alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

言葉にならないことを言葉に

2011年11月19日 | 女の生き方


 昨日の朝 といってもなんだか遠い昔のようだけど
コンビニに立ち寄った際に小さな瓶に入ったボジョレーを目にし
それから飛行場に向かって時間が発って 夜になって着いたパリでは
ボジョレーのお祝いが待っていた。


 「この子はねえ、日本でボジョレーが売られてるのを
目にして来たんだって!」とみんなに紹介されながら
懐かしいような ついさっき来たばかりのような友人宅で
ボジョレーのお祭りに参加させてもらって 沢山の人と
会話をしてたら ひょんなことからドイツ人でフランス語を
しゃべる人と変な話題について長時間語ってしまった。


 なんでこの人真面目そうな顔してそんなこと言うんだろう?と
はじめは怪訝に思っていたけど 彼の真剣そうな顔を見ていると
これは本気でちょっと悩んだり疑問に感じて考えたことの
あることなのかなと思えたりして そういえばそんな気持
わかるかもという気になったら 私も説明をしたくなり
それはおそらくこういう状況によるのではないかと語ってみた。


 世の中には沢山の日本人女性が外国に行っている。
でもヨーロッパで生まれ育った人たちにとって、日本人との
コミュニケーションや深く意思疎通をしたくなったときに
首をひねることがあるらしい。それはどういうことだろう?
自分の立場で考えてみても、彼女達に問うてみてもわからない。
それはおそらく 日本人女性というその人たちが
答える言葉も 答える術ももってないから。


 私は何度もいろんなところで「どうして日本人はこういう
ことをすることがあるんだろう?」と尋ねられて来た。
例えば仲良さそうに接していたのにあるときから急に音信不通になったりとか
日本人が「消えてしまう」という現象はけっこうフランスでは耳にする。

 私は前回の苦しい想いをした滞在と日本で色々考えたことで
だいぶわかった気がするのだけど 日本人女性というのは
たとえ自由に生きてみたくても 自分自身をいろんな固定観念や
「あれはいい これはよくない」という強い意識が縛ってて
そのドイツ人とも話していたけど「他人が自分をどう思うか
他人からどう見られるか」が一番大事な価値になる。
それは幼い時からものすごく強く身にしみてしまっているので
たとえ外国にいってちょっと自由を味わってみても
自分自身はきっとその価値観に縛られていて
楽しい思いをしてみたところで あとで後悔にかられてしまったり
日本に帰ったら何と言われるかとか そんなことを無意識のうちに
強く気にしてしまうのだろう。


 私たちは フランス人たちが当たり前に持っている
「言葉」 というのを持っていない。彼らはその「言葉」を使って
自分の感情を表現したり 自分の状況を説明したりするのだけれど
私たち日本人の 特に女性は 自分が何を考えているか
何を感じているか あるものごとに対してどう思うか
そしてどうしてそう思うのかとか そういうことを表現することを
ほとんど訓練されていなくて 自分自身の抱えてしまった感情が
どこからくるのかもわからない。だからうっすらと何か大事な気持を
感じていても それを言葉で表現できない。だから泣くしかなかったり
だからすっと消えてみるしかなかったり だって聞かれたとしても
その人自身 なんて言えばいいのかわからないから。


 私たちは すごく近代化された社会に住んでいて
ものすごく進んだ国に住んでいるから外国の人もそう思ってる。
ところが精神面では相当な差があって 女性も おそらく
女性にそれを無意識に求めている男性側も 実際はすごく古風な
価値観が私たちをまだ支配している。でも表面的な日本の
繁栄からは どうもそこまでは見て取れないから
「あんまり違わないかと思っていたら実はすごい深い違いがあった」ということに
お互いショックを受けるのだろうか。


 ここでは説明を要求される。「どうして?」「それはどういうことなのか」
彼らはそう訓練をされている。分析すること 説明すること
だからそれが当たり前。ところがフランスに来た日本人からすると
たとえ言葉という激しい壁を乗り越えられるようになったとしても
今度はその「説明」というのがなかなかできない。
それは知識がなかったりとか どういうことなのか
自分自身でもわからないからで そこで二重のショックを受ける。


 私は日本人で子供を育てることになった女性として
日本人女性が抱える苦しさというのがものすごくよくわかる。
それに加えていろんな苦しみの後で 何が苦しさを生み出していたのかも
なんとなくわかってきたから ようやくそんな「言葉にならない言葉」
というのを 日本語ですら言葉にできない微妙なもやもやしたものというのを
今になってようやく説明できるようになった気がした。


 彼らは日本人はマスクをかぶっているのかと尋ねて来る。
その能面の下で一体何を考えているのかと知りたくなる。
ところが多分彼らの想いとは裏腹に 日本人の能面の下にはなんというか
深い考えというよりも 深い沼のようなものが広がっているだけで
それは自分で言葉にしようと思ってもすくいきれなくて
下手したらずぶずぶと 音もたてずに沈んでしまう
そんな世界なんだと思う。だから彼女達自身もわからなくって
ただ姿を隠してみたり 人と会うのをやめてみたり
ただ涙を流してみたり。何が自分を苦しくするのか
どうして涙が流れるのかすらわからないのに 説明を要求されても無理だから。


 だけどおそらく ヨーロッパ人にとってとても不可解で
日本人にとってものすごく重要なのは「他人の目」と「その中で生きる自分」で
彼らのように楽しそうに自由に振る舞ってみたくても ずぶずぶと
深い沼から 足をひっぱるもう一人の「とても日本的な」自分が
存在している。それは日本では確固たる存在で ここはヨーロッパだと
思っても そのあまりに脳裏にこびりついてリアリティのある自分にとっての現実が
私たちの気持をくじいたり、後悔させたり自分に対する信頼感を
喪失させたりするのだろう。そうして自分でも不可解な溝を抱えて
日本に帰って来てしまった人は 日本でもよく理解してもらえない
本当は飛び立ちたかったのに 飛べなくなってしまった自分という存在に
彼女達はどんな気持で向かい合うのだろう。


 10年前の私はいろんなことがわからなかった。
説明をしたいと思っても 言葉がまずわからなかったし
言葉がちょっとわかるようになった時には 何も説明できない
自分に愕然とした。それくらい フランスという国で感じてしまう
壁は厚い。日本とフランスはあまりに違う だけど
フランス人は日本に興味を持ってくれている
私はいつか説明できるようになってやりたいと10年前に強く思った。
昨日はそのドイツ人に「君の言ってることはよくわかったよ
なんだか理解できた気がする」と言ってもらえて嬉しかった。

 言葉にならないような言葉を フランス人の理解ではなく
日本人側の言葉として言葉にすること
「おそらく日本人はこうなんじゃない?」と勝手に
解釈されるだけじゃなくって日本人からの視点で何かを説明すること
そうすればするほど違いが見えて でもいいなあこの国と思って面白い。
議論するのは面白い。自分が置かれている状況は
なんだか意味があるような気が最近している。
日本人の女性達の 言葉にならない気持を言葉にして発していくこと
そしておそらく もう少し 違ったあり方だってありうるんじゃないかと
探して行くこと フランスには沢山の道がある
沢山のあり方が可能だそうだ そんな国は私にはとてもうらやましい。

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