四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

勾当内侍の墓(群馬県太田市)

2018年12月27日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:勾当内侍の墓(こうとうのないしのはか)
所在地:群馬県太田市武蔵島町(旧新田郡尾島町) 花見塚公園内

新田義貞の妻の1人(愛妾)である勾当内侍の墓があるとのことから訪ねてみました。
色々と逸話があるようですが、ここに記すだけの能力がありませんので・・・




花見塚公園入口  私は、ここから入ったのではなく、ここから出てきました(?)




「花見塚公園」説明板
つつじと云えば館林 館林と云えばつつじ ですが、ここから移したとは初めて知りました




旧尾島町といえば「尾島かるた」




花見塚神社




同上 向きを変えて




社殿を正面から
「花見塚神社」扁額の下の左右に由緒書が掲げられています(撮影は失念しました)




社殿の裏手右寄りに石碑と説明板が見えます




上部に「勾當内侍遺墳碑」とあります  碑文はすべて漢字です  昭和3年11月建立とあります
単語をひとつひとつ読んでいけば大まかながらも分りそうですが、その気は起きません。




五輪塔が7基並んでいます




「勾当内侍の墓」説明板




勾当内侍の墓だけでなく新田義貞の首塚もありました
義貞の首塚は、京の三条河原から勾当内侍が首を盗み出して持ち帰り、ここに弔ったからと言います。




右の大きな五輪塔が勾当内侍の墓  左の大きなのが義貞の首塚のようです
勾当内侍の伝承と墓と言われるものはここだけではなく、勾当内侍の墓と称されるものは各地に作られたようですし、義貞の墓
(首塚)と言われるものものも各地にあるようです。
ここにおいてもあくまで「伝えられる」として断定はしていませんが、義貞の出身地ですから。




花見塚公園・勾当内侍の墓への標識    
初めにこの標識を見ていれば草むらの中を歩いて勾当内侍の墓まで行くこともなかったのに(ご想像にお任せします)

散策日:平成30年(2018)10月6日(土)

新田義貞 駒つなぎの松(群馬県太田市)

2018年12月25日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:義貞駒つなぎの松
別 名:-
概 要:新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、生品神社で鎌倉幕府討伐の旗揚げをし、鎌倉に向って進撃したが、国境を流
    れる利根川を渡る前に岸辺で一時休憩したが、その際に義貞の愛馬をつないだのがこの松と言われる。
指 定:-
遺 構:-
所在地:群馬県太田市太田市亀岡町(旧新田郡尾島町)

今回の新田荘の史跡巡りの最初の目的地は、この「義貞駒つなぎの松」でした。特別な理由があったわけではなく、ルート上
で一番近かっただけのことですが。
目標はセブンイレブンで、すんなりと到着。昼食はこのセブンイレブンで購入(どうでもいい話)




高い建物が周りにないだけに目立ちます
義貞当時のものではなく何度か植え替えられたもののようです




駒つなぎの松の標柱と説明板




説明板
合併して太田市になる以前の尾島町時代のものです。若干褪色していますが、まだ判読可能です。




後ろの石碑は何の石碑でしょう? 確認しませんでしたが、駒つなぎの松とは関係ないようです。




方向を変えて セブンイレブンの看板を入れておきました 目標ですから

新田義貞の駒つなぎの松は、埼玉県狭山市の八幡神社にもあります。馬でしか移動手段がなかった時代ですから、いろいろな
武将が松や桜の木に馬を繋いでいたわけで、各所に駒つなぎの木と言われるものがあるようです。言い伝えの域を出ないもの
が大半とは思いますが、遥かな歴史を偲ばせてくれるようです。

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)

新田義貞 冠掛の松(群馬県太田市)

2018年12月22日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:冠掛の松
別 名:-
概 要:新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、生品神社で鎌倉幕府討伐の旗揚げをし、鎌倉に向かう途中の休憩の際に冠を
    掛けた松と言われる。
指 定:-
遺 構:-
所在地:群馬県太田市太田市新田木崎町(旧新田郡新田町) 大通寺境内




冠掛の松があるという大通寺を目指してしていたら、丁度「冠掛の松」の案内標識に出会いましたのですんなりと




路地の奥に楼門(鐘楼門)が見えます




門前左側の石仏の陰に隠れてしまっている石碑
前面には「新田義貞公冠着松」とあります




側面には「新田義貞公舊跡」とあります  ※舊跡(きゅうせき)・・旧跡




楼門(鐘楼門)




楼門に掲げられた扁額  何と読むのでしょう 東 禅林 だけは読めましたが・・・(学のなさを露呈)




仁王像




仁王像




大通寺境内です  大通寺の境内というよりも幼稚園の園庭と言った方がよいかもしれません
境内には「幼稚園が併設されています 本堂の左側にあるのが園舎です
園児のいない日曜日を選んできました  園児のいるときにカメラ片手にうろついていたら誤解されてしまいますから




本堂  再建されてまだ数年のようで新ったらし~い!




山号の「宝広山」と揮毫された扁額




幼稚園の園舎の前の方に「冠掛の松」はあります
こうした樹形の松を「笠松」と呼ぶようです




ちょっとアップで  アングルを変えて撮ればよかったと反省(いつものことですが)




冠掛の松説明板
このままでは読めませんので転記しておきます

  新田の名木
    樹木名  松
    所在地  大通寺境内
    目通り  2.1メートル
元弘3年(1333)新田義貞が、鎌倉幕府討伐のため生品神社で挙兵し、鎌倉へ向かう途中この松に冠をかけて、休憩した
と伝えます。当時の松は枯れてしまい、この松は2代目として赤堀から移植されております。
  新田義貞の歌碑
「立ち帰り またも来て見ん 冠着の 松よ千歳を 我に契らば」
  春秋庵白雄の句碑
「夏にこもる 御僧いくたり 松の風」
      平成17年3月                        新田町観光協会




大通寺境内にあるもう一つの「新田の名木」
この名木の付近にも幼稚園の遊具が並んでいます




説明板

この大通寺にある「冠掛の松」は、新田貞義が鎌倉に向う途中で休憩したときに冠を掛けた松とのことですが、埼玉県所沢市
久米に鎮座する鳩峰神社には、戦勝祈願の際に兜を掛けたといわれる「兜掛けの松」があります(すでに何代目かですが)
こうした言い伝えはあちこちにあるようです。

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

新田義貞 矢止の松(群馬県太田市)

2018年12月19日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:矢止の松
別 名:-
概 要:新田義貞が元弘3年(1333)5月8日、生品神社で鎌倉幕府討伐の旗揚げした際、軍の吉凶を占うために鎌倉に向か
    って鏑矢を放った。その矢がこの松に当たった言われている。
指 定:-
遺 構:-
所在地:群馬県太田市太田市新田反町町(旧新田郡新田町)

近年まで老松があったといい、この松は2代目のようです。生品神社からここまでは南に約2kmありますので、矢が2kmも
飛んだということになりますが、まあ伝説ですから。
なお、生品神社では義貞挙兵の故事にならい、毎年5月8日、氏子によって「鏑矢蔡」が行われているそうです。




矢止の松は畑の中にポツンとあります。この標識がなければ見過ごしてしまったでしょう。




矢止の松の前に建つ大きな『新田義貞公矢止之松之碑』




上と同じような写真ですが




松の脇にある『新田義貞公矢止之松之碑』と石祠  石祠は『矢止ノ稲荷』というようです




 新田義貞公矢止之松之碑
元弘三年五月八日新田義貞公生品祠前ニ義兵ヲ挙フルニ當リ軍ノ吉凶ヲ占ヒ遥ニ鎌倉ニ向ッテ矢ヲ放チ諸将皆之ニ傚フ其矢ノ中
強弓ノモノハ此祠ニ至リテ止リ就中源朝臣義貞ト彫リクル矢菎深ク松樹ニ射込ト云フ依テ矢止メノ松ト稱シ近年迄老松在リ又祠
ハ矢止ノ稲荷ト言ヒ此地ヲ矢止ト稱ス振矢ノ地ハ矢ノ降ルコト雨ノ如キヲ以テ其名有リ今ヤ公ノ戦歿六百年ヲ迎エ其偉勲ヲ追慕
スルノ情又新ナリ茲ニ矢止之松ノ碑ヲ建設シ此遺跡ヲ永遠ニ保存セントスルモノ也
   昭和十三年五月




松は大きさを見ても分るよう、当然、当時のものではなく、後に植え替えられていることがわかります。

松の木を見上げてみました  当時のものでないと分りつつも、どのあたりに矢が当ったのかと空想するのも一つの楽しみと・・・

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

新田義貞挙兵の地・生品神社(群馬県太田市)

2018年12月16日 | 史跡・遺跡・文化財
■ 国指定史跡 新田荘遺跡 生品神社境内 ≪7/11≫


名 称:新田義貞挙兵の地
別 名:新田義貞挙兵伝説地
概 要:新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受け、元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府(北条氏)の討伐のために旗揚げをした
    挙兵の地
指 定:国指定史跡(「新田荘遺跡 生品神社境内」の名称で 平成12年(2000)11月1日指定)
遺 構:神代木・新田義貞床几塚・新田義貞旗揚げ塚(いずれも伝承)
所在地:群馬県太田市新田市野井町(旧新田郡新田町)生品(いくしな)神社境内

生品神社は、昭和9年(1934)、建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡指定されま
したが、平成12年(2000)11月1日、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など広域に存在する複数(11ケ所)を
面的にとらえ、一つの史跡とした「新田荘遺跡」として国指定史跡された中のひとつで、「新田荘遺跡 生品神社境内」とな
りました。

そんな『新田義貞挙兵の地』(新田貞義挙兵伝説地)である生品神社を訪ねてみました。
史跡としての正式名称は、上記のとおり「新田荘遺跡 生品神社境内」ですが、本記事では通称(?)である「新田義貞挙兵
の地」とさせていただきました。




一の鳥居左側に建つ社号標と『史跡 新田義貞挙兵伝説地』石標




『国指定史跡 新田荘遺跡 生品神社境内』説明板
貞義の挙兵について説明がされています




『太平記の里』案内板
新田荘遺跡等のイラスト地図




一の鳥居を抜けたすぐ左側にある『社務所』




普段は無人のようですが、入口に日だけ書かれていない御朱印が書置きされていますので、希望者は料金箱にお金を入れてど
うぞ。




銅像台座(左)と『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑
昭和58年(1983)が、新田義貞像が挙兵650年にあたります。




『新田義貞公挙兵六百五十年記念』碑は、地元群馬県出身で当時の内閣総理大臣中曽根康弘氏の書による




昭和58年(1983)、新田義貞像が挙兵650年を記念して生品神社境内に安置されたましたが、平成24年(2010)2月に銅
像が盗難にあう事件が起き、台座だけが残っています。




台座の裏面
「昭和16年3月10日に職員と児童の勤労作業及び廃品回収作業の収益金をもって新田公の偉烈を偲い建設された銅像を挙
兵650年を記念してこの地に安置する。」とあります。




『神橋(かみばし)』
欄干には、新田氏の家紋である『大中黒・新田一つ引(おおなかぐろ・にったひとつびき)』が入っています。




道を隔てて二の鳥居があります




二の鳥居右手に建つ『史蹟生品神社境内 新田義貞擧兵傳説地』と刻まれた石標




上記石標の後ろには大きな石碑が2基建立されています




『新田公舉兵六百年記念碑』とある石碑




『新田義貞公並一門挙兵之地』とある石碑
やはり地元出身の内閣総理大臣福田赳夫の書によるものです




二の鳥居を抜けた左側にある手水舎 斜め後ろにあるのは『神楽殿』でしょうか




三の鳥居  『生品神社』の神額が架かっています




参道の先に社殿が見えますが、その少し手前に・・・




覆屋で保護された『神代木』です




新田義貞が旗挙げの際に軍旗を掲げたとされるクヌギの木です

  神 代 木
此の木は櫟なり。新田義貞公挙兵の際大中黒の旗を此の樹に掲げ戰捷せんしょうを祈願す。
爾来欝蒼とし繁茂せり。周囲二丈余高さ十丈にたっす。
明治三十七年六月九日白書静穏の時大音響ありて倒れたり。依って其の一部を遺し滋に記念とす。
爾後春秋星霜九十有余年風化に依り腐食朽壊の状なり。依って燻蒸処理をしポリウレタン系合成樹脂加工に依り脆弱、破損部の
強化修復をし最後シリコン剤塗布に依り保存処理した。
同時に覆屋も新築して未来永劫後世に遺すものとす。
 新田義貞公擧兵六百六十六年祭に際して
                               生品神社




神代木




石祠  点在していたものをここ一ヶ所に集めたのでしょう




社殿の左裏に建つ『富士嶽浅間神社大神』と刻まれた石碑と石祠





生品神社 拝殿




扁額『生品神社』




賽銭箱にも『大中黒・新田一つ引』紋が




奉納されている樽酒のその銘は『太平記の里』




拝殿を斜め横から




生品神社本殿   




本殿の背面の彫刻を玉垣の間から




一の鳥居前の駐車場の隅にある『新田義貞床几塚』




『新田義貞床几塚』碑




社務所裏にあるトイレの前に設置されている自動販売機  新田義貞公の銅像のラッピングです




『新田義貞旗揚げ塚』
改修されているようです




『新田義貞旗擧塚阯』碑




駐車場の外側に新たに建立された「新田義貞公銅像』
義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫で彫刻家の脇谷幸正氏が制作し、平成24年(2012)5月8日に除幕式が行われました。
5月8日・・・そう。挙兵の日です
銅像は、鎌倉の稲村ヶ崎にて義貞公が戦勝を祈願して海に太刀を投じると、潮が引いて、鎌倉へと攻め入ることができたとい
う言い伝えに基づいたもののようです。




家紋『大中黒・新田一つ引』が入った立派な囲いの守られています




銅像のみを




向きを変えて




台座裏面に貼り込まれている説明板
台座と碑の間が狭く、正対して撮ることは不可能でしたので横から・・・半分くらいは読めるでしょう




後ろ姿も・・・

ここも1度では用が足らず3度も訪問してしまいました。写真の撮り忘れや、折角撮ったものの天候や日差しの関係で見づらい
ものとか、余分なものが入っていたり等で、同じ日の写真が全部使えるわけではありませんので納得が行かずに3度も。そんな
ことから3回分の写真が混在しています。そこまでやる必要はなく、数枚で済ませればよいと思いながらも・・・

散策日:平成30年(2018)9月19日(水)・23日(日)・10月2日(火)

太田駅前の新田義貞公像(群馬県太田市)

2018年12月13日 | まち歩き


太田駅北口(群馬県太田市東本町)のロータリーに建立されている「新田義貞公像」を見てきました。
銅像は、義貞公だけではなく、義貞公の弟・脇屋義助公の像と一緒です。

昭和63年(1988)に建立され、旧駅前広場にあったものを、太田駅周辺土地区画整備事業に伴い平成21年(2009)
に現在の場所に移転。

銅像の両脇に掲げられている大中黒ののぼり旗は、鎌倉攻めの際に使われ、現在は市内の新田神社に伝わるものを、神社の協力
を得て、『新田義貞顕彰会』が、白地と太く黒い線の比率を忠実に再現し縮小して作製したものと言います。




立っているのは新田義貞公とわかりますが、片膝をついているのは、どこにも書かれていませんが弟の脇屋義助公と云われます。
主人と従者のような像です  兄弟でありながらも、嫡流と庶流ではこのように主従関係になってしまうのがこの時代

背後に「SUBARU」の建物が見えます。「SUBARU」(元・富士重工業)といえば、新田氏と並ぶ太田市の代名詞
私が車に乗り始めた最初の2台はスバル車で、東京・練馬のディラーから購入しました・・・関係ない話か




同上




凛々しい義貞公




義助公は、新田郷脇屋に分家したことから「脇屋」を名乗りました。
義貞公に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、義貞の死後は兄に代わり新田一族を率いて南朝軍の大将の一人として北陸・
四国を転戦しましたが、伊予国府(現在の愛媛県今治市)で病死してしまいました。享年38。




後ろ姿も  




台座の銘板

  新 田 義 貞 公
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の郷士の武将。清和源氏新田氏嫡流、元弘3年(1333)生品神社で挙兵。鎌倉幕府を倒し
建武新政の中核となり、武者所頭人・左近衛中将に任じられる。延元3年(1338)越前藤島の戦いで壮絶な最後を遂げた。
御年38歳。公の御霊は太田市金龍寺・新田神社にまつられている。この像は公の没後650年と太田市制40周年を記念し
て郷士ゆかりの人びとの浄財を得て新田義貞公銅像建設委員会により建立された。
 昭和63年(1988)5月3日
太田駅周辺土地区画整備事業に伴い旧駅前広場より現在の場所へ移転された。
 平成21年(2009)12月18日 太田市

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

二体地蔵塚古墳(群馬県太田市)

2018年12月12日 | 古墳


名 称:二体地蔵塚古墳
別 称:二体地蔵塚
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

太田市世良田町(旧尾島町世良田)の、この辺は以前は「世良田四十八塚」と呼ばれた古墳群が、明治以降に開発され、今は
3基しか残っていないそうです。そのうちの1基が二体地蔵塚古墳と呼ばれるこの古墳とのことです。




二体地蔵塚説明板  だいぶ古いもので読めるかどうか




説明文の部分をアップにしましたが読みにくそうなので転記しておきます

〈冒頭部は省略〉
 元弘3年(1333)北条高時は西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、弟泰家を大将として、10万の兵を京都へ派遣すること
になった。その戦費を調達する必要から、関東地方の国々から臨時の税金を取り立てた。特に、世良田には裕福な者が多いと
して、出雲介親連と黒沼彦四郎入道の二人が使者になって、多勢の家来を引き連れて乗り込み、5日のうちに6万貫の税金を
差し出せと強く要求した。これを聞いた新田義貞は法に過ぎた仕打ちであると怒り、直ちに家来に命じて出雲介を捕え、黒沼
彦四郎の首をはねてさらし首にした。即ちここがその遺跡である。
 この塚について次のような伝説がある。昔、この塚の辺で人の争う異様な声が聞こえてくるので、村人は恐れをなし、石地
蔵を建立して供養したところ、その後、怪しい声は止んだという。もとは一体であったが、後に普門寺にあった一体の地蔵を
移し二体とした。その後、二体地蔵と呼ぶようになったのである。
  昭和54年3月

新田義貞が鎌倉幕府討伐の旗揚げをするに至ったにはこうしたことも要因のひとつであったのかもしれません。




墳丘部に建てられている「黒沼彦四郎入道梟首遺跡」の標柱




二体の石地蔵




二体の石地蔵  どちらが普門寺から移されたものでしょうか




近年建立された五輪塔




五輪塔建立記 寄贈者は黒沼彦四郎入道の末裔の方でしょうか?

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

シンポジウム「野本将軍塚古墳の時代」

2018年12月09日 | 講演会・講座


シンポジウム「野本将軍塚古墳の時代」

 日 時:平成30年12月9日(日)10:00~16:40
 会 場:東松山市民文化センター 大ホール
 共 催:東松山市 東松山教育委員会 早稲田大学東アジア都城・シルクロード考古学研究所

 基調講演 関  義 則 氏(埼玉県立歴史と民族の博物館)
      「埼玉県の前期古墳について」
     
 発表① 城 倉 正 祥 氏(早稲田大学)
       「野本将軍塚古墳の墳丘とその年代」     
 発表② 石 橋 宏 氏(東北大学)
      「東日本における礫構造を持つ竪穴系埋葬施設」     
 発表③ 福 田 聖 氏・青 木 弘 氏(埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
       「比企の前方後方墳と集落出土土器」
 発表④ 加 藤 一 郎 氏(宮内庁)
      「比企と関東の前期古墳鏡」    
 発表⑤ 若 狭 徹 氏(明治大学)
      「古墳時代前期の地域開発と古墳の被葬者像」 
 発表⑥ 伝 田 郁 夫 氏(早稲田大学大学院)
      「東京都・神奈川県の前期古墳」   
 発表⑦ 滝 沢 誠 氏(筑波大学)
       「茨城県の前期古墳」
     
 パネルディスカッション
     コーディネーター 城 倉 正 祥 氏(早稲田大学)・若 狭 徹 氏(明治大学)
     パネラー 上記発表者他

を聴講してきました。
終了時間を30分以上もオーバーするほど講師の先生方は熱が入っていました。

古墳については、前方後円墳だとか円墳だといった形くらいしか知らない私にはあまりにも専門的過ぎて難しい話でした(恥)




会場の東松山市民文化センター




本シンポジウムのチラシと新聞記事   ※新聞記事より大分前に本シンポジウムの開催は把握しておりましたが・・・ 




野本将軍塚古墳を西方から




野本将軍塚古墳を野本市民活動センター駐車場から




埼玉県指定史跡野本将軍塚古墳石碑




野本将軍塚古墳後円墳部 墳丘には(藤原)利仁神社が祀られています




後円墳部北側フェンス際に設置の説明板と本シンポジウムのポスター




約40ページにわたる素晴らしい資料です

聴講日:平成30年(2018)12月9日(日)

講演会「上杉謙信の雪中越山」

2018年12月06日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館 
平成30年度企画展関連講演会 上杉謙信の雪中越山
 講師:簗 瀬 大 輔 氏(群馬県立女子大学准教授)
 日時:平成30年12月6日(木)13:45~15:30
 会場:国立女性教育会館 講堂

を聴講してきました。




小雨模様の会場(女性教育会館 講堂)前  木々の葉は散り尽くしていました




池の周囲の紅葉もこの天候では色が冴えません




今回の資料と企画展チラシ




雪中を越山する上杉謙信の写真でもあればよいのですが、そんな上手い具合のものはありませんので、川中島合戦において武
田信玄の本陣に切り込む謙信の姿でご勘弁を・・・

聴講日:平成30年(2018)12月6日(木)

岩殿観音の大イチョウと六面幢

2018年12月03日 | 史跡・遺跡・文化財


坂東十番霊場岩殿山正法寺(埼玉県東松山市)観音堂境内の大イチョウ(市指定天然記念物)の葉が散って絨毯のようになって
いるのを期待して行ってみましたが、ちょっと早かったようです。あと1週間から10日くらい先になりそうです。






























もうひとつの目的は「正法寺の六面幢」(県指定文化財)を見てくることでした。








六面のうちの一面が剥がれ落ちていました。

散策日:平成30年(2018)12月1日(土)