昔 むかし と~い昔 ここは格好の泳ぎ場でした
然し、沢山の時間が川の形や流れを変えました 深さも変えました それは自然がそうさせたの
みならず人の手も加わってのことです
昔は何もなかった右岸は数年前に親水公園として整備されました
季節こそ違いますが 今は 子らに代わって鴨が泳いでいました
この日は釣り糸を垂れる人がいなかったため鴨たちが寄って来たのでしょう
日差しの角度と撮った位置の関係でしょうか 緑色の頭が紫に写っています
散策日:令和3年(2021)1月29日(金)
池 上 神 社 上里町忍保225 池上神社は、和同年間(708-715)の創立で、延喜式内社武蔵国四十四座の一つで、延喜式内神名 帳には、今白青坂稲実池上神社と記されている。 忍保庄の総社と伝えられ、祭神は伊吹戸主命と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神 事を司っていた。 正慶年中(1332-1334)には新田義貞、大永年中(1521-1528)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神 殿の修復が行われたと言われている。 また、天正十年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群加権前橋市)城主の滝川一益と小田原城 主北条氏直との神流川合戦の際に社殿を焼失し、その後、川窪信俊により再建されたと伝えられ、現 在の社殿は、明治住十二年に改築されたものである。 なお、当神社には明治初期に始まった「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座がある。 昭和61年3月 埼玉県 上里町 |
今城青坂稲実池上神社 御由緒 上里町忍保225 □ 縁起 当社は烏川を背にして祀られており、『延喜式』神名帳に見える賀美郡四社の内の「今城青坂稲実 池上神社」の比定社の一つとされる。社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で、渡来系氏族が当 地に高度な技術を導入し、「稲魂」を祀ったものであろう。 祭神は伊吹戸主命・豊受姫命の二柱である。社伝によれば、和銅四年(711)に勧請され、忍保庄 の総社として崇敬された。元弘年中(1331-34)に新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、城の艮 (東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとした。以後、代々の城主の崇敬を受 けたが、天正十年(1582)神流川合戦の兵火により社殿を焼失した。天正十九年(1591)川窪与左 衛門信俊が社殿を改築し、神田を寄進した。元禄七年(1694)の大洪水に社殿が流失したが、本殿 だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興した。しかし、元禄十一 年(1698)に信俊の孫武田越前守信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどった。その後、 元文三年(1738)に地頭から鳥居の再建と供米の奉納があり、更に嘉永年間(1848-54)には地頭 から社殿の修繕と神田の寄進があり、徐々に社運を盛り返した。 明治五年に旧称に復して村社となり、同二十二年に県社に昇格した。 □御祭神 (省略) □御祭日 (省略) |
熊 野 神 社 御 由 緒 上里町堤1204 □御縁起(歴史) 堤は、江戸時代の初期までに開発された村で、正保二年(1645)の「国絵図」(本庄市中原歌子 家蔵)によれば、当時の村髙は三七九石、家数は三六軒であった。 当社の主祭神は『明細帳』には、竒御木野命(神祖熊野大神櫛御気野命)・竒稲田姫命・豊受姫命 の三柱が記されている。 『風土記稿』堤村の項に「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て〔延喜式〕神名帳に載る所の今木 青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳 に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。『風土記稿』に記されて いる通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりが あることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地 内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、 当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。 また、江戸時代に別当であった東昌院は、『児玉郡誌』によれば、本山派の修験で、幸手不動院の 配下として当地方の修験道宇の年中行事職を務めていたという。この東昌院は、神仏分離によって廃 寺となり、当社から東へ約二キロメートル離れた石蔵寺の脇に、その跡地がある。 □御祭神 ・竒御木野命・竒稲田姫命・豊受姫命 □御祭日 (省略) |