ間にも
カフェでジャズを聴いてる時にも
私はいつもそれを読んでて クスクス
つい笑っては 付箋を貼りたくなってしまう。


 この本は1987年にフランスで書かれた本で、
スーパーウーマンというのは、仕事、家庭、
子育て、そして女性としての役割を1人で
ばっちりこなす「有能で成功した」女性のことで、
著者はELLE誌のジャーナリストで2人の子供の母らしい。
彼女は特有のユーモアたっぷりに
スーパーウーマンであろうとすることが
本当はどれほど大変で それがいかに幻想に
満ちているのかを 沢山の友人たちの姿を交えて描き出す。


 これは発売と同時に瞬く間にベストセラーに
なったらしくて それというのも
そうとう彼女のような「本当はしんどい!」と思っている
スーパーウーマンたちの共感を呼んだからだろう。


 私が面白いなあと思った視点は沢山あるけど
その中でも「女たちは男性の権威を毛嫌いしていたというのに
今や女が男達にとって変わって 男が女になってしまった」
という視点とか彼女たちの時代に先行していたフェミニストたちに
対する攻撃だとか(というのも女達を解放した多くの
フェミニストたちがのちにはころっと意見を代えて
「家庭や母性もやはり女性には大切です、、、」
というようになってしまったかららしい)


 それから彼女はボーヴォワールについても
すごいことを言っている。


 「『第二の性』がこれほどの反響を呼び起こしたのは、
展開された論理の正しさによるものではない(これほどの
欠陥を、文句も言わずに認めることができるだろうか)。
それよりも、女性に対する厳しさ、あるいは意地の悪さ
ゆえなのだ。千ページにもおよぶ罵倒・・・(中略)

 奇妙なパラドックスだが、こうしてボーヴォワールは自分の
目的を達した。つまり女性たちを侮辱し、罵ることによって、
女性達を奮起させ、権利を主張させ、二千年に及ぶ隷属状態から
自らを解放させたのだ。つまり、《私はあなた方に何の
尊敬も感じない》と言いながら。彼女はまわりくどい言い方はせず、
女性達を傷つけた。」(p.176)


 彼女によれば「ボーヴォワールは男性だった、それも
徹底した女嫌いの男性だったとしか思えない」そうである。
『第二の性』は女性が書いたというまさにその事実によって
ものすごい反響を女性達に巻き起こしたけど
もし男性が書いていたなら あまりに激しい侮辱によって
フェミニストたちに罵倒されていたかもしれない。
男性だったらここまで書けない そんな恐ろしい書き方で
ボーヴォワールは「女性である恥」を説き
そんなままでいいのか!いいわけがない!と
女達を奮い立たせて そして世界を本当に変えてった。
彼女自身は この本を書いた時点では
そんな意図までなかったと述べていたけれど、、、
(だって彼女は小説家になりたかったわけだし
自分はフェミニストじゃないと何度も言っている)


 もしかすると スーパーウーマンの大変ぶりは
両立不可能な12個のものを無理矢理にでも
両立させようとしてへとへとになって息もつけない
そんなしんどい状況は「こんなんじゃだめだ!できるはずだ!」
ともっと自分に鞭を打つという そんな姿勢から来ているのかも。
それらはきっと「足りない」「まだだめ」というような
自己否定からはじまっていて それが
息苦しさを招いてしまってる なんだかそう見えてしまう。
だからきっと この著者は「できない」とは言わなかったけど
「少しくらいは休ませて!!」と叫びたくなる
そんな叫びに沢山の人が共感したから売れたのだろう。


 彼女はこう書いている。

 「もうやめようではないか。少しは私たちを解放してほしい。
あなた方はたえず自分たちのすばらしさを見せつけ、私たちを
苦しめていることに気がつかないのだろうか。
あなた方の栄光のおかげで、私たちはすっかりしょげかえっている。
私たちはあなた方の足元にもおよばないだろう。
そしてすでにぎっしり詰まった24時間を、48時間分
生きようとなお無駄な努力をしている。それは無理というものだ。

(中略)

 そして私たちに少しは同情して、あなた方もときには
つらいことがあると告白してほしい。(中略)
つまり成功するには、たとえ完璧な生活でも
どれか1つを犠牲にし、つらい思いをしても、
そうしなければならないのだということを認めてほしい。」
 (p,244)



 欲を持つこと やりたいことを持つことも
夢見ることも ワクワクするのも大事だけれど
ひたすらあくせく追われるように 秒きざみで
動いていくのと 彼女がつい憧れてしまう
ジェーンバーキンや他の有名人たちのように
「たいした努力もしていないと本人は言っているのに」
素敵な生活も地位も家族も手に入れてしまったという
そんな人たちは もしかして 似てはいるけど
何かの軸が かなり異なっているのかも、、、


 人からどう見られるかばかり気にしてあくせくするだけじゃなく

 本当の自分 等身大の自分、できない自分も認められること

 それってとっても大事じゃないか


 最近私はそう思う。



 私は最近2ヶ月くらい「ナマケモノとインテリジェンス」
について想いをめぐらせていて というのも前回
フランスに滞在したとき「ナマケモノであることと
知的であることは両立できる」と聞いてびっくりしたからで
どうやって?本当に?ほんとかなあ、、、と
私も最近ナマケモノを実践しながら考えている。


 ところがなんだか不思議なことに
「今日はもうナマケモノにしよう!」と思った日
そんな日に限ってなんだか あれ いつもより
いろんなことができている、、、?


 例えば今日は 朝ご飯をつくってヨガに息子と行ってから
朝市で買い物もして それからお昼ごはんをつくる傍らで
秋だしお菓子づくりでもするか!と思い立って
スイートポテトをつくったし。
それからジャズの生演奏が聞きたくて 久々の
高槻のカフェにまで足を伸ばして
それから兵庫の美術館に行き
電車の中では一冊本もちゃんと読めてしまって
なんだかかなり充実してた?!
でも私の中では「頑張った!!」という感じではなく
今日は「研究おやすみ、ナマケモノ、、、」な日なんだな。


 ナマケモノ実践をしてみて 1つこれかな?と思ったことは
他にたっぷり集中するほど 他のこともできる、ということ。
今日はもう朝から映画みちゃえ!とか まあいっか
蓮太郎とごろごろしてよう とか 「これでいっかー」
ということをそれなりにたっぷりしていると
脳みそが十分休んでくれるのか はたまた
違う部分をつかっているのか「じゃあ行ってきまーす」と
他のことをするときに かなりそちらにエネルギーが
集中できるみたいだなあ。集中力に差がでるのかしら?


 私はどちらかというと 自分で自分をしばりにしばって
「足りない!まだだめ!でも苦しい!」とがんじがらめに
やってきて バカにもなれない人だったから
今の自分はとても楽しい。しかもなんだか
エネルギーも沢山あるから 意外と英語もできるかも?とか
そんな気にまでなれてしまう。


 なんだか不思議な体験だなあ こんな生き方もありなのか、、、
頑張っているつもりはないけど 結果としては
頑張って頑張って頑張っていた そんな時より吸収したり
何かができたりしてしまってる そんなこと も
あるんだな、、、


 自己実現も 幸せな家庭も子供も欲しい
本当にそれはよくわかる。「女の幸せ?それは家庭よ」なんて
決めつけないでほしいと思う。だから私は
フランス流のやり方に とても興味を惹かれるけれど
でもそれが絶対なわけじゃない し 日本にも日本のよさがある。
だから私は「中途半端」に 「専業主婦!」の幼稚園ママにもなりきれず、
週5日働き続ける保育園ママにもなれない 
どっちつかずの日々を送っては悶々としているわけだけど
いつの日か 自分の中でいろんな視点を融合させて
女が幸せになるために こんな生き方も可能なのではと
そんな提言ができたらいい。

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