四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

龍岡城跡(長野県佐久市)

2010年05月27日 | 続日本100名城







日本に2つしかない星形の洋式築城=五稜郭=のひとつである   『龍岡城跡』(国指定史跡) 長野県佐久市田口(旧臼田町)に行ってきた。
この龍岡城は、江戸時代末期に築城(未完成だったようだが)されたものである。








堀の一部と、石積・土塁です。




城跡内には、市立田口小学校が建てられている 




現存する唯一の建造物「御台所櫓」        




藩主(築城者)松平乗謨(大給 恒)の胸像     

龍岡城は、別名「龍岡五稜郭」、「田野口陣屋」、「龍岡陣屋」と呼ばれるが、城ではなく陣屋が正しいようである。
松平家は代々「陣屋大名」であり城を持つことは出来なかったのである。まあ、皆が城と言っているのだから城でいいが。

攻城日:2019年(平成22年)5月23日(日) 雨  続日本100名城選定前    

長窪城跡(長野県長和町)

2010年05月27日 | 100名城以外の城館跡


長野県小県郡長和町古町に、長和町指定史跡となっている『長窪城跡』(山城)があるということなので攻めてみることとした。
無論、城の歴史や規模等についての予備知識は全くなかった。
国道254号線(だったと思うが?)を走っていくと、写真のような標識を見つけたので標識の指す方向に愛馬の手綱をひく。
舗装されているとは言え、雨の山道であるからゆっくりと・・・






山道の頂上辺りに馬を2、3頭 繋いでおける場所があった。ここが城跡入口の搦手口であった。
城跡・館跡の定番となっている城跡碑と案内板がここでも当然の如く建てられている。
案内板の説明文をさらっと見てから、傘をさしての山登り。何と格好悪い城攻めであろう。




搦手口から本郭に向かう途中には、5つの段郭と5条の堀切が造られているとのことであるが、この写真が最初(?)の堀切。

 


郭の中では、2郭が一番広いということであるが、広いと言ってもこの程度




本郭跡にも城跡碑が建てられていました。東屋は城攻め客やハイカーのために設けられたのでしょうか・・・




本郭から更に先には、南郭群・馬出があるとのことから、南郭に向かうことにした。が、急斜面となっていて、片側にはロープが張られ、
もう片側には路面にロープが這わせてあった。急斜面がある場所で時折見られる光景である。片手に傘を持ち杖代わりに、もう片手で
張られたロープをつかみ斜面を降りた。ここが南1の郭でしょうか。

これより先はロープが張られ「入山禁止」の札が吊るされていた。
まあ、この状況ではこの先に進むつもりもなかったのでどうでもよかったので、愛馬を繋いである搦手口まで戻ることとした。




城の歴史等について私が書いても仕方ありませんので、案内板にある「長窪城跡について」を切り抜き加工しましたので載せておきます。早い話が手抜き・・・

攻城日:2010年(平成22年)5月23日(日)            

塩田城跡(長野県上田市)

2010年05月26日 | 100名城以外の城館跡


長野県上田市前山というところに、長野県指定史跡『塩田城跡』(山城)があるとのことから、城歴等何ひとつ知識がないまま訪ねてみることとした。
登城口前に設置された案内板によって、初めて鎌倉時代中期に鎌倉幕府の要職にあった北條氏が構えた城と知る。早速、攻城を開始するも、生憎の雨、
足元はぬかるんでいて滑ってしまう。途中まで行って引き返したものの、折角来たのだからと再度山登りを始めるが、この天候では、頂上までは
とても無理と諦め戻ってきました。




「長野県指定史跡 塩田城跡」説明板




塩田城跡の配置図




空堀跡




塩田城跡発掘調査地点




塩田城跡発掘調査地点の説明板
発掘調査の結果わかった遺構や出土品について書かれていますがゆっくり読む余裕はありませんでした




国時の墓まではまだ距離がありそうです




先に進んだものの雨でぬかるんだ道をこれ以上行くのも大変と涙ながらに引き返すことにしました。
無理してもしものことでもあれば大変ですからね。

攻城(失敗)日:2010年(平成22年)5月23日(日)         

荒砥城跡(長野県千曲市)

2010年05月26日 | 100名城以外の城館跡


 荒砥城は今から約400年前に、この地を治めていた村上氏の一族である「山田氏」によって築かれた城で、郭が連なるように並んでいるところから
『連郭式山城』と呼ばれています。 この時代は、全国各地で戦が繰り広げられていた戦国時代という時代です。この地も例外ではなく、荒砥城と千曲川を
はさんだ対岸の山頂に築かれた葛尾城の城主村上義清は、上田原の戦い(1548年)や戸石城の戦い(1550年)では武田信玄との戦に勝ち、領地を守っ
てきましたが、武田氏の圧倒的な軍勢の前に、1553年ついに葛尾城は落城し、荒砥城もこの戦いで城主を失い、山田氏は滅亡しています。
 その後、川中島の戦い(1553年~1564年)を経て荒砥城は上杉氏の治める城となりますが、海津城の副将であった屋代秀正は上杉に背き、海津城を
出て荒砥城に篭ります。1584年、上杉軍に攻められ荒砥城は落城して廃城となり、城としての役割を終えます。  (入場時に頂いたパンフレットから)




案内所
 長野県千曲市(旧上山田町)にある『荒砥城跡』(千曲市城山史跡公園)の案内所前に着いたのは午前8時を数分回った頃であった。公園の開園は午前9時で
入場料を徴収されるということは全く頭になかった(調べていなかった)ので、閉ざされた門を目の前にして考えてしまった。やっと辿り着いたのに、出直すと
いうのにはためらいがあったし、雨が降る中を1時間待つのも大変であった。どうしようかとしていたところ門の内側に人の姿が、そして門が開けられた。
案内所の職員であったが、門の外に人の気配がしたので驚いたとのことであった。そりゃそうですよね。雨の降るこんな早い時間にお客さんが来ているとは
想像だにいていなかったでしょうから。ということで、開園時間には未だあったが入場料300円を支払い特別に入園を許可してもらった。
「入城」と書きたいところなのですが、公園であるので入園。でも、券は「入場券」




四の郭




三の郭から見上げた井楼櫓




二の郭虎口の矢倉門と石積み




虎口を入ると郭への通路は石積みに囲まれています




二の郭の兵舎と井楼櫓




兵舎








二の郭の兵舎は映像室・展示室となっていますが、年譜等に混じり、大河ドラマ「風林火山」のロケ地に使われた時の写真が展示されています。
私は、大河ドラマ「風林火山」を観たことはなかったし、このことも知りませんでしたが、放送後は、この荒砥城跡にどっと見物客が訪れたそうです。




井楼櫓から二の郭、本郭を




井楼櫓から上田市方面を望む
この城山の下は、戸倉上山田温泉街。そういえば、慰安旅行で来たことがあった。まだ千曲市になる前の話ですが。




本郭虎口の矢倉門と石積み(二の郭とほぼ同じですね)




矢倉門から郭に行く通路




館と兵舎(手前)






建物はいずれも模擬建物(パンフレットでは「再現」という用語を使用)です。また、石積み等に対して疑問を呈している方もおりますが、
中世の山城とはこんなものだったんだろうなと思えるだけでも十分です。

攻城日:2010年(平成22年)5月23日(日) しとしと降っていました。       

岡城跡(長野県上田市)

2010年05月26日 | 100名城以外の城館跡




「岡城」という名の城は全国にいくつかあるようです。
♪春高楼の花の宴~♪「荒城の月」を作曲した滝廉太郎は、大分県竹田市にある「岡城」をイメージして作曲したという。
私自身、今年1月には埼玉県朝霞市にある「岡城」跡(城山公園)を訪ねましたが、今回は、長野県上田市にある「岡城」跡を訪ねてみました。

この「岡城跡」(上田市指定史跡)は、その一部が「岡城址公園」として遺っている。






城跡はそのほとんどが住宅地になったりしているし、公園と言っても遊具が2.3ある程度のものでした。








郭跡には「市指定史跡岡城跡」の標柱のほかに、「岡村城の由来」の石碑も建っておりました。
また、耕作地(写真右)になっているところが堀跡でしょう。
岡城については、トップの写真の案内板に説明されていますので参考にして下さい(見づらいかも)

攻城日:2010年(平成22年)5月23日(日) 生憎の雨天でしたが。    

川中島古戦場八幡原(長野県長野市)

2010年05月25日 | 古戦場・陣所








1561年(永禄4年)の第4次の川中島合戦の際、山本勘助のキツツキ戦法を採用した武田信玄が本陣を布いたと言われる『川中島古戦場八幡原』に寄ってみました。




武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像




三太刀七太刀之跡




首塚




風林火山の旗の説明板




旧本殿




逆槐(さかさえんじゅ)

ここの駐車場(北駐車場)は午後5時で閉まってしまう。それに伴い、売店も店仕舞を始めていた。そのうちのひとつで野菜を商っている店の
女の人に尋ねごとをしたら、胡瓜と長芋を購入する羽目に・・・お土産にしました。

散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)            

霞城跡(長野県長野市)

2010年05月25日 | 100名城以外の城館跡
予定外であった松代城下の散策を続けたかったが、他の城跡も見てみたいと、当初の予定に戻ることにした。城攻めから外せない松代城跡以外は、
手持ちのリストから適当に選んで攻める予定であった。まずは、同じ長野市でも松代城跡とは方向の違う場所にある大峰山(822m)山頂に築かれている
「大峰城」を攻めてみることとした。県庁前を通り、善光寺近くを抜け、難所七曲を越えて走ること約1時間。やっとの思いで着いたら、なんと この有様。
城跡で「閉館」とは? 実は、この大峰城跡には模擬天守が建てられている筈であった(内部は、「チョウと自然の博物館」)。
まあ、あやしい天守の城ですから・・・



これなら善光寺に寄ってきた方が良かった。と言ってもあとの祭り。
(どうでもいい前置きが長くなってしまったが)
攻城が適わないところに長居は無用。次にリストアップしたのは、やはり長野市松代町大室の『大室城』であったが、来た道の大部分を戻る羽目に。
また、大室地内としか所在地が判明していない。とり合えず大室に行こう。行けば目印くらい出ているだろう・・・・甘かった。










大室地区に入ったものの城跡の案内を示すものは見当たらない。地元の方に場所を聞き、教えていただいた所に行くも、何処が登城口かさっぱり分からず、
再び地元の方に訊くと、登城口まで案内してくれ、「城はないよ。石垣があるだけだよ」と。いいんです、石垣があれば・・・普段、登っていく人はいないの
であろう。山道らしい山道もないところを上がっていく。登山杖を用意してなかったので、枝を拾って杖にしてやっとこ石垣ある場所まで辿りつく。
自然のなすままのようであった。無論、「〇郭」などと言ったものは立っていない しかし、明らかに城跡である。松代城跡とはまた別の感動があった。

なお、この「霞城」について、Wikipediには、
現在の長野市松代町大室付近の豪族、大室氏の居城であった。敵が攻めてくると、霞がかかったように見えなくなることからこの名がある。
大室氏は武田氏滅亡後、織田信長の家臣、森長可に仕えた。しかし森長可は本能寺の変で後ろ盾を失って撤退したため大室氏は上杉景勝に従う。
その後、上杉氏の会津移封後、大室氏も会津に移った。現在は、主郭部付近に石垣が残り、保存状態も良好。この付近でこのように堅固な石塁が残る
山城は他に鞍骨城、鷲尾城、雁田城と数えるほどで珍しい。また近くには大室古墳群があり、前方後円墳が城郭の一部になっている珍しい城である。
と解説されている。

散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)           

松代城跡(長野県長野市)

2010年05月24日 | 日本100名城
■ 国指定史跡 松代城跡



史跡松代城跡 附新御殿跡

松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島合戦の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりと言われており、
永禄3年頃(1560)普請が完了したものと、伝えられています。慶長5年関ケ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸
三の丸を整備し土塁を石垣に築きなおしたものと考れる。元和8年(1622)真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城ま
での約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。松代城は、北西をながれる千曲川を自然の要害として造られた平城で、
最北部に本丸南側の城下に向けて二の丸、三の丸・花の丸等の曲輪を構えていました。明治5年の廃城以降、建物は無くなったものの
昭和56年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されています。
                         長野市教育委員会    (城跡内に設置された案内板より)

真田氏が居城としたことのある上田城を攻め、更に、上田城に移る前の真田氏居館跡も訪ねた。そうなると真田氏が上田城よりも長い間居城とした
『松代城(海津城)』跡(国指定史跡 日本100名城)も攻めないわけには行かないだろうなと考えていました。そこで思いついたように
去る5月22日(土)に、急遽、長野県長野市(旧松代町)まで攻城に向かいました。




太鼓門と太鼓門前橋




太鼓門




太鼓門の枡形




北不明門(きたあかずもん)




北不明門の高麗門



北不明門の櫓門




北不明門を北方から




本丸跡




本丸内にある城跡碑

この太鼓門と太鼓門前橋は、2004年に残っていた絵図を元に、当時の門礎石を利用して忠実に復元されたもの。
本丸跡内にある城址碑は「海津城址之碑」となっています。海津城から松代城と改名されたのは3代真田幸道のときで、幕命によるそうです。
いまでも松代城という呼び名より海津城の方が良いという方が多いようです。




松代城天守台石垣




天守台から北不明門を




北不明門前橋




水堀と太鼓門前橋




二の丸南門




石場門




二の丸




水堀




埋門

またひとつ素晴らしい城を攻めることが出来ました。
城跡の近くには色々と松代城に関連する建物があり、本来はここに続けて書けばよいのでしょうが、機会を見て別ページにしたいと思います。

散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)            

川越夜戦跡(埼玉県川越市)

2010年05月16日 | 古戦場・陣所


「日本三大夜戦」のひとつである『川越夜戦』が行われたという跡に行って見ました。無論、戦いの跡を残すものはありませんが、
沢山の方が訪れているようで、私が訪ねたときも、男女のカップルがほぼ同じに訪れカメラを向けていました。

写真は、川越夜戦の舞台となった東明寺です。「川越夜戦」とはどんなものだったか? 東明寺の門前脇に建てられている案内板の文言を下記に写しておきます。

  川越夜戦跡  所在地 川越市志多町
天文6年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢8万余騎をもって、
同14年10月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか3千でたてこもっていたが、翌15年にはすでに食糧も尽きて非常な苦戦におちいって
いたところ、北条氏康が8千騎をひきいて援軍としてかけつけ、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、
東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に敗走をはじめ、
この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。
                          昭和58年3月       埼 玉 県




東明寺境内にある「川越夜戦跡」石碑




上記説明が書かれた案内板




やはり境内にある東明寺の由緒書


ちなみに三大夜戦の他の二つは、
毛利元就と陶晴賢が戦った厳島の戦い(1555)、織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦い(1560) だそうです。

実は、この川越夜戦のあった東明寺を訪れたのは今回が初めてですが、このすぐ目の前の道を何年も通勤で通っていたことがあります。

散策日:2010年(平成22年)5月16日(日)           

河越館跡(埼玉県川越市)

2010年05月16日 | 100名城以外の城館跡
■ 国指定史跡 河越館跡



河越館跡碑・・最近建てられたようです

 河越氏は桓武平氏・秩父氏の流れをくみ、平安時代末から南北朝時代にかけて武蔵野国でも有数の勢力を誇った武士です。このことは、河越重頼の娘が
源義経の正妻になったことからも窺い知れます。しかし、室町時代となった貞冶6年(1367)に鎌倉公方足利基氏が死去すると関東を統治するために
設置された政庁である鎌倉府と河越直氏重を中心とする平一揆との関係が悪化、応安元年(1368)、平一揆が河越館にたてこもって鎌倉府に反旗を翻
しますが、敗北してしまいます(武蔵平一揆の乱)。これ以降、河越氏は、歴史の表舞台から姿を消してしまうこととになります。河越館跡は、
この河越氏の居館跡で中世武家政権を支えた武士の実態を解明する上で重要な遺跡として、昭和59年12月6日国指定史跡となりました。

 国指定史跡河越館跡史跡公園は、次の世代に伝えるべき貴重な史跡である河越館跡の保存を図るとともに、郷土学習の場、市民の憩いの場として有効な
活用を目指し開園しました。第1期史跡整備事業は平成19年度から21年度までの3ヵ年にわたり、整備面積は約13,300㎡を対象としました。
                              (パンフレット「国指定史跡河越館跡史跡公園 川越市教育委員会」から一部抜粋)   
ということで、近年整備され、最近開園した川越市上戸にある『河越館跡史跡公園』に行って来ました。




「国指定史跡 河越館跡」説明板




常楽寺入口にある碑
 
平城跡ですから起伏はありませんので、ただの野ッ原と言った感じです。幾分か復元(?)されていますので「そうか」と思えば思えないでもありません。
常楽寺は、河越館跡のなかにあり、整備される前はここ常楽寺を河越館跡と呼んででいた方もあるようです。




河越氏時代の堀区画




塚状遺構




井戸跡




山内上杉氏の陣所の堀跡




土塁




供養塔

跡地内には土塁ものこっています。また、常楽寺境内には、河越重頼・源義経・義経正室京姫の供養塔が建てられております。これも近年建立。
整備されたのはまだ一部であり、まだまだ原っぱ状態の広大な跡地がのこっていますが、追々整備されることでしょう。その頃は更に立派な史跡公園に。

史跡公園散策後、日曜日のみ開設されている資料展示室に行ってみました。私以外の訪問者はなく、本日担当していた方と長々とお話をさせていただきました。

散策:2010年(平成22年)5月16日(日)