四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

曲田城(埼玉県深谷市)

2017年12月31日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ⑦
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
今回も、守りのため深谷城周囲に築いた支城のひとつを取り上げました。



埼玉県深谷市谷之にある曲田城跡(まがったじょうあと)を訪ねてみました。

谷之城ともいわれています。岡谷家譜によりますと、深谷上杉の家臣、皿沼城主・岡谷加賀守香丹は皿沼城を子の清英にゆず
ってこの曲田城に隠居し、城内に僧自明和尚を招いて皎心寺を開きました。寺は曹洞宗で岡谷山と号し、本尊は釈迦牟尼仏で
す。香丹は元亀元年(1571)、自明和尚は天文4年(1535)に亡くなりました。天正18年(1590)小田原落城の時、老臣小
内外記之助が、この曲田城及び皎心寺を守っていました。寺の東に槇の木がわずかに城の名残りを留めています。
                                     (深谷上杉顕彰会の現地説明板より引用)




皎心寺山門と寺号標




境内




曲田城跡説明板  本尊の箇所が退色して読めませんでしたが、なんとか「釈迦牟尼仏」と解読(間違いないと思います)
そもそもこの皎心寺は曹洞宗の寺院で、曹洞宗の本尊は「釈迦牟尼仏」(一般的には)ですから強引に読んじゃいましたが。




本堂  置き石のある庭を間違っても歩かないように。足跡がついてしまいますので。




山号・寺号の扁額 山号の「岡谷山」は岡谷加賀守香丹からであることは誰にでもわかります。




鐘楼




皎心寺の北方にある堀跡 現在は用水路として使われているようです




上の写真の堀の部分




堀は民家の脇にもつながっています




皎心寺北方の風景




おまけの写真です  鳥の名は分りませんが

散策日:平成29年(2017)12月19日(火)他1日

皿沼城(埼玉県深谷市)

2017年12月30日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ⑥
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
守りのため深谷城周囲に築いた支城のひとつです。



埼玉県深谷市上敷免字皿沼にある皿沼城跡を訪ねてみました。

深谷上杉氏の家臣岡谷香丹は、近くを鎌倉街道が通っているため、利根川を渡って攻めてくる古河公方の軍に備えるため、深谷
城の北辺の守りとして、延徳3年(1491)築城しました。伏見神社を城内にまつり、諏訪神社を城の鎮守としましたが、のち城
を長子清英にゆずり曲田城に隠居しました。清英は文武両道にひいでた武将で、深谷上杉三宿老の一人として活躍、上杉謙信か
らその武勇をたたえられています。天正18年(1590)深谷城と共にこの城も亡びました。城のあった地点は高台でしたが、煉
瓦の原料として堀り取られ、水田になり、現在「ジョウ」の呼び名が残っています。(深谷上杉顕彰会の現地説明板より引用)




皿沼城跡は、唐沢川に架かる3号橋の東側の土手に説明板があるのでそこを目指せばよいとのことでありました。
そして、これが3号橋から見た説明板ですが、左に石碑は唐沢放水路記念碑で、城跡とは関係ありません。
写真で見るといとも簡単に来たようにですが、ここに至るまでにはいつものようにあちらこちらと無駄に・・・




唐沢川




冒頭で引用させていただいた現地説明板




右側の丁度日陰になっているところに堀跡が走っています。




3号橋道路を東に進み、民家の脇を南北に延びる堀跡を道路から  奥でL字形に曲がり上の写真の日陰になっている堀跡とつながっています。




堀跡の所から土手にある説明板方向に




更に東に進み土手方向を  左側(南側)の側溝も堀跡のようです  右側(北側)にあるのが諏訪神社




城の鎮守とした諏訪神社




社殿

散策日:平成29年(2017)12月19日(火)他1日

高台院-深谷城主上杉憲賢室高泰姫墓-(埼玉県深谷市)

2017年12月29日 | 神社仏閣
深谷上杉氏 ⑤
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
今回も数か所ある深谷上杉氏の菩提寺・墓所のうちのひとつ高台院です。



深谷市役所のすぐ北側(深谷市田谷308)に曹洞宗の寺院で「高台院」と言う寺院があります。
同市人見にある昌福寺の末寺で、深谷山永明寺と号します。当寺は上杉氏の家人、高橋永明の創建と伝えられ、深谷城主3代目
上杉憲賢の室高泰姫が中興開基した寺で、高泰姫の墓、上杉憲賢の墓と伝えられるものが境内にあります。




高台院門前の「深谷城主上杉憲賢公・室 高泰姫 墓所 高臺院」と刻まれた石標




高台院説明板




高台院の文化財説明板




山門 山号「深谷山」の扁額




本堂




院号「高臺院」(高台院)の扁額  ガラス戸には上杉氏の家紋「竹に雀」




鐘楼




深谷上杉氏墓所 左の背の高い宝篋印塔が高泰姫の墓 写真の奥に見えるのが永明稲荷と土塁
ここ高台院のある場所は深谷城の西郭でした




中央の宝篋印塔が高泰姫の墓(深谷市指定文化財・昭和33年(1958)11月3日指定)
その右にある宝篋印塔が上杉憲賢の墓と伝えられる




土塁  深谷城の遺構としては数少ない中のひとつ(一か所)です。

この高台院・高泰姫墓については、訪問した直後の本年5月に一度投稿していますが、若干の編集をしての再投稿です。

散策日:平成29年(2017)5月27日(土)


昌福寺-深谷上杉氏菩提寺-(埼玉県深谷市)

2017年12月28日 | 神社仏閣
深谷上杉氏 ④
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
数か所ある深谷上杉氏の菩提寺・墓所のひとつ昌福寺です。



埼玉県深谷市人見にある「昌福寺」を訪ねてみました。
昌福寺は、深谷上杉氏第5代で深谷城初代城主である上杉房憲(ふさのり)が、古河公方に備えて深谷城を築いて移ったとき、
父祖の冥福を祈るために仙元山のふもとに創建した曹洞宗の寺院で山号を「人見山」と号します。
この昌福寺を訪ねたのは、上杉房憲・憲盛(のりもり)と累代の墓があるとのことからでした。




仙元山のふもとに建つ昌福寺  このすぐ東側(右側)に、運動グラウンド、テニスコート、遊園地などもある「深谷ビッグ
タートル」という総合体育館があり、何度が来ていましたが、この寺が深谷上杉氏の菩提寺とは知りもしませんでした。




入り口前から




境内に入ると右手に鐘楼があります




お約束の六地蔵と鐘楼




鐘楼の横は庭園です




山門(仁王門) 両脇には仁王像がありますが今回は仁王像のアップ写真はありません(日差しの加減ではっきりと撮れず)




山門の貫に五七の桐紋が彫刻されています (この写真は門の裏側ですが表側も同様)




本堂




燈籠にも五七の桐紋が




「昌福禅寺」と揮毫された扁額




大棟にも五七桐紋
やはり深谷上杉氏の菩提寺である国済寺の燈籠や大棟は、上杉氏の家紋である「竹に雀」紋が使われていましたが、ここでは
「五七桐紋」が使われています。五七の桐紋は曹洞宗(大本山:総持寺・永平寺)の宗紋(総持寺)です。
それとともに、この五七桐紋は深谷上杉氏の同族である上杉謙信が足利義輝から下賜された家紋でもあります。また、後世に
なりますが深谷上杉氏もこのこの五七の桐紋を使っています。この昌福寺創建のころ、五七の桐紋が深谷上杉氏の家紋のひと
つであったかどうか分りませんが、当初はこの昌福寺も上杉氏の家紋である五七の桐紋が使われているのかと思い込んでしま
ったのです。しかし、よくよく考えたら上述したように宗紋〔総持寺〕(寺紋)であるところの五七の桐紋が使われていると
考えるのが妥当なように思えてきました。ただそうした場合、もうひとつつの宗紋である久我龍胆〔永平寺〕も併せて使うだ
ろうとか、国済寺や高台院では家紋である竹に雀紋を寺紋にしているのに、当寺では使われていないのは何故といった疑問も
残りますが。
そんなことはお寺さんに聞けばすぐにわかることですし、上杉氏の関係者ではない私が悩むことでもないのでしょうが。




昌芳閣




天童山の典座和尚と若き日の道元禅師の像  下の銘板に二人の問答が記されています  道元禅師は曹洞宗の開祖です




昌福寺誌  光沢面のために色々映り込んでしまい読めません




本堂の西側(左側)奥にある深谷城主上杉房憲公並累代之墓




石段のある立派な墓所です




上杉房憲公並累代の墓とあるだけで、説明板等がありませんので、どれが房憲の墓なのか分りませんし、他の誰の墓なのかも
わかりません。
唯一手掛かりとなるのは、【名称:上杉房憲・憲盛墓】として2基が深谷市指定文化財史跡(昭和33年(1958)11月3日指定)
となっており、何れも宝篋印塔で、房憲墓全高90.5センチメートル 憲盛墓132.6センチメートルとありますので、高さを測
れば2人の墓についてはどれだか分るかもしれませんが、縁者でも何でもない無関係の者にはそんなことはできない相談です。




裏山の仙元山の一部は公園になっていますので裏山に上って墓所全体を撮ってみました。




このように東屋もありちょっとした散策もできそうです。




本堂を裏山から




昌福寺庭園
本堂裏の庭園は、【昌福寺庭園】の名称で深谷市指定名勝(昭和37年(1962)11月3日指定)の室町中期の禅宗庭園です。




本堂の日陰となっていましたのでうまく撮れませんでした(腕のなさを天候のせいにするのはいつものことですが)

散策日:平成29年(2017)12月11日(月)

深谷城(埼玉県深谷市)

2017年12月27日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ③
時系列通りには行かないと思いますが、深谷上杉氏に関連する史跡等をを数回にかけて紹介中!
第3弾は深谷上杉氏の本拠深谷城です。



埼玉県深谷市本住町にある深谷城跡を訪ねてきました。

室町時代、山内上杉憲顕が新田氏に備えて六男の上杉憲英に、現在の深谷市国済寺に庁鼻和城を築かせ深谷上杉氏(庁鼻和上杉氏)
の居城とし、憲英、憲光、憲信の3代が居住しました。室町時代中期、房憲のときの康正2年(1456)古河公方の侵攻に備えて唐沢
川や福川に囲まれた低湿地に築いた平城が深谷城です。
深谷城には、この房憲と憲清、憲賢、憲盛、氏憲の5代が居住したことから、庁鼻和深谷上杉氏と併せて「深谷上杉氏」と総称され
ています。

深谷上杉氏は小田原北条氏と敵対していましたが、天正元年(1573)上杉憲盛のときに北条氏に従属しました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐 の折、このときの城主氏憲は小田原城に詰めていました。深谷城は重臣の秋元長朝、杉
田因幡が守備していましたが、深谷城や城下を戦禍から守るため開城して降伏、所領没収となりました。小田原北条氏は滅び、上杉
氏憲は小久保と姓を改め、信濃国にて隠居しました。
徳川家康の関東入府後は、徳川一族や譜代家臣の居城となりましたが寛永11年(1634)に廃城なりました。

現在、城跡の一部は深谷城址公園として生まれ変わり、市民文化会館等の施設を有する憩いの公園となっています。
公園周囲には、近世城郭の塀や櫓を模した建造物が築かれ城の雰囲気を出しています(深谷城の復元建物ではありませんが)

なお、深谷城跡は埼玉県指定旧跡となっています。




実際の深谷城がどんなものであったかは分りませんが、中世の城ですので、こうした塀はなかったと思います。まあ、公園ですから。




模擬であっても城の雰囲気が出ていますので、これはこれでよいでしょう。




深谷ライオンズクラブが建立した「深谷上杉氏家紋碑」 俗にいう「竹に雀」紋です。深谷上杉氏について書かれています。




深谷城跡についての説明板




深谷城址公園についての説明板




城址公園内の一部




右の建物が市民文化会館




深谷城の唯一の遺構とも言える深谷城外濠跡(深谷市指定史跡・昭和33年(1958)11月3日指定)




深谷上杉顕彰会による「富士浅間神社」についての説明板 




富士浅間神社




社殿




外濠跡①




外濠跡②

この深谷城跡には、某会合参加のためコミュニティセンターに来たのも含めて数回訪ねています。
また、このブログで平成22年(2010)に1度投稿しています。その時と同様な内容ですが7年ぶりにあらためての投稿です。

散策日:平成29年(2017)12月14日(木)

伊勢方城(埼玉県深谷市)

2017年12月26日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ②
必ずしも時系列通りにはいきませんが、深谷上杉氏に関連する場所の第2弾。
深谷上杉氏が庁鼻和城から深谷城に移る間の繋ぎの城(仮城)と言われる伊勢方城を。



埼玉県深谷市伊勢方地内に遺る伊勢方城跡を訪ねてきました。
山内上杉家の上杉憲顕の六男である上杉憲英が武蔵国幡羅郡庁鼻和(こばなわ)に構えた館である庁鼻和上杉を名乗り3代続き
ましたが、5代目(4代目とも言われる)にあたる憲英の曾孫の上杉房憲は深谷城を築いて移り、深谷上杉と称しました。
この深谷城を築くまでの仮城として築いたのがこの伊勢方城であることから、伊勢方仮城・上杉仮城とも言われます。
康正2年(1456)深谷城が完成し伊勢方城は廃されました。伊勢方の八幡神社や公会堂がある付近一帯が仮城が築かれていた場
所とされ、遺構として残るのは用水路となった民家の西側にある水堀跡くらいのようです。
なお、深谷城に移ったあと庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺として国済寺が建立されました。
また、深谷城完成以後は、深谷四宿老の矢井氏がこの城に居住したといい、名前の伊勢方もこの矢井伊勢守重家から取ったもの
であるという話しもあるようです。




目的地伊勢方城跡を目指す目標にしたのがこの伊勢方の八幡神社




八幡神社社殿  大きな神社ではありませんが伊勢方村の鎮守でした。




鳥居の傍らに設置されている八幡神社の説明板
仮城についての説明もなされています。深谷上杉顕彰会の皆様には感謝感謝です。




八幡神社の北側(右側)の道を西方向に進むと少ししたところで民家が切れて耕地となります。




西進してきた道を振り返ってみました。




用水路 これも水堀跡かどうかは不明ですが、民家西側の用水路(水堀跡)とつながっています。




角に石造物が建っていますが何でしょうか?




民家の西側を流れる用水路(水堀跡)  くねくねと曲がっているのがよくわかります。




上の用水路を反対方向から見てみました。




集落(民家)を囲みこむように曲がっていきます。




曲がったあたりには土塁らしきものが見えます。水堀に沿って土塁が築かれていたのかもしれません。

もう少し遠方から集落を撮って来ればよかった後悔しています。

散策日:平成29年(2017)12月14日(木)他1日

庁鼻和城(埼玉県深谷市)

2017年12月25日 | 100名城以外の城館跡
深谷上杉氏 ①
必ずしも時系列通りにはいきませんが、深谷上杉氏に関連する場所を数回にわたって投稿予定です。
まずは深谷上杉氏の始まりの場所庁鼻和城を。



埼玉県深谷市国済寺にある庁鼻和城跡を訪ねてきました。現在、この地には庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)の菩提寺で臨済宗
南禅寺派の寺院である常興山国済寺が建立されており、境内には上杉憲英墓・上杉氏累代墓があります。
庁鼻和城跡は、埼玉県県選定重要遺跡(昭和44年(1969)10月1日選定)並びに、深谷市指定文化財(昭和34年(1959)11
月3日指定)となっています

庁鼻和城は、築城年代は定かではないが室町時代に、山内上杉憲顕が新田氏に備えて、憲顕の六男上杉憲英に武蔵国幡羅郡
庁鼻和(こばなわ)に築かせ城(館)で、庁鼻和上杉氏(深谷上杉氏)居城となり憲光、憲信と3代続きましたが、房憲の時
の康正2年(1456)深谷城に居城を移したことで廃城となりました。
深谷城には、房憲・憲清・憲賢・憲盛・氏憲の5代が居住したことから「深谷上杉氏」と呼ばれますが、庁鼻和上杉氏3代も
併せて「深谷上杉氏」と総称されます。

国済寺は、深谷上杉氏の祖である奥州管領上杉憲英が開基となり、峻翁令山禅師を招請して開山とし、上杉憲英の館であった
庁鼻和城南側に康応2年(1390)創建したといいます。




国道17号線沿いにある 上杉憲英墓・上杉氏累代墓 の標識  右の門が国済寺の黒門




国済寺表入り口 左の標柱には「史蹟 上杉憲英公墓」 右の標柱には「常興山國済禅寺」とあります。




国済寺黒門(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)




黒門の「興禅窟」とある扁額




「庁鼻和上杉氏※里之碑」とある石碑 上杉氏の事について細々と書かれているようですが全部読むのは難しいです。
※の部分は「裡」の変形文字のような感じがしますが、はっきりはしません?




国済寺鎮守社




国済寺三門(深谷市指定文化財・昭和46年(1971)11月3日指定)




三門を斜め後ろから




鐘楼




園通客




深谷新八景 庁鼻和城址と国済寺 の標識と 深谷上杉顕彰会による国済寺の説明板




国済寺の説明板
この説明板では「憲長」を3代目と数えていますが他の資料では「憲信」を3代目とするものもあります。(憲長と憲信は兄弟)
憲長を3代目に数えると、憲信が4代となり、4代とされる深谷初代城主の房憲は5代ということなります。




本堂




本堂 若干角度を変えて




本堂大棟にある上杉氏の家紋「竹に雀」




本堂に掲げられた扁額「禅林法窟」と出入り口の都にある家紋 
禅林法窟 とは?  左の紋は何という紋でしょうか? 後で調べてみましょう(ただし、忘れるおそれ多大)




本堂の左脇を抜けて上杉氏の墓所へ その途中にある六地蔵と大棟の鬼瓦




大きですね。  下から見上げた時はこんなに大きいものとは思いもしません。




本堂裏手西側にある上杉憲英墓と上杉氏累代の墓




燈籠の家紋は当然ながら「竹に雀」




上杉憲英墓 1基(埼玉県指定旧跡・昭和10年(1935)3月31日指定)
上杉氏歴代墓14基(深谷市指定文化財・昭和37年(1962)11月3日指定)




正面中央が上杉憲英墓 手前両脇が累代の葉




こちらは家型の墓が多いです。




こちらは五輪塔・宝篋印塔が主体ですが、両脇何れも誰の墓かはわかりません。




深谷上杉氏祖の上杉憲英の墓は別格扱いのようです。




宝篋印塔の上杉憲英墓
法名は国済寺殿大宗常興大居士 寺号の国済寺 山号の常興山 はこの法名からきていますが、国済寺は憲英が生前に開基した
ということですから寺号・山号を法名にしたと考えられます。




本堂裏の土塁? 土塁とみるのはちょっと無理があるかもしれません。庭園の築山?(私見です)





同上




郭跡でしょうかかなりの広さがあります。




館跡北側の土塁  土塁というよりも館跡自体が周囲よりも一段高くなっているようです。




国済寺前から国道17号線を西方に400mほど行ったところにある 庁鼻和城跡北西隅外廓土塁
土塁と言っても遺構は全くありませんが深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっています。




この通り国道に面しておりますので車では見落として通り過ぎてしまいますので、必死に歩いて探しました。




ここにも深谷上杉顕彰会の説明板が建っています。遺構がのこってなくともこうして説明板を設置してくれるお陰で史跡歩きが
できます。何も残っていないところに何もなければ史跡ということさえ分りませんから。




庁鼻和城跡物見櫓跡
やはり深谷市指定文化財(昭和48年(1973)11月3日指定)となっていますが、何もありません。




物見櫓跡と言うからには多少なりとも土塁様のものが残っているのかと付近を捜し歩きました。
こんなところと言っては失礼かもしれませんが、こんな場所に標柱と説明版が建っていました。結婚式場の建物の横です。




またまた深谷上杉顕彰会の説明板です。感謝感謝の連続です。

庁鼻和城跡(国済寺)は平成22年(2010)9月以来2度目の散策となりました。7年経ったからどこか変わったということでは
ありませんが、前回は散策範囲に入っていなかったところも加えて散策してみました。

散策日:平成29年(2017)12月11日(月)・14日(木)

幡羅太郎館(埼玉県深谷市)

2017年12月24日 | 100名城以外の城館跡


深谷市原郷地内にある「幡羅太郎館跡」(はたらたろうやかたあと・別名:幡羅氏館)を訪ねてみました。
幡羅太郎館は、平安期のものと推測され、関東の名族で忍城主であった成田氏の祖助高の父、幡羅太郎道宗の居館跡と伝わるようです。
当館跡は、昭和33年(1958)11月3日「伝幡羅太郎館跡」の名称で深谷市指定史跡となっています。現在も個人宅になっており中を見る
ことはできませんが、館跡西側に土塁・空堀を見ることができます。指定史跡ではありますが、私有地であり現住ということを考慮して
か標柱や説明版といった類いのものは設置されておりません。
上の写真は館跡北西隅から撮ったもので、右側の雑木林が館跡です。




北側から雑木林の中を目を凝らして覗いてみますと土塁らしきものがどうにか見えますが、写真では上手く収まりません。




フェンス角から南方に




フェンス越しに見てみます。灌木の先にどうにか土塁が見えます。




フェンスの途切れたところが屋敷入口のようです。




屋敷入口前から土塁の端が見えます。




その更に南側は生垣で道路と雑木林(館跡)を遮断しています。




土塁




南側にある東西に延びる空堀と土塁がどうにか見えますが、灌木がこれ以上大きくなったら見えなくなりそうです。




南方から北方に




南西から館跡を・・・

竹や木が繁茂していて中々土塁・空堀が見えません。目を凝らせば木や竹の隙間からどうにか見えますが、写真では無理なようです。

散策日:平成29年(2017)12月14日(木)他1日

講演会「中世武士の本拠と本領」

2017年12月23日 | 講演会・講座


埼玉県立嵐山史跡の博物館では、現在、企画展「武蔵武士とその本拠」を開催中ですが、同館主催による企画展関連講演会
中世武士の本拠と本領 -武蔵熊谷氏を中心にー
講師:高橋 修 氏 (茨城大学教授)
日時:12月23日(土・祝) 13:45~15:30
会場:国立女性教育会館 講堂
を受講してきました。




企画展のチラシと講演会資料




講演会を終えて、日が落ち始めた中を帰路に就く受講者の皆さん

来年1月には、シンポジウム「武蔵武士とその本拠」の開催が予定されていますので一応申し込みはしてあるのですが・・・

受講日:平成29年2017)12月23日(土・祝)

岡部氏館(埼玉県深谷市)

2017年12月22日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県深谷市普済寺地内(旧大里郡岡部町普済寺)にある岡部氏館(岡部六弥太忠澄館)跡を訪ねてみました。
岡部氏館は、発掘調査等から、一辺南北240メートル、東西270メートルの約6町歩の広大な範囲が館跡と推定しているようです。
館跡は普済寺の周辺一帯が館跡とされますが、遺構はほとんど宅地化と耕地化で湮滅していて、物見台跡とされる高台や、土塁
らしき遺構が残るだけです。
岡部六弥太忠澄については、同人の墓にある説明板に述べられていますので省略します。
写真は、館跡の中に建てられている普済寺です。




山門の寺号「普済寺」の扁額
寺号の普済寺は六弥太の法名「普済寺殿道海大禅定門 (ふさいじでんだいぜんじょうもん)」から。また、山号は「玉龍院」と
号し、「玉龍院殿妙和大禅定尼(ぎょくりゅういんでんみょうわぜんじょうに」からによるようです。




本堂  中央には「 丸に跳ね十字」紋がありますが岡部氏の家紋でしょう。




境内にある平忠度の歌碑
「ゆふくれて 木のしたかげをやどとせば 花やこよひの主ならまし  忠度」
一ノ谷合戦で岡部六弥太忠澄は平家方の大将平忠度(ただのり)を討ちましたが、忠度の供養塔を自分の領地の一番良い場所に建
てて供養したようです。
供養塔が建てられた場所にその後「清心寺」が創建されました。本稿末尾に忠度の供養塔の写真を載せておきます。




普済寺の北東にある物見台跡  稲荷神社が鎮座しています。




この物見台跡ようなものは、古墳(菅原稲荷塚古墳・堂山古墳)のようですが、古墳を物見台として機能させていたのかもしれ
ません。




物見台跡から普済寺北方に位置する菅原神社を望みます。




菅原神社一の鳥居




朱色の二の鳥居




社殿




菅原神社の右隣にある厳島神社




神社の北東隅を囲む水堀 鴨が泳いでいました




普済寺の西方100mくらいの所にある「岡部六弥太忠澄の墓」 忠澄だけでなく一族の墓所のようです。




説明板  忠澄について記されています。




鉄の扉で施錠されていますので中には入れず、全体を一度に見ることができません。




中央の五輪塔(削られて変形している)が忠澄の墓。 向って右側が父行忠の墓 左側が夫人玉の井の墓と言われているようです。




右横から覗いてみました。手前が父行忠の墓 二番目が忠澄の墓 三番目が夫人玉の井の墓 (説明するまでもないですが)




右側の五輪塔が三番目が夫人玉の井の墓




「岡部六弥太忠澄の墓」のある場所から東方に向けて撮ってみました。このあたり一帯が館跡のようです。




「岡部六弥太忠澄の墓」西側にある民家脇の土塁 
写真左下にあるのは土塁の上に祀られていた祠などの残骸のようです。




さらに北隣の家の道路沿いにも土盛がありますが、これは土塁とは違うような気がします。




忠澄が建てた平忠度の供養塔がある清心寺(深谷市萱場)




平忠度の供養塔(右側の五輪塔)  門前の標柱では墓となっていますが供養塔です。

散策日:平成29年(2017)12月14日(木) ※実際には都合4回訪ねています。