四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

令和元年度歴史講座1 第2回「甲斐武田流の城づくり -武田信玄の築城様式と城館-」

2019年05月31日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館主催
令和元年度歴史講座1「戦国時代の城づくり」
第2回 「甲斐武田流の城づくり -武田信玄の築城様式と城館-」
講 師: 山 下 孝 司 氏(武田氏研究会事務局長)
日 時: 令和元年(2019)5月31日(金)13:45~15:30
会 場: 国立女性教育会館研修棟 講堂 (埼玉県比企郡嵐山町菅谷)

を聴講してきました。

武田流の城づくり、武田氏の築いた城館、改修の城等についてのお話をしていただきました。




いつも講座会場となる国立女性教育会館の研修棟の写真ばかりですので、今回は講座とは関係ないのですが本館
の写真を載せてみました。




今回の講座資料  




武田氏の本拠 『武田氏館跡(躑躅が崎館跡・武田神社)』国指定史跡  山梨県甲府市




大手東側の曲輪と土塁  
まだ復元工事が終えていないときに撮った古いものです

次に、武田氏の築いた城、改修した城のうち私が散策したことのあるものを4件ほど載せてみます。



『松本城』 国宝  長野県松本市
松本城の前身である「深志城」は、小笠原氏の元居城であったが、武田氏によって天文19年(1550)に惣普請が
行われた。




『松代城』 国指定史跡  長野県長野市
松代城の前身は武田氏の川中島進出の前線基地となった「海津城」、永禄2年(1559)~3年(1560)頃に築城さ
れたと思われる。




『岡城』 市指定史跡  長野県上田市
天文22年(1553)武田信玄による塩田城の村上義清攻略後に馬場美濃守が築いたと伝わるが、実際には永禄4年
(1561)から同7年(1564)にかけて築城されたと考えられている。




『箕輪城』 国指定史跡  群馬県高崎市
長野氏の居城で、信玄が西上野に侵攻した永禄9年(1566)に攻略された。落城した箕輪城は武田氏によって改修
され、城の北端に丸馬出がみられる。

聴講日:令和元年(2019)5月31日(金)

広瀬4号墳(埼玉県熊谷市)

2019年05月30日 | 古墳


名 称:広瀬4号墳
別 名:広瀬No.92古墳
墳 形:円墳
規 模:径約25m
築 造:不明
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:宮塚古墳群  昭和51年(1976)10月1日選定)
    【概要】国指定史跡宮塚古墳(上円下方墳)を中心とする古墳群
所在地:埼玉県熊谷市広瀬字山王 (旧熊谷市)

広瀬2号墳は、広瀬古墳群のうちの古墳のひとつで、国指定史跡宮塚古墳の南東約150mに位置します。
墳頂には「日吉山王宮」の社が鎮座しており、古墳だとは気付きにくいようです。




墳丘の北側際に建つ日吉山王宮の鳥居




墳頂に鎮座する日吉山王宮の社を北側から




墳頂に鎮座する日吉山王宮の社を南側から




日吉山王宮




社に架かる扁額 『正一位日吉山王宮』と読めますが?




墳丘斜面にはこうしたベンチが複数設置されています  これも古墳と気付かない思わない要因の一つ?




西方から広瀬4号墳を見る




宮塚古墳と広瀬4号墳の位置関係

散策日:令和元年(2019)5月7日(火)

広瀬2号墳(埼玉県熊谷市)

2019年05月29日 | 古墳


名 称:広瀬2号墳
別 名:広瀬No.90古墳
墳 形:円墳
規 模:不明
築 造:不明
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:宮塚古墳群  昭和51年(1976)10月1日選定)
    【概要】国指定史跡宮塚古墳(上円下方墳)を中心とする古墳群
所在地:埼玉県熊谷市広瀬字山王 (旧熊谷市)

広瀬2号墳は、広瀬古墳群のうちの古墳のひとつで、国指定史跡宮塚古墳の南西約110mに位置します。




樹木や草が繁茂していて明瞭ではありませんが、土を円形に盛り上げているのがわかります




墳丘 樹木や枯れ枝等で表面を確認できません  




墳頂に祠が見えます




これだけでは何を祀ったかはわかりません ただ、屋根の形は八幡社のものによく似ています




北方から見た広瀬2号墳




広瀬2号墳と広瀬4号墳の位置関係  宮塚古墳は広瀬2号墳の裏に隠れています

散策日:令和元年(2019)5月7日(火)

宮塚古墳(埼玉県熊谷市)

2019年05月28日 | 古墳
■ 国指定史跡 宮塚古墳



名 称:宮塚古墳(みやづかこふん)
別 名:山王塚、お供え塚
墳 形:上円下方墳
築 造:古墳時代終末期・7世紀末
指 定:国指定史跡(名称:宮塚古墳 昭和31年(1956)5月15日指定)
所在地:埼玉県熊谷市広瀬字山王608 (旧熊谷市)

宮塚古墳は、熊谷市広瀬地内の荒川左岸の自然堤防上に立地する広瀬古墳群中にある上円下方墳で、国史跡に
指定されています。
上円下方墳とは、方形の段の上に饅頭のような円形の土盛りがのる特異な形で、全国でも数例を数えるのみで、
埼玉県内において、現在判明している範囲では、県内では川越市の山王塚古墳と個々の2基しかありません。

規模については現地の説明板に詳しく記されていますのでここでは省きます。

 


宮塚古墳通りの熊谷さくら運動公園の土手際に設置されている「国指定史跡 宮塚古墳(広瀬古墳群)」説明板
説明板にある位置図に従って古墳群に向かいます




「宮塚古墳往復 0.4㎞」とある道標




広瀬4号墳前を通って宮塚古墳に
実は、最初に目にした広瀬4号墳(日吉山王宮)を宮塚古墳と思い込んでしまい、あちらからこちらからと何十
枚もの写真を撮った後に、違うと判明したといういつものお粗末ぶり。




遠くから見ると、草や木の葉が繁茂していて、墳の下方部の段差が分りませんが、こうして近づいてみますと、
地表より盛り上がっているのが分ります。




「国指定史跡 宮塚古墳」標柱




「国指定史跡 宮塚古墳」説明板




方形の段の部分は平です 右側が円形部の土盛りですが樹木が繁茂していて境がよくわかりません




こちらは左側が円形部




上円部である土盛りの状況




葺石(ふきいし)と考えられる人頭大河原石の石積みが残存しています
葺石とは、主として古墳時代の墳墓の遺骸埋葬施設や墳丘を覆う外部施設のひとつ




墳頂には小さな石祠が鎮座しています




ほとんどの古墳には社があったり祠があったりしますが、ここ宮塚古墳も例外ではないようです
この祠からでは何の神様を祀っているかまでは分りません




墳丘は地表より一段高くなっていることが分ります




宮塚古墳と広瀬2号墳の位置関係  奥に見える高架は上越新幹線




広瀬2号墳 宮塚古墳 広瀬4号墳の位置関係  3基を一緒に撮るのは難しい

散策日:令和元年(2019)5月7日(火)

穴八幡古墳(埼玉県小川町)

2019年05月27日 | 古墳


名 称:穴八幡古墳(あなはちまんこふん)
墳 形:方墳
築 造:古墳時代終末期・7世紀後半
指 定:埼玉県指定史跡(名称:穴八幡古墳 昭和34年(1959)3月20日指定)
所在地:埼玉県比企郡小川町増尾63-1ほか

小川町の八幡台地にある『穴八幡古墳』は、県内最大級の方墳です。当初は円墳として認識されておりましたが、
発掘調査・計測の結果、二重周堀を構えた方墳と確認されました。
外堀の南半分については確認されていません。棺を納めた石室は、横穴式石室で、全長8.2メートルを測り、開口
部は南に向いています。




南側から見た穴八幡古墳  南東部の一部は道路となったため欠落しています




北東から見た穴八幡古墳




「県指定史跡 穴八幡古墳」説明板 その1
小川町大字大塚と増尾の間に位置するとあります。元々、この古墳は大塚郷に属していましたが、郷界移動によ
って増尾郷に属するようになったようです(遠~い昔の話ですが)




墳丘部に設置されている「埼玉県指定史跡 穴八幡古墳」説明板
古墳の規模や構造等について説明されています




墳丘部南側




墳丘部南側を東方から
開口部前にある祠は産泰神社




穴八幡古墳の全体図や出土品の説明板




穴八幡古墳全体図  古墳の北約100mの所に八幡神社が鎮座しています
八幡神社南側の二重土塁の所が大塚郷(現在の小川町大塚)と増尾郷(旧大河村〔現在は小川町』増尾)の境界




開口部  左右の大きな板石は後世に置かれたもの




開口部を斜めから




側壁や天井は、小川町下里地域で採掘される緑泥石片岩など結晶片岩の一枚石を組み合わせて造られています




石室内部は前室と後室の2室に分かれています  奥に八幡社が祀られています




墳丘西側の二重周溝  左側にはっきり見えているのが外側周溝




北西方から内側周溝を 




墳丘北側の二重周溝の内側周溝  西方から東方へ




墳丘北側の二重周溝の内側周溝  東方から西方へ




墳頂から小川町増尾・青山方向を




墳丘西側から腰越城跡方向を望む

散策日:平成31年(2019)4月2日(火)

山王塚古墳(埼玉県川越市)

2019年05月26日 | 古墳


名 称:山王塚古墳(さんのうづかこふん)
墳 形:上円下方墳
築 造:7世紀第3四半期
指 定:川越市指定史跡(名称:山王塚 昭和33年(1958)3月6日指定)
所在地:埼玉県川越市大塚1丁目21番地12

上円下方墳とは、四角に積み上げた盛土の中心に半円形の塚を乗せたような形をしています。
日本各地に造られた古墳は少なくも16万基超とも言われますが、そのうち発掘調査で確認された上円下方墳は6基
しかありません。それら上円下方墳の中でも、山王塚古墳は最大の規模を誇ります。




山王塚古墳を南東から




古墳正面である南側 こ噴頂には山王社が祀られており参道が設けられている




「市指定史跡 山王塚」説明板




南側 山王社の参道 鳥居辺りを境にして手前が下方部 鳥居の先が上円部




山王社鳥居




墳頂部に祀られている山王社と石灯籠




山王社石祠 祠前に石鉢 左に石猿




稲荷社




榛名社




庚申塔




墳頂から下を




東側




北側 写真左方に上円部が




北西から上円部を




西側 北方から南方に




南側




南西方向の道路から

【参考資料】シンポジウム 「山王塚古墳―上円下方墳の謎に迫る―」資料

散策日:平成31年(2019)4月15日(月)

无動寺太郎館(埼玉県寄居町)

2019年05月25日 | 100名城以外の城館跡


城 名:无動寺太郎館(ふどうじたろうやかた)
別 名:无動動寺氏館
形 態:館
時 期:鎌倉時代か
築城主:无動寺太郎
城 主:无動寺太郎
遺 構:-
指 定:-
現 況:不動寺
所在地:埼玉県大里郡寄居町富田

武蔵七党のひとつ猪俣党の一族で、无動寺氏を名乗った太郎の居館跡と言われる不動寺を訪ねてみました。




この寺の存在は知っていましたし、傍まで行ったこともありました。しかし、館跡とは知りませんでした。
過日、某道の駅で、このハイキングガイドを入手し開いてみたところ不動寺のことが載っていて、「え、ここは
館跡だったの!」と知り、訪ねてみた次第です。あくまで 无動寺太郎館か と推定の範疇かも知れませんが。




无動寺太郎館がどの程度の範囲まであったのかわかりませんが、遠景で撮れるのはこの南側からだけになってし
まいました。東側は、塀に沿ってアパートが立ち並んでしまいましたし、北側は道路です。更に西側にあっては
台地となっており、墓地となっています。その西側は、東武東上線が走っていますので遠景は無理です。




山門は鐘楼門です。門前の右側には六地蔵尊 左側には板碑(青石塔婆)が置かれています




二階部分に吊るされている銅鐘  丸い窓の鐘楼は珍しいです




山門左側の仁王像 吽形




山門右側の仁王像 阿形




寄居町指定文化財の板碑  寄居町最古の板碑のようです
説明板  无動寺太郎に関係するものかさらっと読んでみましたが違ったようです




本堂
不動寺は、真言宗智山派の寺院で、山号は大聖山




本堂右側の建物は庫裏でしょうか?




本堂の西側は、高さ4~5mの台地で墓地になっています。更に西側を東上線が走っています(上の方の文と重複)




台地の上から鐘楼門を




やはり台地の上から本堂を




本堂の北西角にある池  北側の土盛跡は土塁跡と思いたいが・・・違うでしょう




手入れの行き届いた庭園から西側台地の崖線を




庭園




庭園




庭園




北側から不動寺を

館跡の遺構らしきものはありませんでしたが、手入れの行き届いた綺麗なお寺さんですので、城館めぐりという
ことでなくお寺めぐりとして訪れてもよいかもしれません。

散策日:平成31年(2019)4月21日(月)

仙波日枝神社(埼玉県川越市)

2019年05月24日 | 神社仏閣


社 号:日枝神社(ひえじんじゃ)
祭 神:大山咋神(おほやまくひのかみ)
創 建:貞観2年(860)
指 定:国指定重要文化財(日枝神社本殿附宮殿 昭和25年(1950)8月29日指定)
    川越市指定史跡( 日枝神社 昭和33年(1958)3月6日指定)
所在地:埼玉県川越市小仙波町1-4

日枝神社は、円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830)した折に、その鎮守として貞観2年(860)に比
叡山坂本の日吉山王社を勧請したのが始まりとされます。
東京・赤坂の日枝神社は、文明10年(1478)、太田道灌が江戸城築城の際に、江戸城紅葉山にこの日枝神社から
分祀し、その後、赤坂に移したものであり、赤坂日枝神社もそう記述しています。

日枝神社のあるこの場所は、仙波日枝神社古墳という前方後円墳で、前方部の一部に日枝神社が建立され、後円
部の上にはかつて多宝塔(現在は喜多院に移築)がありましたが、道路建設のために現在は、前方部が遺るのみ
となっています。




鳥居と社号標  
日枝神社は旧国宝保存法では国宝指定を受けていました。現在の文化財保護法においては国指定重要文化財とな
っています。
ここに限らず旧法による国宝指定であった「国宝」の文字をそのまま残している城郭や社寺がかなりあります。




神額「日枝神社」




手水舎




「日枝神社本殿付宮殿 一棟 (国指定重要文化財 建築物)」説明板




底なしの穴
喜多院七不思議の一つということです。今は埋められ囲いがあるだけですが、昔はこの穴にお札を納めると、翌
朝、1キロはなれた龍池弁財天(たついけ べんざいてん)の双子池に浮いた、との伝承があります。
また、いくらたくさんのゴミを投げ込んでも、一晩のうちに無くなってしまうので、底無掃溜とも言われるそう
です。




拝殿  老朽化により平成16年(2004)に再建されたようです 




拝殿と本殿を囲む透塀




透塀の間から本殿を




古墳の上から本殿・拝殿を




石碑群




仙波日枝神社古墳の前方部墳頂にある立て札




裏側には 仙波日枝神社古墳縁起 が書かれた板が貼られていますが、随分と難しくことを書いたものですね




仙波鎮守 日枝神社 御神木縁起




現在古墳(跡)として遺るのはこの程度になっています

古墳を下から上まで撮りたかったのですが、この時は統一地方選挙の最中で、古墳際に大きなポスタ―掲示板が
設置されていましたので、それを避けたため上部のみになってしまいました。

参詣日:平成31年((2019)4月16日(火)

古尾谷氏館 ②(埼玉県川越市)

2019年05月23日 | 100名城以外の城館跡


この古尾氏館②では、堀の内を囲む水堀跡を紹介します。
堀の内に入るには上の写真にある善仲寺正面のこの道しかないようで、内にある道はどれも行き止まり(屋敷へ
の道)で、外には出られませんでした。




古尾氏館①と同様に「埼玉の館城跡」に掲載の図を使って説明していきます




南側の水堀跡で今は水路になっています  上の写真 ← の所  図の⑦




同じく南側の水堀跡  上の写真 → の所  図の⑧




上記写真⑧の延長で  図の⑨ あたり




東側の水堀  トタン塀の右側(東側)は実相院  図の⑩




何とか堀の内の外側に出て水堀までたどり着きました  実相院脇から続いている水堀  図の⑪
写真上部中央に青く見えるのが実相院脇のトタン塀




⑪の地点から西方向に水堀を見ています





北側の水堀を図の⑫あたりから東方向(⑪方向)に




同じく北側の水堀を図の⑫あたりから西方向(⑬方向)に




水堀の内側を覗くとはっきりとはしませんが土塁が見えます 図の⑫あたりから




北側水堀を更に西方に進むとコンクリートで護岸整備されています  図の⑬の少し手前




西の車道に出ました 水堀は車道に沿って南西方に延びています  図の⑬と⑭の間辺り




西方向に曲がり込んだ水堀は電柱の先で二手に分かれます  図の⑭




二手に分かれた水堀の一方は善仲寺の西側を流れています  図の⑮ 




二手に分かれた⑭の所を振り返って見てます




西側の水堀  図の⑮




⑮の延長ですが この先は確認しておりません  竹藪の手前から善仲寺境内の墓地に入ることが出来ました

以上、外堀を廻ってみましたが、舟運のなくなった今は用水路と活用されており、堀幅も狭められて浅くなって
コンクリート等で護岸整備されています。

散策日:平成31年(2019)4月15日(月)・16日(火)

古尾谷氏館 ①(埼玉県川越市)

2019年05月22日 | 100名城以外の城館跡

館 名:古尾谷氏館(ふるおやしやかた)
別 名:善仲寺館
形 態:平城
時 期:鎌倉時代
築城主:古尾谷氏
城 主:古尾谷氏、仲氏
遺 構:土塁・掘
指 定:-
現 況:善仲寺、宅地等
所在地:埼玉県川越市古谷上堀の内

古尾谷氏館(善仲寺館)の歴史等については色々な方の記事を読ませていただいたが、私なりにこれだというと
ころには至りませんでしたので、取り敢えず概要は上記にしておきます。
さて、目的地である善仲寺をナビに設定してナビの指示通りに行くも付近を行ったり来たりするだけで、目的地
には着きません。付近の方にお聞きして何とか着きましたが、実に複雑な道でした。
更に、外堀跡も行く道が見つからず、調べ直して翌日に再訪問となってしまいました。




善仲寺参道と寺号標「曹洞宗 古谷山 善仲寺」とあります
参道の両脇(駐車場辺り)は、かつては空堀でだったようです




山門




扁額  これだけ崩されていますと何と読むのか難しい所ですが、「古谷禅寺」でしょうか?
曹洞宗のお寺さんですから禅寺となりますので




鐘楼




参道




薬師堂




当ブログお約束の六地蔵尊




善仲寺本堂




大棟には「二つ引両」紋が・・・鬼や、庫裏等にも使われていましたが。
ところでこの紋は誰の? 曹洞宗の宗紋ではありません。では、古尾谷氏か仲氏の家紋かと調べてみたのですが、
どちらもどんな家紋かは分りませんでした。みなさんの記事を更に読み返してみたところ、《古尾谷八幡社の社
伝に室町時代、足利尊氏に従った古尾谷刑部大輔が1352年の小手指ヶ原の合戦に際し戦勝祈願をした》との記述
がありました。また、足利氏は功のあった家臣に「二つ引両」紋を与えたことから、足利氏に仕えた古尾谷氏も
「二つ引両」紋を与えられとの推測も成り立ちますすが、あくまでも勝手な推論です。そんなことはお寺さんに
聞けばすぐにわかることで、悩むことではないのですが・・・




庫裏




庫裏入り口?




ここからは文で説明しても分りにくい(文章力がない)ので、「埼玉の館城跡」に掲載されている図を使ってみ
たいと思います。
古い図ですので、現況とはそぐわないかもしれませんが、概ねこの形で遺っているようです。




本堂裏にある物見台を思わせる土塁  図の①




土塁上には小さな石祠があります




水堀(池)  昔からのものなのか近世のものなのかはわかりませんが  図の②




水堀(池)北側の空堀  図の③




墓地の墓の後ろに隠れている空堀  西方から東方に  図の④




同上の逆方向(東方から西方に) 藪の中にも空堀が続いています




堀之内集会所  図の⑤




集会所の左側にある石仏群




石仏群・集会所の裏側(西側)にある空堀




石仏群・集会所の裏側(西側)にある空堀を逆方向(北方から南方)に
ここで鍵の手になっています




鍵の手から北方に延びる空堀  図の⑥




堀の内全景

この堀の内を囲む水堀を確認するためには堀の内の外に出なければなりませんが、堀の内の中にある道はみんな
行き止まり(屋敷への道)でしたので、水堀の北側に回り込むに難儀しました。故に2日も行く羽目に。
水堀について堀の内にお住まいの方3名程にお伺いしましたが、今は狭く浅くなっているが、かつては荒川と結
ばれていて船が水堀を行き来して米などを運んだとのお話でした。
この外堀については、古尾谷氏館 ② にします。

散策日:平成31年(2019)4月15日(月)・16日(火)