四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

大蔵館(埼玉県嵐山町)

2019年02月27日 | 100名城以外の城館跡


名 称:大蔵館(おおくらやかた)
別 名:-
形 態:館
時 期:平安時代末期
築城主:源義賢
城 主:源義賢
遺 構:土塁・空堀
指 定:県指定史跡(昭和9年(1934)3月31日指定)
現 状:大蔵神社・住宅地
所在地:埼玉県比企郡嵐山町大蔵




笛吹峠方向と大蔵館跡方向との交差点にある標識




交差点から県道172号線大蔵館跡方向に向かい、少しした場所に遺る館跡東面の土塁




土塁を南方から北方に




「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板




「実測図」をアップで




土塁を北方から南方(県道方向)に




土塁の外側には空堀様の痕跡が見られますが、中に入れませんので遠目から




土塁先端部に建立されている「馬頭観音菩薩」碑  
中心に南無馬頭観音菩薩とあり、右側に、久寿2年8月16日  大蔵館 源氏一族一門 とあります。
久寿2年(1155)8月16日は、源義賢が大蔵館で甥の悪源太義平に討たれた日
左側には、平氏一族一門 とあります。




こんもりとした森が大蔵神社で、同所付近が大蔵館の中核(主郭)と考えられると説明板にはあります。
U字溝コンクリートが置かれている傍に、以前は「大蔵館跡」と横書きされた大きな看板がありましたが撤去されたようです。




「史蹟 大蔵舘趾 埼玉縣」と刻まれた石標と「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板




「埼玉県指定史跡 大蔵館跡」説明板




大蔵神社(大蔵館跡)南側を南西方向から




大蔵神社参道入り口
右側に「邨社 大蔵神社」の社号標  ※邨社(そんしゃ)=村社




大蔵神社参道
両脇は土塁  土塁上左右にそれぞれ説明板があります  左側のは旧来からのもの  右側のものは最近建てられたもの




「大蔵神社」神額




旧来からの「大蔵館跡」説明板




最近建立された発掘調査の結果が記されている「埼玉県指定記念物 史跡 大蔵館跡」説明板




境内より西南の土塁を




西側土塁




西側土塁を北方から南方に




西側土塁の外側には堀跡があります




境内の状況




手水舎




境内社  左:富士浅間  右:山王大権現




伝城山稲荷  右側のシャッターの降りている社は八坂神社(神輿殿か)




大蔵神社拝殿




伝城山稲荷参道




大蔵神社境内東側  土塁なのか土盛りなのか




大蔵稲荷神社鳥居    石階段の先に見えるのが伝城山稲荷神社




「正一位 大蔵稲荷大明神」神額  城山稲荷から大蔵稲荷に改称したのか?




鳥居の左前の石祠




館跡北辺の道路  中間部あたりから東方に




館跡北西隅に遺る土塁   東方から西方に




館跡北西隅に遺る土塁   西方から東方に




同上 
ガードレールのある所は用水路ですが、堀跡かどうか分りません。左端の道を進むと都幾川・槻川に通じます。更に川向こう
には畠山重忠の館であった菅谷館跡があります。 




大蔵神社の森を北西方向から   神社裏の方は住宅が建ち並んでいて写真が撮れませんので




大蔵神社から300m程の離れたところに源義賢の墓とされる五輪塔があります




「御廟堂 帯刀先生源義賢公」の石標と鳥居  鳥居には「義賢公墓所」の扁額




義賢の墓とされる五輪塔この覆屋の中に保存されています




「源義賢墓」説明板  

火輪部と水輪部のみ残存とあります




源義賢の墓   
扉の格子越しのため上手くは撮れません

説明板には、供養塔とも考えられるとあります。また、帯刀先生源義賢の墓とされるものは、埼玉県児玉郡上里町帯刀に所在
する福昌寺にもあります。
同所の説明板によれば、久寿2年8月16日、甥の悪源太義平と大蔵館で合戦になり、戦いに敗れ上野国に逃れようとこの地
まで来た義賢は、8月28日、ついに敵方に追いつかれ討ち取られた。それを哀れと思った村人はこの地に埋葬し墓を建て、
上長村を帯刀村と改称した。と記されています。ここにいう上野国は、義賢の以前の館があった多胡を指すのでしょう。
これによれば、義賢の死は、伝えられている8月16日の12日後ということになってしまいます。




そしてもう一つの説明板

大蔵館跡を初めて訪ねてから8年半を経過しています。以来、何度か前を通ったものの駐車場がないことから素通り。
今回は、源義賢の墓所に前にある駐車場に止めさせていただき、徒歩にて広範囲に散策してきました。

初散策:平成22年(2010) 4月30日(金)
再散策:平成30年(2018)10月24日(水)

ほるたま展「土の中から顔だした」

2019年02月19日 | 企画展・見学会


公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団主催による巡回展
ほるたま展 「土の中から顔たした」

が、

2月16日(土)~2月19日(火)の4日間にわたり
ピオニウォーク東松山 1Fピオニコート (東松山市あずま町)

で開催されましたので見学に行ってきました。

この巡回展は、毎年テーマを決めて、県内の百貨店、ショッピングセンター、県立さきたま史跡の博物館など4か所程度を巡回
しているようで、今年度は第6部として、このピオニウォーク東松山での巡回展が追加(勝手な推理です)になったようです。
ピオニウォーク東松山は、単に大型ショッピングモールというだけでなく、「反町遺跡」の上に建っておりますので、考古とは
切っても切れない縁がある場所です。

※ほるたま=埼玉を掘る




左:図録  展示品の半数以上がが収録されています  右:チラシ




馬形埴輪 北島遺跡(熊谷市)




土偶 小林八束1遺跡(久喜市)




人面付深鉢形土器 赤城遺跡(鴻巣市)




左:土偶が削り撮られた土器 原遺跡(伊奈町)  右:深鉢(人体文土器) 北塚屋遺跡(寄居町)
                        前:土器展開図




盾持人埴輪 塚の越遺跡(坂戸市)




注口土器 長竹遺跡(加須市)

数多くの展示品の中から数点を紹介しましたが、ここ「反町遺跡」の出土品の展示はありませんでした。
しかし、ほんの数点ですが、出土品が常設展示されている場所があります。同じ建物内ですが、巡回展示場(ピオ二コート)
とは反対の場所の通路沿いにあります。場所の説明は難しいので、興味ある方は探してみてください。




反町遺跡出土品常設展示コーナー




反町遺跡の説明文




反町遺跡航空写真  反町遺跡とある部分が現在のピオニウォーク東松山になっています




ピオニウォーク東松山を北西から




ピオニウォーク東松山の南側  この下に反町遺跡が眠っています

見学日:平成31年(2019)2月18日(月)

記念講演会「さきたま あれから これから」

2019年02月18日 | 講演会・講座


埼玉古墳群史跡指定80周年・稲荷山古墳発掘調査50周年・鉄剣銘文発見40周年
記念講演会「さきたま あれから これから」

記念講演1  稲荷山古墳鉄剣銘文発見と日本の象嵌銘刀剣
             西山 要一 氏(奈良大学名誉教授)

記念講演2  埼玉古墳群とヤマト政権―稲荷山古墳鉄剣銘文が語るもの
             白石 太一郎 氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)

座 談 会  稲荷山古墳発掘調査50年と鉄剣銘文発見40年
         白石 太一郎 氏  西山 要一 氏
         高橋 一夫 氏(元埼玉県教育委員会職員) 今泉 泰之 氏(元埼玉県教育委員会職員)
         きき手 村田 章人 氏(県立さきたま史跡の博物館長)

日時:平成31年2月17日(日) 12;:00開場  開演13:00~16:30
会場:埼玉会館大ホール(さいたま市浦和区)
主催:埼玉県教育委員会

を聴講してきました。


細かなことは書けませんが、稲荷山古墳の発掘から錆びだらけの鉄剣等がが出土されたのは昭和43年(1968)のことです。
この時は、まだ、鉄剣の象嵌銘文は発見されていませんでした。
その後10年を経た昭和53年(1978)、稲荷山古墳出土遺物の保存処理を元興寺文化財研究所に依頼。鉄剣の保存処理を担
当したのが上記西山要一氏で、同氏が象嵌銘文を発見しました。
また、座談会出席の今泉泰之氏は稲荷山古墳の発掘に携わったひとりであり発掘に際しての、高橋一夫氏は鉄剣を元興寺文化財
研究所に依頼した状況や、象嵌銘文が発見になって帰ってきたときの状況時の秘話を語って下されました。こうした辛亥鉄拳に
直接かかわった方々のお話は大変興味あるとともに勉強になりました。




会場の埼玉会館




開場(12:00)前からすでに数十人の方が並んでいました(衝立の向こう)
講演中の写真はありません(撮影・録音等禁止)




資料集  沢山の写真や図を含めて本文48ページにわたる立派なものです




辛亥鉄剣が発見された稲荷山古墳(丸墓山古墳丘平部から撮影)

聴講日:平成31年(2019)2月17日(日)

小川町「青石の里 講演会・シンポジウム」板碑研究の軌跡と展望

2019年02月16日 | 講演会・講座


国指定史跡「下里・青山板碑製作遺跡」普及啓発事業
小川町「青石の里 講演会・シンポジウム」
   板碑研究の軌跡と展望

日時: 平成31年2月16日(土) 午前10時~午後4時
会場: 小川町総合福祉センター(パトリアおがわ)
主催: 小川町・小川町教育委員会

開催趣旨
 小川町に所在する「下里・青山板碑製作遺跡」のうち3地区が国の史跡に指定され、4年が経過しました。この間、小川町教育
委員会では未指定地の調査を継続するとともに、石材の二次加工場の検出を目指して確認調査等を実施してきました。
 各地で板碑をテーマにした講演会・研究会等も開催され、自治体史編さん事業や発掘調査によって新たな成果も蓄積されてき
ています。
 また、板碑研究の画期的な調査と評価される東国板碑調査団の成果のうち、小川町を含む『武蔵国板碑集録二(旧比企郡)』
が刊行されてから50年の節目を迎えました。
 こうした板碑の調査研究の軌跡と現在の研究状況を踏まえ、新たな成果等を報告するとともに、板碑研究の進展及び史跡の保
存活用など、今後を展望します。

報告1 「小川町の板碑を読み直す」        
                      野口 達郎 氏(熊谷市史特別調査員)
報告2 「毛呂山町崇徳寺跡の墓域と出土板碑~中世墓の空間構成~」
                      佐藤 春生 氏(毛呂山町教育委員会)
報告3 「小川町大沢谷遺跡の調査について」 
                      吉田 義和 氏(小川町教育委員会)
講 演 「板碑研究の軌跡と展望」
                      時枝 務 氏 (立正大学教授)
討 論 司会 磯野 治司 氏(北本市教育委員会)・ 浅野 晴樹 氏(國學院大學兼任講師)

を聴講してきました。

当初の予定では基調講演は千々和 到 氏(國學院大學名誉教授)でしたが、都合により時枝 務 氏に変更になりました。

また、討論の時間帯において本間岳史氏(元埼玉県立自然の博物館長)から、長瀞の板石塔婆石材採掘遺跡で発見した矢穴に
ついての説明がありましたが、これは、私も参加させていただいた2015年11月15日(日)に開催された地学ハイキン
グの際に発見した矢穴の話であったように思います。




会場の小川町総合福祉センター(パトリアおがわ)




小川町総合福祉センター(パトリアおがわ)駐車場  中央の山が「県指定史跡腰越城跡」




受付風景




資料集と国指定史跡下里・青山板碑製作遺跡パンフレット
※ 講演会・シンポジウム会場内の写真はありません




報告2の「毛呂山町の墓域と出土板碑~中世墓の空間構成~」での講演内容にもあった「崇徳寺跡」の写真
(2016年2月5日散策の際に撮影)




同じく「報告2の「毛呂山町の墓域と出土板碑~中世墓の空間構成~」での講演内容にもあった「延慶の板碑」の写真
(撮影日同上)




報告3 では新しく発見になった「小川町大沢谷遺跡」についての報告でしたが、ここについては未だ行っておりませんので、
国指定史跡になっている3地区のうちの「割谷」地区の写真を載せておきます。
(2015年10月24日散策の際に撮影)




同上

聴講日:平成31年(2019)2月16日(土)


上野国新田郡家跡(群馬県太田市)

2019年02月05日 | 官衙・国分寺・廃寺跡
■ 国指定史跡 上野国新田郡家跡



名 称:上野国新田郡家跡(こうずけのくににったぐうけあと)
概 要:古代新田郡の郡家(ぐうけ=郡役所)の中枢施設(郡庁)及び郡の米を蓄えた倉庫(正倉)群の遺跡
年 代:7世紀~9世紀
指 定:国指定史跡(平成20年〔2008〕 7月8日 「上野国新田郡庁跡」の名称で指定
          平成27年〔2015〕10月7日 追加指定及び「上野国新田郡家跡」に名称変更)
所在地:群馬県太田市天良町・新田小金井町

発掘調査後、保存のため埋め戻され、現在はただの野っ原にしか見えない国指定史跡新田郡家跡を訪ねてみました。




現地説明板 写真では読み辛いようですので転記しておきます。なお、追加指定及び名称変更される前の内容ですから現状とは
若干の差異があるようです。

国指定史跡 上野国新田郡庁跡
   所 在 地 太田市天良町7-1ほか
   指定年月日 平成20年(2008)7月28日

 上野国新田郡庁跡は、古代新田郡における郡衙(郡家)の中枢施設です。この施設は、以前から礎石建物跡や炭化米の出土が
知られていた天良七堂遺跡内に存在します。上野国内における郡衙の具体的な施設を記した『上野国交替実録帳』によれば、新
田郡庁は東西南北に「長屋」を配置することが記されており、それに合致する長大な掘立柱建物跡が発掘調査により確認されま
した。郡庁は全国的にも例のない規模で、一辺約90m四方(通常の大きさは50m四方)に及び、四辺には長さ約50mの長大
な建物が配置されていました。
 新田郡庁の時期は、出土遺物により7世紀後半から9世紀前半にかけてのものと考えられます。また、郡庁はこれまでの調査
で、ほぼ同じ場所で造り替えられ、五段階の変遷をたどることがわかってきました。
 新田郡庁跡の周辺ですが、南側には古代の東山道駅路が通過し、東側には寺井廃寺、西側には瓦葺の基壇建物跡が確認された
入谷遺跡や堀に囲まれた区画の中に大型の掘立柱建物跡が確認された笠松遺跡といった古代の重要遺跡が存在しています。

  正殿:郡庁のほぼ中央で確認され、掘立柱建物から礎石建物へと建替えられていたことがわかりました。最盛期には正殿の
     前に前殿が建てられたこともわかりました。

  正倉(米などを保管する倉庫)群:発掘調査によって『上野国交替実録帳』の記載のとおり、群庁の東・西・北側から検出
    されています。また、郡庁と正倉を取り囲むように台形状の外郭溝(東西約400m、南北約300m)が確認されて
    います。

  平成26年(2014)3月20日
                      太田市教育委員会




説明板の中の「上野国新田郡庁跡」航空写真
正倉跡が発見になる前の写真のようで、北側、西側の正倉跡が入っていません。




同じく説明板の中の「上野国新田郡庁跡」推定復元図




郡庁跡  草が伸びていて柱跡を示す赤色のドラム缶がほとんど隠れてしまっています




郡庁跡内にある東長屋跡




郡庁跡内にある西長屋跡




右側の大きな木の周囲が正倉跡




正倉跡  説明板が置かれています




「正倉」についての解説




航空写真




こちらは郡庁跡に比べて柱跡(ドラム缶)が視認しやすいです




同上




丸太もしくは疑似丸太ならすぐに柱跡と理解できますが、赤く塗られたドラム缶を、史跡と知らずに歩いている方や子供が見
たら、「何でこんな所にドラム缶が並べてあるの」と不思議に思う方もいるかと思います。まあ、それなりの事情があっての
こととは思いますが。

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)

矢太神水源(群馬県太田市)

2019年02月01日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:矢太神水源(やだいじんすいげん)
指 定:国指定史跡(新田荘遺跡 矢太神水源 平成12年〔2000〕11月1日指定)
所在地:群馬県太田市新田大根町(旧新田郡新田町)

国指定史跡 新田田荘遺跡は、「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成されていますが、重殿水
源を訪ねた後、もうひとつの水源
である「矢太神水源」を訪ねてみました。

■ 新田荘遺跡(矢太神水源)
 太田市の北西部は大間々扇状地に立地していることから、「扇端部」の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ
ます。矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っています。
 北側に湧水点があり、この南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)があります。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができます。この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な
紅藻類が生息しています。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の
姿になったと考えられています。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲
ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができます。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚
・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれています。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に
石田川の水が利用されたことが分かります。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたこと
を証明する貴重な史跡です。                              
                               《太田市ホームページ 太田市の文化財 より引用》




「国指定史跡 新田荘遺跡 矢太神水源」説明板
説明文の内容は、冒頭に引用した太田市のホームページにあるものとほぼ同じで、最初の”太田市の北西部は”の部分”が、新田
町は”となっていることと、ホームページの文面にはない”町指定天然記念物”の文言があります。この説明板は、合併により新
設の太田市(平成17年)になる以前の新田郡新田町のころに設置されたものですから、太田市のホームページの文面と若干の相
違があるのは当然でしょう。




新田町時代の名残である「新田町指定天然記念物 矢太神沼湧水地」と刻まれた石標




北側から水源を見ています  東側(写真左側)が「矢太神ホタルの里公園」




同上




同上




北西から




南西から標柱・説明板のある北側方向を




南西から




南東から




南側部分




南側から北方を




南側部分




水源から水路となって流れていきます




矢太神ホタルの里公園内東側にある「千五郎池」




「千五郎池」説明板




千五郎池①




千五郎池②




「矢太神ホタルの里公園」園内図

天気が良かったせいで、水面は鏡面のように周りの景色を映し、とても素晴らしかったです。

散策日:平成30年(2018)10月2日(火)