四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

月輪神社古墳(埼玉県滑川町)

2020年07月30日 | 古墳


名 称:月輪神社古墳(つきのわじんじゃこふん)
別 名:-
墳 形:円墳
規 模:東西径46m 南北径46m
築 造:6世紀代
出土品:-
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町月輪418 月輪神社

「月輪古墳群」の東方に単独で存在する古墳で、墳丘の上に月輪神社が鎮座する。主体部および遺
物については不詳であるが、主体部が横穴式石室であったとの伝えがある。




神社なので南側の参道から
幟立て右背後に「月輪神社」の社号標  古いものだと旧社格が刻まれていることが多いですが、
社名しか刻まれていませんので比較的新しい社号標のようです。




以前は朱色の両部鳥居だったようですが、この鳥居は平成31年3月に改修建立されたばかりです
神額には「月輪神社」とあります
社殿までの参道は自然道で両脇に大木が並んでいます




墳丘上に月輪神社が鎮座しています  右の建物は【滑川町月輪中央集会所】




【月輪神社】御由緒
祭神の中に『九条兼実』という名がありますが九条兼実は平安時代に関白で、この地に荘園があり、
元々京都の月輪寺の近くに土地があり、「月輪殿」と呼ばれていたため、ここにもこの地名がつい
たと言われるようです。
残念ながら古墳に関する記述はありませんね。




【月輪神社】社殿




扁額「月輪神社」と揮毫




本殿覆屋と境内社




墳丘を南西から




墳丘を北東から




墳丘の北側に窪みが見られますが周溝の跡?




北側の道路沿い建立されて社号標「村社 月輪神社」と歴史のある石標柱




古い社号標のある角を入った所にある月輪稚蚕共同飼育所建設記念碑(左側)蠶魂之碑(右側)
滑川町郷土かるたの標柱「ゆ 月輪神社(ささら獅子)」
 勇壮に 舞って奉納 ささら獅子




境内東側道路の先にある【滑川町月輪中央集会所】




北側の道路から 月輪神社(月輪神社古墳)のある森を

散策日:令和2年(2020)6月20日(土)

大築城の御城印(埼玉県ときがわ町)

2020年07月28日 | 御城印


大築城(おおつくじょう)は、比企郡ときがわ町と入間郡越生町にまたがる城跡ですが、主郭が
ときがわ町分にあることなどから所在地はときがわ町と表示されているようです。
残念ながら私はまだ攻城しておらず、大木戸を見てきた程度ですので大築城訪城記念の御城印を
いいただいて(購入して)よいのか分りませんが・・・
大木戸の写真の中にある大木戸の由来の駒札の説明文を挿入しておきます。

この大築城跡は県指定の史跡や旧跡はおろか町指定の史跡にもなっていないのが現状です。




『大築城跡』御城印と説明書  説明文は下記

〇大築城について
大築城跡はときがわ町の大築山(標高465メートル)の山頂部を中心に戦国時代の占地する
山城です。最高地点の主郭を中心に周囲の斜面には郭やそれを結ぶ通路、防備のための空堀な
どが良好に残っています。また登城路の途中には、モロドノ郭と呼ばれる出城的な場所も存在
し、この遺構も良好に残ります。城跡はコース整備がされており比較的容易に城跡内を巡るこ
とができ、主郭からの眺めも素晴らしく山城の醍醐味を堪能できる埼玉県有数の城跡といえま
す。
大築城は、小田原北条氏の家臣、松山城主の上田朝直が関東屈指の大寺院であった天台宗関東
別院慈光寺を攻略する拠点として使用したとの伝承もあり、現在の残っている資料等から推測
して天文年間後半に北方5キロメートルにのぞむ慈光寺を焼き討ちした際の拠点であったもの
と考えられています。
城跡の周囲には、遠見、馬場、硯水、大木戸などの地名が今でも残っています。

◎御城印デザインについて
埼玉県下有数の中世城郭遺構である大築城跡の実測図をベースに、城跡の規模と大きさと山城
の要害性の高さを表すべくデザイン化を図りあわせて城主であった上田氏の家紋を配しました。

◇和紙について
和紙の歴史は1300年、673年慈光寺が開基されて以降、この地は文化と産業の中心とな
り、建具やお茶、紙漉きも盛んになりました。御城印・御寶印には、原料となる国産の武蔵楮
を用い、ときがわ町で全て手漉きにて仕上げた貴重な逸品です。
                          ときがわ町観光協会

頒布価格800円




国指定史跡とか県或いは町指定史跡といった肩書がありませんので・・・

小倉城の御城印(埼玉県ときがわ町)

2020年07月27日 | 御城印


ときがわ町観光協会では、7月23日(木)から国指定史跡比企城館跡群『小倉城』と、対慈光寺
攻略の城であった『大築城』の御城印を同町西平地内の建具会館で頒布を始めましたので購入し
てきました。
2城の御城印の他に「慈光寺」の『御寳印』の頒布もありましたが、これについては購入見合わ
せとしました。
写真は、小倉城の御城印のデザインのモチーフとなった緑泥片岩の石垣と小倉城阯碑。
小倉城については過去2回攻城しています。

この国指定史跡比企城館跡群『小倉城』の史跡範囲は、ときがわ町・嵐山町・小川町の3町に跨
って指定され告示されていますが、その大部分がときがわ町分であり、主郭等もときがわ町分に
あることなどから所在地はときがわ町とされます。




ときがわ産の武蔵楮(こうぞ) を使用した手漉き和紙による「御城印」と同封の小倉城と和紙につ
いての説明書
頒布価格800円は手漉き和紙ということを考えれば仕方ない値段か・・・




手漉き和紙の雰囲気が少しでも分かればと・・・

『大築城』の御城印は次の更新で載せます

月輪古墳群・こふん公園と30号墳(埼玉県滑川町)

2020年07月25日 | 古墳


名 称:月輪古墳群(つきのわこふんぐん)
別 名:-
墳 形:円墳・帆立貝形墳
規 模:直径約10mから20mの100基以上の古墳群(残存は40数基)
築 造:古墳時代(5世紀後半~7世紀)
出土品:円筒・象形埴輪
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:月輪古墳群 昭和44年(1969)10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡滑川町月の輪

嵐山町川島字屋田から滑川町月輪字西荒井にかけて、東西400メートル、南北800メートルの範囲に
所在する古墳群。嵐山町側を「屋田古墳群」、滑川町側を「月輪古墳群」と呼ぶこともある。
現存する全古墳を見て歩きたい思いがないわけでもありませんが、取り敢えずは「こふん公園」と
やはり住宅街の中にあり場所がはっきりしている1基の古墳を廻ってみました。




埼玉県選定重要遺跡  月 輪 古 墳 群
                         選定 昭和44年10月1日
                         所在 滑川町月の輪7-8-1ほか
                         時代 古墳時代(5世紀後半~7世紀)

 月輪古墳群は市野川右岸の東松山台地の北縁に分布しています。かつては100基以上の古墳が
あったと思われますが開墾等により多くの古墳が崩されてしまいました。また、近年の区画整理に
よって59基の古墳が記録保存の措置がとられました。発掘調査の結果、ほとんどの古墳は直径約
10mから20mの円墳でしたが、帆立貝形古墳も数基ありました。埋葬施設については棺を直接
埋めたと考えれれるものと横穴式石室を持つものがありました。多くの古墳からは円筒埴輪のほか
に人物・馬・鳥・家などの形をした埴輪が多数出土しました。月輪古墳群は狭い範囲の中で約1世
紀の間に連綿と古墳が作られ、古墳時代後期の群集墳として貴重です。この公園には2基の古墳が
保存されているため、むやみに土を掘り返したり、木を植えてはいけません。
 平成20年3月 
                                  滑川町教育委員会




こふん公園に保存されている17号墳 墳丘に高さがなく言われなければ古墳とは思えません




19号古墳 17号墳に比較すれば高さがあります




月輪古墳群 月輪30号墳のある稲荷大明神(月の輪6丁目2‐6)
区画整理された住宅街の中にあります こふん公園から南方約420mに位置します

滑川町郷土かるたの標柱「お 稲荷講(稲荷大明神)」
 オトウカさま イッケで祀る 稲荷講




月輪30号墳の規模は不詳ですが円墳で主体部は横穴式石室




墳丘の上に鎮座する稲荷大明神
青面金剛像の前に敷かれている平石は石室の石材?




石燈篭の前に大きな平石  これは間違いなく石室の石材でしょう




社殿の背後に【滑川町月輪中丸集会所】が建っていますが、その集会所の前にも石室の石材
このほか数か所に石室の石材と思われるものが置かれていました

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)・20日(土)

山王塚古墳(埼玉県滑川町)

2020年07月24日 | 古墳


名 称:山王塚古墳(さんのうづかこふん)
別 名:大木古墳群1号墳・富士浅間神社・山王さま
墳 形:円墳
規 模:径約20m・高さ4.57m
築 造:不詳
出土品:-
指 定:-
所在地:埼玉県比企郡滑川町福田

滑川町福田地内の県道47号(深谷東松山線)沿いにある古墳を探訪してきました。
正直、古墳の正式名は分りませんが、大木古墳群に属する古墳で、某古墳ブログで使用していた
名称は「大木1号墳」でしたが、古墳の本では「山王塚古墳」という名称が出てきますのでタイ
トルは山王塚古墳とさせていただきました。
大木古墳群は、滑川の沖積地に張り出した舌状地に築造された古墳群で10基近くが確認されたが
現存するのは1基のみとのことです。
不審者に見えたのでしょうか、たまたま付近の方二人に声をかけていただきましたが、お二方と
も古墳としてではなく富士塚と認識しているようでした。
また、何十年か前に大学の先生が来てレーザー探査をしたが何も見つからなかったというお話も
いただきました。




北西から




北側(裏側)から




南西から




正面(南側)から石段と鳥居、社殿を




社殿
写真は載せませんが、この社殿の中を格子の間から覗いてみたところ3年に1度行われる萩日吉神社
(ときがわ町)の鏑流馬の平成27年の際の的が奉納されていました。
日吉神社は山王さまと呼ばれます。このことからこの神社は山王さまも祀られていると考えられ、
この塚は別名山王塚で間違いないようです。




墳頂を墳丘斜面の北西を少し下がって
右上に挿入したのは墳頂の際ギリギリに西側の道路面井向けて建立されている大きな石碑で、
  天彦火瓊瓊杵命・木花開耶姫命・大山津見命
の3つの祭神名が刻まれています(墳丘斜面に下りて撮りましたが、今にも転げ落ちそうでした)

木花開耶姫命は浅間神社の祭神  大山津見命は日吉神社(山王さま)の祭神です
なお、地図上では「富士浅間神社」となっていることから主祭神は木花開耶姫命のようです。




社殿裏の北側墳丘斜面には「富士浅間大神」などとと刻まれた小さな石碑が幾つも建立されており、
富士信仰の富士塚となっている

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)

梅岩寺(東京都東村山市)

2020年07月22日 | 神社仏閣


寺 号:梅岩寺 (ばいがんじ)
山 号:芳林山
院 号:-
本 尊:聖観音菩薩坐像
宗 派:曹洞宗
創 建:応永5年(1397)
中 興:慶安4年(1651)開山 阿山呑碩和尚
所在地:東京都東村山市久米川町5丁目24-6
備 考: 境外仏堂 阿弥陀堂(所在地:久米川町5-6)

梅岩寺の創建年代は不確かですが、真言宗白華山観音寺として応永5年(1397)創建と伝えられ、
戦国時代の兵乱で焼失しています。
その後曹洞宗に改め、芳林山梅岩寺と改号。明治時代前後に、大宙山瀧谷寺を合併しています。
当寺にあった正観音像(火災で焼失)は慈覚大師の作で足利尊氏開運の霊佛であったと伝えられ、
また、徳川家より寺領10石を受領していることから、寺紋には足利家の丸に二引紋、徳川家の葵紋
を用いています。
梅岩寺は狭山三十三観音霊場の9番で、境内には10番の瀧谷寺(石碑のみ)があります。

【元弘の乱】や【武蔵野合戦】に於ける合戦場・陣所等について調べていた際、ある古いブログに
  「梅岩寺 応永5(1397)年創建。もとは観音寺といった。武蔵野合戦では足利尊氏が
   宿陣したといい、後に梅岩寺と改称した」
という一文を見つけました。
武蔵野合戦があったのは正平7年/文和元年(1352)のことです。梅岩寺の前身である観音寺が創建
されたと伝えられるは応永5年(1397)とのことですから、この時はまだ観音寺はなかったことに
なります。
ということは後に宿陣した場所に観音寺が創建され、足利尊氏の霊佛を祀ったのかと勝手に考えて
みました。
武蔵野合戦の合戦場となった金井原(小金井市)、人見原(府中市)、入間原(狭山市)、小手指
原(所沢市)などは、この梅岩寺のある近辺ですし、ここ久米川の地は入間川と多摩川の中間の軍
事的な拠点として重視されていましたから、尊氏がここに宿陣したという可能性は考えられます。
上記一文は何を根拠にしているかは不明ですが、梅岩寺へ行けば、これに関する何かが書かれた説
明板等があるかも知れないと希望を抱いて行ったものの残念ながらそうした類いのものは見当たり
ませんでした。
ここに宿陣したかどうかの真偽はとにかく、足利尊氏と関係あるお寺であることは間違いなかった
ようです。




梅岩寺山門 
山門右前に「曹洞宗 梅岩寺」と刻まれた寺号標




山門に架かる山号「芳林山」を揮毫した扁額




山門から本堂方向を


 

山門を入ってすぐの左手にある天然記念物のケヤキ

東京都指定天然記念物
  梅 岩 寺 の ケ ヤ キ
                         所在地 東村山市久米川町5
                         指 定 昭和37年3月21日
 曹洞宗梅岩寺境内の南、塀の内側に列植されているケヤキの大木のうち、表門の脇にある一際
大きい木が都の天然記念物に指定されているケヤキです。高さ27.0m、幹回り7.3mあり、都内で
も有数の巨木です。
 幹は地上約3mのあたりから数本の大枝に分かれ、分岐部にはシュロなどの寄生植物が生息し、
古木に趣を加えています。
『新編武蔵風土記稿巻之一二一』、久米川村梅岩寺の条には「門、芳林山ノ三字ヲ扁ス、周囲二
丈許ノ古槻、或ハ一丈二尺許ノ椵樹、門ニ入テ左右ニアリ」と記されています。当時から有名な
巨木であったことが窺われます。
 平成23年3月 建設
                                東京都教育委員会




東村山市指定・有形民俗文化財
 新・四 国 石 仏
                         所在 東村山市久米川町5丁目
                         指定 昭和55年3月
 江戸期――特に中ごろから霊場巡り、巡礼が庶民の間に盛行し、近くは坂東・秩父に、遠くは
四国八十八ヶ所詣でなど、いわゆるお遍路が行われました。
 四国への霊場巡りは現代とちがって数ヶ月もかかり、経済的にも身体的にもそれはたいへんな
ことで、だれでもが実行できるものではありませんでした。そこで地元に八十八ヶ所の石仏を造
立し、四国まで行かなくとも、同じ功徳が多くの人に得られるようにしました。
 これを新・四国石仏といいますが、この石仏は文政7年(1824)に久米川村の榎本権兵衛らが
建立し奉納したものであり、現今、完全に八十八体として残されているものはこの近郷になく、
信仰史のうえからも価値があります。
                                東村山市教育委員会




参道の両脇に並ぶ八十八ヶ所の石仏




参道の右側に並ぶ石仏



参道左側にある『六地蔵尊』




参道右側に六地蔵尊と相対してある 狭山三十三観音霊場第10番『龍谷寺』 
曹洞宗 本尊:千手観音  お堂はなく山道脇に建つこの石碑のみ 御朱印は梅岩寺で受けられる


 

手水舎の後ろにある天然記念物のカヤ

東村山市指定 天然記念物
 梅 岩 寺 の カ ヤ
                         所在 東村山市久米川町5丁目
                         指定 昭和44年3月1日
 梅岩寺のカヤは都内でも有数のカヤの大木で、目通り幹囲約5メートル、高さ約30メートル。
樹令はおおむね600年です。。
 新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「周囲二丈許の古槻、或は一丈二尺許の椵樹、門に入
て左右にある」とありますが、槻はケヤキ(東京都指定天然記念物)であり、椵はこのカヤを指
すと思われます。
 カヤは一位科に属し、常緑樹で枝も多く、うっそうとしています。 
                                東村山市教育委員会




梅岩寺本堂




本殿向拝部 
大棟の紋は「葵紋」 唐破風鬼には「丸に二引紋」 唐破風拝飾には「葵紋」 軒先瓦には
「丸に二引紋」 と言った具合に他の建造物を含め各所に「葵紋」、「丸に二引紋」が用いられ
ています。




本堂(左)と客殿(右)




『鐘楼』
階段両横にある石燈籠は東京・芝の増上寺(徳川将軍家菩提寺)にあった将軍への献上のもの。
西武鉄道が増上寺の土地の一部を買い取り、そこにあった燈籠や門などを狭山湖の近くに移してお
きましたが、元は将軍の霊廟に献上された石灯篭を各地のお寺さんに寄進したもので、この梅岩寺
には4基ありました。




『十三仏』

参詣日:平成30年(2018)8月30日(木)

円正寺古墳群(埼玉県滑川町)

2020年07月20日 | 古墳


名 称:円正寺古墳群(えんしょうじこふんぐん)
別 名:こまがた1号・2号・3号墳
墳 形:帆立貝式前方後円墳’(1号墳)・円墳(2・3号墳)
規 模:全長30m(1号墳) 
築 造:古墳時代後期(6世紀前半)
出土品:-
指 定:滑川町指定史跡(名称:円正寺古墳群 昭和57年(1982)3月20日指定)
所在地:埼玉県比企郡滑川町土塩・福田

森林公園滑川乗馬学校の近くに円正寺古墳群があると言うので訪ねてみました。
いつもの如く付近までは辿り着けたものの、今ひとつ場所が分らず、今回も付近の方に親切に教え
て頂き無事に現地を行けましたが、結果は・・・




円正寺古墳群はこの森の中にあります。右側に堤が見えますが「阿弥陀沼」です。
この小道を進み、阿弥陀沼の前あたりを左折して少し行くと朱色の鳥居が右手に見えます。




鳥居の左側に説明板が設置されています
説明板の前の庚申塔には「元文」の文字が読み取れます。
元文年間は1736~1740年で今から約280年前、江戸時代中期で8代徳川吉宗の時代です。




「円正寺古墳群」説明板
このままでも読めますので転記は省きます。

鳥居がある(神社)場所にある古墳群の名称が「円正寺」ですのでちょっと奇異に感じるかも知れ
ません。
この円正寺と言うのは寺名ではなく、滑川町大字福田の中の小字名のひとつ、つまり地名なのです。
遠い昔に円正寺という寺があって村名→字名になったのかまでは分りませんが。




社名は分りませんが祠があります。
祠の背後が盛り上がっています。こまがた1号墳の後円部でしょうか?




石が僅かながら顔を出しています
これが説明板の中にある 〈石室に使用されたと思われる凝灰石が露出し〉  の凝灰石か?




歩いてきた森の中の道を戻り、祠の背後に回り込みましたが、訪問した時期も悪かったのですが、
こんな状態でですから墳丘もはっきりしませんし、破壊が進み旧状を留めないという2・3号墳の
痕跡どころではありません。円正寺古墳群に行ったという事実だけで今回も満足しましょう。




おまけ画像です。鳥居の斜め前の路端にあった『如意輪観音』
宝暦十二年十一月二十二日とあります 1762年で10代徳川家治の時代のものですね
足の下に「土塩村」と印刻されています 
ということは、このころ土塩村があった(今は滑川町の大字の一つ)

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)

天神山横穴墓群(埼玉県滑川町)

2020年07月19日 | 古墳


名 称:天神山横穴墓群(てんじんやまよこあなぼぐん)
形 態:横穴墓
時 期:古墳時代(7世紀)
指 定:埼玉県指定史跡(名称:天神山横穴墓群 平成3年(1991)3月15日指定)
所在地:埼玉県比企郡滑川町福田3218‐3ほか

比企地方には複数の横穴墓群があり数か所訪ね歩きましたが、今回は滑川町福田にある「天神山横
穴墓群」を訪ねてみました。詳細は下記に説明板の内容を転記しておきました。

なお、標柱に書かれた郷土かるたの〈て〉の札は「天神山 古代を偲ぶ 横穴群」の〈て〉




標柱の左横から入って少しすると右側に




埼玉県指定史跡   天 神 山 横 穴 墓 群
              指定 平成3年3月15日
              所在 滑川町福田321埼玉県指8・3ほか
              時代 古墳時代(7世紀)
 横穴墓とは古墳時代後期の募制であり、一般に丘陵の斜面に穴を掘り人間を埋葬した施設です。
天神山横穴墓群のある比企丘陵は国指定史跡吉見百穴(吉見町)に代表される横穴墓群が多く分
布しています。天神山横穴墓群が所在するのは砂質泥岩からなる丘陵の南西斜面です。明治時代
のころより、地元においてはその存在を知られていました。かつては5基が開口していたといわ
れますが現在は、1基のみ開口しています。開口している1号横穴墓の玄室の平面形は胴張り方
形で幅・長さとも2.44メートルです。玄室の左側壁に接して掘り残しの棺台が設けられてい
ます。天井部はアーチ状をし、羨道部の中心に排水溝が彫られています。
 平成2年に斜面部一帯を対象とした地下電気探査を実施した結果、新たに20数ヶ所の横穴墓
の所在が確認されました。
  平成30年3月
                                   埼玉県教育委員会
                                   滑川町教育委員会



説明板にある「1号横穴墓実測図」 図面を横に表示するために文字は書き替えました




開口している 「1号横穴墓」




右側に棺台  アーチ状の天井




穴があったら入りたい!




天神山横穴墓群遠望  〇印の所に標柱が建っています

散策日:令和2年(2020)6月16日(火)

志賀観音堂の石仏群(埼玉県嵐山町)

2020年07月18日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:志賀観音堂の石仏群
指 定:嵐山町指定有形文化財 (平成16年(2004)6月20日指定)
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大字志賀 志賀観音堂




志賀観音堂前のこの道路は県道296号(菅谷寄居線)で、かつての『鎌倉街道上道』であり、この
少し南方から旧花園町にかけてが鎌倉街道上道の跡。また、江戸時代の『川越児玉往還』でもあり
ますが、この三道の道筋は同じではなく、たまたまこの辺りで三道が重なったものです。




現地に設置されている『志賀観音堂の石仏群』説明板

川越児玉往還「志賀宿」(志賀村⇒菅谷村・現嵐山町)のひとつ前は「菅谷宿」(菅谷村・現嵐山
町)、ひとつ後は「奈良梨宿」(奈良梨村⇒八和田村⇒小川町)   ※合併前⇒合併後




『太子像』  『志賀観音堂』




地蔵脇の石仏群
右から2番目 慶応2年(1866)建立の『名号搭』


 

「志賀驛」と彫られている安政7年(1860)建立の『庚申塔』  


 

「左鬼神道」と彫られている元治元年(1864)建立の『飽海地蔵菩薩』  


 

寛保元年(1741)建立の『宝塔』           『聖徳皇太子』


 

享保20年(1735)造立の『庚申塔』     元治元年(1864)建立の『大黒天』




元禄6年(1693)建立の『地蔵菩薩』と六地蔵尊(昭和年代以降)




4基の石仏
一番右    貞享5年(1688)造立の『庚申塔』(青面金剛像)
右から2番目 安永7年(1778)建立の『三面馬頭観世音菩薩』

散策日:令和2年(2020)7月4日(土)

横見神社古墳(埼玉県吉見町)

2020年07月17日 | 古墳


名 称:横見神社古墳(よこみじんじゃこふん)
別 名:―
墳 形:円墳
規 模:径15m?
築 造:6世紀
出土品:―
指 定:―
所在地:埼玉県比企郡吉見町御所1

この横見神社の少し先に息障院(そくしょういん)というお寺があり、源頼朝の異母兄弟源範頼の
館跡と言われています。 その館を居城にしたとの言い伝えから、このあたり一帯が「御所」と呼ば
れるようになったとのこと。
また、範頼の子孫が吉見氏と称しました。
この付近には古墳が多くあり、この横見神社古墳は御所古墳群の古墳の1基です。




横見神社 
この左手も稲荷塚と言う古墳です




横見神社拝殿
この拝殿は墳丘を削って建てたようです




墳丘の上に鎮座する横見神社(拝殿と本殿)を右側から




拝殿と本殿を左側から
本殿前の石段の中には石室の石材のようなものもも見えます




本殿の位置からすると墳丘はもう少し本殿の後ろの延びていたのかと考えられます

散策日:平成31年(2019)4月11日(木)