四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

日本の城ミステリー紀行 彦根城

2011年05月29日 | 城郭関係テレビ番組


昨28日(土)午後4時30分からBS朝日で「日本の城ミステリー紀行 彦根城」が放送(再放送)された。
残念ながらこの時間帯は外出中であったため録画しておき本日見てみた。この彦根城は国宝4城のひとつであり、TV等で紹介されることが多く、
同じBS朝日の「日本の城紀行」、BS-TBSの「栄華を極めた名城」等でも紹介されている。また、城郭関係の書籍・雑誌にも必ず出てくる
お馴染みの城である。私自身、1月ほど前に訪城したばかりであり、訪城前に見た感覚とはまた別の感覚で見ている自身があった。   

投稿日:2011年(平成23年)5月29日(日)           

熊谷次郎直実公と熊谷市

2011年05月10日 | まち歩き




過日、某所へ行った折に熊谷駅前に回りこみ「熊谷次郎直実公像」を見てきた。熊谷次郎直実については詳細は省きますが、熊谷郷(現熊谷市)
出身の武士で源頼朝の御家人となった人物。常陸国の佐竹氏攻めで武勲を挙げ、熊谷郷の支配権を認められるようになったということです。
 
ところでこの「熊谷次郎直実」の読み方は「くまがい じろう なおざね」ですが、「熊谷市」は「くまがやし」と読み方が異なります。
熊谷次郎直実の熊谷という名字(氏ではない)は地名の熊谷郷からとって名乗った言うことである。
であるなら名字の読み方と地名の呼び方が違うというのはおかしな話です。
元々は両者とも「くまがい」であったものが、駅ができた際に「くまがやえき」と誤って(故意に?)駅名を付けてしまったことから、
それ以降、地名については「くまがや」になってしまったという説があります。
熊谷市にお住まいの方なら本当のところを知っているかと思います。こっそり私に教えてください。
 
でも私などは地名である熊谷を「くまがいに行ってきた」などと「くまがい」を使ってしまいます。
これは別段意識してでなくこの方が言いやすいのか自然と言っているだけなのですが。 

投稿日:2011年(平成23年)5月10日(火)           

館林城跡(群馬県館林市)

2011年05月09日 | 100名城以外の城館跡


群馬県館林市にある「館林城跡」を歩いてきました。
館林城の歴史については、門の内と外に案内板が設けられて、ここに詳しく書いてありましたので転記しておきます。

館林市指定史跡   
館 林 城 跡

一 指定:昭和48年4月1日
一 所在:館林市城町甲23-1他
一 時代:戦国時代~江戸時代

館林城は、「城沼(じょうぬま)」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城(おびきじょう)」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭(はちまんぐるわ)、
南郭(みなみぐるわ)を置き、これを取り囲むように、稲荷郭(いなりぐるわ)、外郭(そとぐるわ)、惣曲輪(そうぐるわ)を構え、
さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。築城時期や築城者については、江戸時代になって
書かれたもののなかに、「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、
実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を
攻略したという記録である。その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を
支配するようになった。天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、
「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が5代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる
重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により3基の門の基礎と2基の井戸が発見されている。
また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居(しとみどい)」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。

                     館林市教育委員会
 (以上案内板から 館林城の歴代城主一覧(江戸時代以降)については省略)   




館林城三の丸 土橋門(復元) 






三の丸外側から見た土橋門(復元)と土塁  




館林城千貫門跡碑  






館林城本丸土塁・八幡宮の説明板




本丸土塁  



八幡郭跡にある八幡宮   

館林城の城域はかなり広かったと思われますが、かつての郭跡は市役所、文化会館、科学館等の施設が出来ており、
遺構と遺構が寸断された状態であり、また遺構自体が少ないのがちょっと残念でした。   
さて、この館林城は私が車窓からみた掛川城とも関係している。歴代城主の中に太田資俊がいるが、この太田資俊は
この館林から掛川に転封し、太田氏7代が廃藩置県に至るまで掛川城主を務めていたのです。

攻城日:2011年(平成23年)5月4日(水)                     

車窓からの「掛川城」(静岡県掛川市)

2011年05月08日 | 城館雑記


掛川城は、山内一豊が土佐24万石を与えられ高知城を築城する以前に居城していた城である。小田原の役で豊臣秀吉は徳川家康を関東へ移封し、
家康の旧領の掛川・浜松・岡崎・駿府などの東海道沿いの城には豊臣家の直臣を配置して家康を牽制した。この掛川城には近江長浜城から
山内一豊が封じられた。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役では、一豊は家康率いる東軍に味方し、家康に掛川城を宿所として明け渡した。この功により一豊は掛川5万石から
土佐一国24万石の太守となり移封した。そんな山内一豊の大出世の元となった掛川城を新幹線の車窓から見ることが出来ると某雑誌に書かれていた。

今回、東海・近畿の名城4城を巡ってきたが、車窓からこの掛川城を是非とも見たいと思っていた。新大阪方面に向かって右方向に見える
掛川城を見右方向に見える掛川城を見るためには右側の座席を確保しなければならないが、幸いにして一番右の席の指定席を確保できた。
しかし、車窓から見えるといっても掛川駅に入る前のほんの僅かな時間でしかない。静岡駅を過ぎた辺りからカメラを出して用意をし、
いつでもシャッターを押せるよう準備をして外を眺め続けていた。「見えた!」。視界に入ってきた掛川城にレンズを向けてシャッターを
押すも何せ凄いスピードの新幹線だけあって、写ったのは線路端の建物の姿。必死になってシャッターを押し続けるも肝心の掛川城は写って
いない。そうしている間に城の姿は見えなくなってしまった。そんな中、どうにか城の姿を捉えられたのがこの2枚の写真である。

そんな掛川城、車窓から見るだけでなく実際に登城してみたいが果たしてその機会をつくることができるかどうか・・・

撮影日:2011(平成23年)4月30日(土)       

犬山城(愛知県犬山市)

2011年05月07日 | 現存12天守


犬山遊園駅のホームから雨に煙った犬山城を望む 

愛知県犬山市にある「国宝 犬山城」を訪ねてみました。
犬山城は天文6年(1537)、織田信長の叔父信康が木曽川沿いの標高88mの丘陵上に築いたことに始まる。
城の縄張りは天守の建つ本丸から南へ、杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸をほぼ連郭式に並べた形であった。本丸の背後は木曽川によって守られており、
いわゆる「後堅固」の構えとなっていた。城主はめまぐるしく交替した。元和3年(1617)、尾張徳川家の付家老の成瀬氏が城主となった。
明治になって政府が城の修理・整備を条件に成瀬氏に譲渡し、個人所有というめずらしい形態が平成16年3月まで続いたが、現在は
財団法人犬山白帝文庫の所有となっている。    (「日本100名城 公式ガイドブック 43犬山城」より引用転記)




犬山城登城口にある石碑






雨に濡れた石段を登り詰めると「本丸鉄門」(昭和40年復興)です






天守を若干左側からと右側から撮ってみました






正面から見た天守と「付櫓」です






天守2階内部と付櫓の内部です  






「石落としの間」と天守最上階にある「高欄付き回廊」・・・雨で回廊には出られませんでした 






天守から見た城下と木曽川 






同じく天守から見た「鉄門」と「本丸」






城下の街並みと城下から望む犬山城 

雨に降られた犬山城の訪城でしたが、美しい正に国宝の名城です。もう一度訪ねてみたいそんな城・・・無理な相談でしょうが。

攻城日:2011年(平成23年)5月1日(日)          

天下普請の城 名古屋城 ③(愛知県名古屋市)

2011年05月06日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 名古屋城跡



朝方の雨は上がりましたが、不安定な空模様です。開門とほぼ同時に正門から入城。

【名古屋城の概要】
名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)江戸幕府の要所として、また大坂(現大阪)方への備えとして
清須(現清須市)から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの
選んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
明治にはいり陸軍省の所管となり名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。
昭和5年(1930)12月離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。昭和20年(1945)5月の空襲で
大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁図1,047面が国の重要文化財に指定されています。
昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。    (名古屋城正門前の案内板から)  




正門を入ったところは、西の丸跡です。大天守が見えてきました.






大天守と小天守 




石垣の石に刻まれた刻印




「加藤肥後守 内小代下総」とありますが、ちょっと肉眼でははっきりと見えませんでした。




天守閣礎石




不明門(ふめいもん・・・あかずのもんとも読みます)  




東側から見た大天守




金の鯱(思い切りアップで)

天守にも入って(上がって)見ましたが、内部はコンクリート造りですので感動はいまひとつだったかもしれません。しかし、「尾張名古屋は城でもつ」
その名古屋城に漸くの思いで攻城出来たことは感動でした。え、写真が少ないって・・・ここでもいろいろな場所の見落としをしてしまいましたので。
再度攻城するための口実に敢えて見落としてきたなんてことはありません。ほんとに見落としました。至極残念無念です。

攻城日:2011年(平成23年)5月1日(日)            

天下普請の城 名古屋城 ②(愛知県名古屋市)

2011年05月05日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 名古屋城跡



前の日に2つの城を攻めてきたので疲れているというのに薄暗いうちに目が覚めてしまいました。
窓から外を見ますとしとしとと雨が降っています。天気予報どうりになってしまいましたが、この程度の雨ならと傘を片手にいざ出陣。




名古屋城はまだ開門しておりませんが、開門までに外堀を埋めようと考えたわけでして・・・
分かりますか?雨が降っているのが。






開門前の「正門」と「空堀」です。




「二乃丸大手二乃門」まで来ました。この先に二乃丸跡があります。




二乃丸跡には「歩兵第六聯隊」が置かれていたようで、歩兵第六聯隊跡碑と由来書の石碑が建っています。この広い跡地には、現在「愛知県体育館」が建っていました。




東門出入口の隙間から櫓が見えました。「東南隅櫓」でしょうか?




天守と堀・・・いいですねこの景色






天守を違う角度から






西北隅櫓とホテル・・・これで外周を一周しました。

散策日:2011年(平成23年)5月1日(日)           

天下普請の城 名古屋城 ①(愛知県名古屋市)

2011年05月05日 | 日本100名城
■ 国指定特別史跡 名古屋城跡



滋賀県内の安土城と彦根城を強行軍で攻め終えてから愛知県名古屋市に転進しました。 名古屋城の目の前にあるホテルを予約してありましたので、
名古屋駅からホテルのシャトルバスに乗ってホテルに。 ホント目の前にライトアップされた名古屋城の天守が見えるではありませんか。
チェックインを済ませて部屋に荷物を置くとすぐにお堀の周りに・・・






天守が見える位置を探して天守を撮ったものの・・・






西北隅櫓もライトアップされておりました。 堀を挟んで右側にあるのは、THE WESTIN NAGOYA CASTLE このホテルに宿をとりました。






下から見上げるだけでなく上からも撮ってみたい。しかし部屋からは見えません。 そこでホテルの方にお願いしたら、最上階にあるレストラン脇の部屋を
貸していただけました。 正面にライトアップされた天守が、左斜め方向には西北隅櫓も見えるではありませんか。でも、西北隅櫓は部屋のガラスに部屋が
反射しておりガラス越しに斜めからは撮れませんでした。これに限らず撮影方法を知らないだけのことなのですが・・・

撮影日:2011年(平成23年)4月30日(土)             

館林のつつじとこいのぼり

2011年05月04日 | 花・鳥・風景




絶好の天候の今日、満開で見ごろだという群馬県館林市にある「県立つつじが岡公園」までつつじを見に行ってきました。
入園料は変動性で今日は最高額の600円。別に入場料が高い安いと愚痴っているわけではありません。それだけ今日のつつじは見事だということ言いたいだけですので。
50余種約1万株のつつじが植えられているとのことです。つつじの種類株数もさることながら見物客の数もこれまた凄い。散策コースはどこも人の波どころか団子状態です。
これではひつつひとつゆっくり見て入られません。そんな次第ですから、どれが何と言う品種かまではチェックできませんでしたが、何枚かの写真を・・・














館林市といえば、このつつじの他にも分福茶釜のタヌキが有名ですが、つつじ園の中にもタヌキの置物がありました。
このタヌキの前で記念写真を撮る方が次々でしたが、記念写真を撮り終えて一瞬誰もいなくなったときを狙って撮ってみました。
そして、この後は・・・  










つつじが岡公園から少し離れたところにある鶴生田川のこいのぼりを見に行ってきました。
約1000匹のこいのぼりが川一面に泳いでいました。もう少し早く訪れていれば川の両岸に満開の桜が見られたようです。

またこの付近には「向井千秋記念子ども科学館」、「田山花袋記念文学館」等もありますので色々と楽しめるようです。 

散策日:2011年(平成23年)5月4日(水)           

彦根城の大名庭園「玄宮園」(滋賀県彦根市)

2011年05月03日 | 現存12天守








城の北東にある大名庭園で、中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた縮景園。第4代当主直興が延宝5年(1677)に造営。

ということで国宝彦根城を見学した(また見落としがあったが)あとはこの庭園に。庭園から見た彦根城天守はまた別の美しさが・・・

訪園日:2011年(平成23年)4月30日(土)