四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

滝山城(東京都八王子市)

2018年06月01日 | 続日本100名城
■ 国指定史跡 滝山城跡



城 名:滝山城(たきやまじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:大永元年(1521)
築城主:大石定重
城 主:北条氏
遺 構:本丸・中の丸・二の丸・堀・土塁・虎口・馬出など
指 定:国指定史跡(昭和26年〈1951〉6月9日指定)
    続日本100名城123(平成29年〈2017〉4月6日選定)
現 状:都立滝山公園
所在地:東京都八王子市高月町

戦国の名城「滝山城跡」を訪ねて来ました。最初に訪ねたのは続日本の100名城に選定される遥か前の2009年12月の
ことでした。
このころは駐車場がなく、某施設の駐車場止めさせていただき徒歩で2㎞前後(測ったわけではありませんので、もっとあっ
たか、それとも少なかったかはわかりません)の道を行って攻城し、また2㎞の道を帰って来るという苦労をしました。
その後、駐車場が整備されたことを知り、再攻城をと思っているうちに続日本100名城に選定されました。どうせならスタ
ンプラリーが始まってからにしようと延び延びになっていましたが、漸く再攻城となりました、




これだけの大規模な縄張りを持つ滝山城ですから隅から隅まで散策したら何時間を要すことでしょう。主要部を歩いただけで
も優に2時間を超えてしましました。




滝山城跡入口  ここが大手口です




滝山城跡入口看板脇に設置されている「都立滝山公園」案内板  案内パンフレットも備えられており登城に先立ち資料が手
に入るのは大変親切なことです。
ここに限らず散策路の所々にも案内板が設置されパンフレットがおかれています。




天野坂




天野坂に沿う堀跡




小宮曲輪




「都立滝山公園」標柱と案内板




「コの字形土橋」を撮ったつもりなのですが・・・




三の丸を囲む空堀




南馬出(記憶不確かですが)




大馬出




行き止まりの曲輪




信濃屋敷跡




刑部屋敷跡




刑部屋敷跡前から見た大池




千畳敷①




千畳敷②




弁天池跡方向を見ていますがはっきりとは分りません




角馬出  千畳敷側から撮ってみましたが草叢ではっきりしませんね 角馬出は写真右側です




二の丸脇の空堀(記憶不確かですが)




中の丸①




中の丸②
この建物は元「国民宿舎滝山荘」の一部で、現在は地域の活動や、イベント時の滝山城跡情報発信の場として活用されており、
続日本100名城のスタンプが置かれています。




中の丸③




中の丸④
公衆トイレが設置されています  案内板もあります





中の丸と本丸を結ぶ「木橋」
中の丸に敵が押し寄せてきたら本丸へ半分程引き込むことができたと思われる・・・引き橋(曳橋)




木橋(引き橋)の本丸側は桝形虎口となっている




木橋を渡ってすぐの所にある陶製の説明板  日差しの加減で見づらいです




木橋を大堀切から見上げています①




木橋を大堀切から見上げています②




本丸南側桝形虎口




本丸①




本丸②  「史蹟 滝山城跡碑」と「瀧山城本丸址の碑」




「史蹟 滝山城跡碑」




「瀧山城本丸址の碑」碑文
此の城は関東の名城といわれ 天文五年(一五三六)北条氏康、同二十一年(一五五二)上杉謙信 永禄十二年(一五六九)武田
信玄の諸豪からの猛攻を受けている大永元年(一五二一)始めて 石定重之を築き 定久之を受け ついで北条氏照の居城となった 
尚 この城の城下町は八王子市の発祥地である。




本丸跡に鎮座する霞神社




井戸

「滝山城」は、大永元年(西暦1521年)に武蔵・守護代の大石定重が築城し、後に大石氏の養子になった小田原北条氏・四代
氏政の弟の氏照が拡張・改修したとされてきました。しかし、近年の研究により、北条氏照は油井領を支配していた大石綱周
の養子になり、「浄福寺(油井城)」(八王子市下恩方町)に居住し、その後、永禄10年(1567年)までに滝山城を築城して
移転したと考えられてきています。
(特定非営利活動法人 滝山城郭群・自然と歴史を守る会発行パンフレット『戦国の名城(国指定史跡)滝山城跡』より抜粋)

再攻城日:平成30年(2018)5月20日(日)

忍城(埼玉県行田市)

2018年04月14日 | 続日本100名城
続日本100名城 118 忍城



城 名:忍城(おしじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:15世紀後半(文明11年〔1479〕以前)
築城主:成田氏
城 主:成田氏、松平(東条)氏、松平(大河内)氏、阿部氏、松平(奥平)氏
遺 構:土塁、沼の一部(水城公園)
指 定:県指定旧跡
施 設:行田市郷土博物館
所在地:埼玉県行田市本丸(旧・行田市)

何度となく訪ねている忍城ですが、続100名城のスタンプラリーが始まりましたのであらためていってきました。














攻城日:平成30年(2018)4月14日(土)

杉山城・菅谷館(埼玉県嵐山町)

2018年04月06日 | 続日本100名城
■ 国指定史跡 比企城館跡群 杉山城跡・菅谷館跡

続日本100名城 119 杉山城



城 名:杉山城(すぎやまじょう)
別 名:―
形 態:平山城
時 期:不明
築城主:不明
城 主:山内上杉氏
遺 構:郭、堀、土塁、虎口など
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
施 設:―
所在地:埼玉県比企郡嵐山町杉山















杉山城のスタンプ設置場所である嵐山町役場 
 



続日本100名城 120 菅谷館



城 名:菅谷館(すがややかた)
別 名:菅谷城(すがやじょう)
形 態:平城(菅谷館) 平山城(菅谷城)
時 期:不明(平安時代末期か)
築城主:不明
城 主:畠山氏
遺 構:郭、堀、土塁、門跡など
指 定:国指定史跡(比企城館跡群)
施 設:埼玉県立嵐山史跡の博物館
所在地:埼玉県比企郡嵐山町菅谷











丁寧に押印しようと緊張のあまり真ん中でなかったり曲がったりと最初から不調です。
この後、何か所のスタンプを押印できることやら、日本100名城の方でさえ3分の1にも至っていない状況ですから。
日付は失敗しないように後で入れましょう。

続日本100名城が選定されたのが1年前の4月6日(城の日)。そして本日4月6日から続日本100名城スタンプラリーが
スタートしました。
記念すべきスタンプラリーの開始ということで、本来なら未攻城である続日本100名城を訪ねればよいのでしょうが、諸般の
事情からそう簡単な話ではありませんので、複数回訪れている杉山城と菅谷館からスタートしました。
複数回訪れているからとスタンプを押しに行くだけでは意味がありませんので、形だけでも攻城ということで何枚かの写真を撮
ってきました。

攻城日:平成30年(2018)4月6日(金) 『城の日』

忍城址を歩く(埼玉県行田市)

2016年12月03日 | 続日本100名城


忍城址

忍城は室町時代の文明年間の初期(15世紀後半)に成田氏により築城され、戦国時代の終わりに秀吉の関東平定に際して石田三成らにより水攻めをうけ開城しました。
家康の関東入国で家康の4男松平忠吉が入城。やがて「知恵伊豆」と称される松平伊豆守信綱が城主となります。島原の乱鎮圧の功績により信綱が川越城に移り、
老中阿部豊後守忠秋が入城。文政6年(1823)桑名城より(奥平)松平氏が移り、明治を迎えました。明治6年忍城は取り壊されましたが、
現在阿部氏が築いた三階櫓を模して櫓が再建され周囲は忍城址公園として整備されています。
(行田市立博物館パンフレットから「忍城址」の項を引用転載)

忍城跡前は何度も通っているので、つい最近、散策したような感じでいましたが、実に4年半ぶりの散策でした。
平日でしたので「忍城おもてなし甲冑隊」の皆さんにお会いすることはできませんでしたが・・・

敢えて説明するまでもないようですので、今回は写真のみを載せておきます。








一見 昔からの門のようですが近世のもの






天守にも見える模擬御三階櫓 内部は博物館




































本丸土塁



本投稿で、御三階櫓の写真を多用しましたが、模擬(復興)とはいえ御三階櫓は行田市のシンボルのひとつ。そんなことからマンホールのデザインにも使われています。
実は私、マンホールの写真を撮るのも一つの楽しみにしております(頃合いを見計らってそれらの写真を投稿しよう考えていて、それまではそんなマニアックな楽しみは
隠しておこうとしたのですが)
今回の散策でもマンホールを探しながらの散策で、御三階櫓のマンホールを見つけました。
右の新デザインのものは最近のものでまだ綺麗でした。旧デザインとの違いは2ヵ所ほどありますね。

散策日:2016(平成28)年12月2日(金) 続日本100名城選定前

笠間城跡(茨城県笠間市)

2015年03月20日 | 続日本100名城


笠間城(別名:桂城)  山城   茨城県指定史跡   所在地:茨城県笠間市笠間

〔歴史〕
 鎌倉時代、この地域は真言宗の正福寺と徳蔵寺の勢力争いが盛んであり、両寺院の僧兵たちが争っていた。劣勢であった正福寺勢が下野守護宇都宮頼綱に
援軍を求めたところ、頼綱は甥の笠間時朝(塩谷時朝)を派兵した。時朝は元久2年(1205年)、徳蔵寺の僧兵と戦うための拠点として佐白山山麓に麓城を築
城し、徳蔵寺を討った。ところが麓城の規模があまりにも大きかったため、味方のはずの正福寺の僧兵までも時朝に敵対した。時朝は結局正福寺と徳蔵寺を
滅ぼした後、承久元年(1219年、堅固な城を佐白頂上に築城した。これが笠間城の起こりである。その後笠間氏は18代にわたって笠間を治め、南北朝時代の
5代笠間泰朝の時には、南朝に属して勤王の兵を挙げ、北朝の佐竹義春の攻撃を受けたが、籠城戦の末これを撃退している。

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際、18代笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい後北条氏に組したため、同戦役後宇都宮氏に攻められ滅亡した。その後、
一時宇都宮氏が支配した後蒲生郷成が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。

 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏が入った。そ
の後、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通入城以後廃藩まで牧野氏8代が居城した。






「千人溜り跡」  駐車場になっています。 これより上は通行止めですので、この先は徒歩で↑印のところから。




大手門跡




大手門口は桝形?  舗装されていますが土橋と空堀のようです?




大手門跡石垣




写真に入っていませんが、写真左端の少し左側に石段の道がありますのでそこを登って←↑方向に




苔むした石段の登城路




更に角度を変えて石段が数か所続きます




玄関門付近の虎口の石垣




本丸跡 ① 正面(南側)の大きな土塁上に八幡台櫓が築かれていた




本丸跡 ②




本丸跡 ③




本丸東側にある標柱と縄張り図の看板




縄張り図部分をアップしてみましたが・・・




本丸東側部分




笠間城跡石碑




本丸東側の土塁




八幡台櫓跡石碑




八幡台櫓跡のある土塁




本丸西端の宍ヶ崎櫓跡




本丸と天守曲輪との間にある横堀




東日本大震災により、天守曲輪の石垣や石段が崩壊し、天守曲輪跡へは立入り禁止で、ロープが張られて「立ち入り禁止」の札が下がっている筈。
しかし、なぜか訪問時は「頭上注意」の立札だけでしたが、危険なことに変わりはないので「笠間城天守跡」石碑だけを記念に・・・




「笠間城天主跡」石碑



井戸跡  屋根は少し離れたところに倒れていました




山を下りて「真浄寺」に向かい、移築され仏堂として使われている「八幡台櫓」を見に




八幡台櫓

笠間城は関東では珍しい石垣の城。天守の石垣や石段が東日本大震災により崩れてしまい天守曲輪跡は立ち入り禁止になっているとの情報は掴んでいました。果たして
修復されるのか、修復されるとしてもいつになるか分らない状態で待っていても仕方ありません。笠間城の一番の見どころである天守台の石垣を見られないのは残念でし
たが、逆井城跡を再興上したその足で笠間城跡を訪ねてみました。石倉は怖くて行けませんでしたし、市内の民家に移築されている城門も見ずに帰ってきましたが、
笠間城跡へ行ってきたという事実だけで満足しましょう。

攻城日:2015年(平成27年)3月17日(火) 続日本100名城選定前          

唐沢山城跡(栃木県佐野市)

2015年03月12日 | 続日本100名城


唐沢山城 別名:根古屋城・栃本城・牛ヶ城  国指定史跡(平成26年3月18日指定)  所在:栃木県佐野市富士町

唐沢山城は関東七名城の一つに数えられ、関東では珍しい石垣がある中世の城跡として有名です。
城は、平将門の乱の鎮圧に活躍した藤原秀郷が天慶3(940)年に築城したとされます。その後、しばらく廃城となっていた
唐沢山城を、秀郷の子孫とされる佐野氏が再興・改修を行い代々佐野氏の居城とされてきました。 
戦国時代に入っても佐野氏の統治は変わりませんでしたが、上杉謙信の攻撃を受けたり、後北条氏の傘下に組み入れらりたりと巨大勢力の狭間で翻弄しました。
天正18(1590)年の小田原の役で、佐野氏の血をひく房綱が秀吉勢力として戦った戦功で、再び唐沢山の地を安堵、房綱の跡は
秀吉家臣の富田将監の子・信種が佐野信吉として継ぎ、激動の歴史を見た唐沢山に平穏な時代が訪れましたが、平穏は長くは続かず
秀吉の死後、徳川政権に入ると信吉は、佐野城へ移転、唐沢山城は廃城となり、暫くして、理由は諸説あるようですが佐野氏も改易処分を受けてしまいました。
現在、唐沢城跡本丸跡には唐沢山神社の本殿が建立されています。そんな唐沢山城跡を攻めてきました。




唐沢山城は、標高241m・比高200mの唐沢山の山頂に本丸が築かれた山城です。




城門跡前に建立されている「国指定史跡唐沢山城跡」石碑  国指定を受けた後に新しく建立したようです。




駐車場・レストハウス・トイレもあり、山城跡でも麓から攻城しないで済みますので楽です。




唐沢山城の沿革が書かれています




喰い違い小口 (桝形)



天狗岩




天狗岩




天狗岩からの眺望  江戸(東京)方面も見えるとか




唐沢山城祉案内図




「大炊井」  築城の際、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとのことである。
深さ9m、直径8mあり、今日まで水が枯れたことはない。




「神橋」  旧名は曳橋 四つ目の堀に架けられていた元は曳橋




四つ目堀




帯郭跡




「三の丸跡」  本城では大きな曲輪で、賓客の応接間があったとされる




武者詰跡




二の丸小口




「二の丸跡」  奥にあるのは神楽殿




二の丸跡から本丸跡(唐沢山神社本殿)へ




「本丸跡」  右の社が本殿




「引局跡」(南局跡)  かつては奥女中の詰所であったとも




唐沢山神社




唐沢山神社由緒板




本丸南斜面の高石垣と表御殿跡 ①




本丸南斜面の高石垣と表御殿跡 ②




高石垣




三つ目堀




「さくらの馬場跡」  昔、武士が馬を訓練した場所




「南城跡」 ①  手前は社務所




「南城跡」 ②




南城跡について




南城跡からの眺望 ①




南城跡からの眺望 ②  東京スカイツリーや東京タワーも見えるとのことでしたが残念ながら




南城跡の石垣  




南城跡の石垣  一つ目堀  物見櫓跡




車井戸




「長門丸跡」(お花畑跡)  弓道場として使われている?




「金の丸跡」   今は、金の丸ロッジのようだが使われていない様子




御姫御殿跡  唐沢青年の家があったようだが今は更地に




堀切




北城跡?




大手門跡




鏡石

攻城日:2015年(平成27年)3月10日(火) 続日本100名城選定前          

杉山城跡(埼玉県嵐山町)

2015年03月03日 | 続日本100名城


「杉山城跡」(所在地:埼玉県嵐山町杉山) を攻城してきました

『中世城郭の教科書』と評される【杉山城】は、市野川左岸の鎌倉街道を見下ろす比高40m程の丘陵に築かれた山城です。築城主は不明で、地元豪族の金子主水の築城
によるとの伝承はあるものの、文献資料にはあらわれていないようです。従来、城の縄張りの状態から後北条氏の時代に造築されたものではないかとの見方が有力でしたが、
発掘調査にもとづく考古学的な知見からは山内上杉氏時代の城である可能性が非常に強くなってきたようです。
これは、今までの年代より50年くらい遡るため、歴史が全然変わってしまい、常識が一気に覆ることになるので、縄張論と考古学との間で大論争となり、これを「杉山城問題」と言っているようです。

2008(平成20)年3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)
とともに杉山城が追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。




杉山城跡は関越道嵐山小川ICの南方にあります





攻城は積善寺裏手の大手口から行うのが一般的なようです   縄張り図の右下




杉山城跡遠景




県道296号線から攻めた場合は「杉山城跡」等と書かれた道標のある交差点を矢印方向に




「杉山城跡大手入口」の看板の手前を左折




車でしたら積善寺の駐車場を使わせてもらう 本堂脇の坂を上がった所に駐車は遺構を壊すので好ましくありません
※2019年に見学者専用駐車場が玉ノ岡中学校の北側にできましたのでそちらを利用して下さい。それまでは積善寺
さんのご好意で使わせていただきましたが、今はお寺関係者だけの利用に限られています





右手のゆるい坂を上がるとすぐ「出郭」に  右の建物が「玉の岡中学校」




「出郭」です  杖と杉山城跡のリーフレットが置いてあります いやー親切ですね




リーフレットを1部頂いて攻城開始




早速案内板があります




読み難かったらルーペを使って読んで下さい(笑)




「大手口」です  ここにもイラスト入りの説明板が




「外郭」 あれ「馬出郭」だったかな 自信ありません




「木橋」 以前は竹で作った簡易な橋が架けてあったようです




「馬出郭」




「馬出郭」西側・「南三の郭」南東側の「空堀」




南三の郭南側の「空堀」・「土塁」




南三の郭南側の「空堀」・「土塁」




「竪堀」  他にも数条ありました




「井戸跡」  落城の際に敵方に使われないように蓋の石は落城の際に敵方に使われないようにしたのではないかとも




本郭西側の空堀




本郭と北2二の郭の間の空堀




「北二の郭」




「北二の郭 虎口」




「北二の郭 横堀」




「北三の郭」




「搦手口」




「本郭 北虎口」 下から




本郭西隅を下から




本郭の「杉山城址石碑」と「杉山城跡案内(説明)板」




「国指定史跡 杉山城跡」案内(説明)板




「本郭」表示板 出土品等を説明記載




城址碑後方の土塁上からの本郭全景




「本郭」 ①




「本郭 南虎口」




「本郭」 ②




「本郭」 ③




「本郭 東虎口」




本郭から「東二の郭」・「東三の郭」を




「東二の郭」




「東三の郭」




東三の郭から本郭方向を




「南二の郭」




「南二の郭 西虎口」




「井戸郭」




「井戸郭 東虎口」




井戸郭から井戸跡を




「食い違い虎口」




「南三の郭」




切岸「屏風折り」 ①




切岸「屏風折り」 ②




「帯郭」(土塁)・「切岸」




「帯郭」(土塁)




外郭から南二の郭・本郭を




帯郭・外郭・玉の岡中学校

『中世城郭の教科書』と評されるだけあって城歩き初心者の私でさえも素晴らしいと思う縄張りの城跡です。
城跡よく整備されていますし、各所にイラスト(写真)入りの案内板が立てられており、更にリーフレットまで置いてありとても分りやすく城攻めを堪能できます。

実は今回は2度目の攻城でした。初回は2009年5月のことですから約6年前のことになります。このころは城郭用語にも疎く、
「馬出」というのを見て、馬を出したり入れたりする場所なのかと思ったくらい知識が全くありませんでした(今もたいして変わりありませんが)

なお、掲載した写真の箇所表示に誤りがあるかもしれませんが、これだけ広い城跡ですので場所を確認しながら写真を撮ったつもりでもどこかで記憶違いをしているかもしれませんので・・・

攻城日:2015年(平成27年)3月2日(月) 続日本100名城選定前          

菅谷館跡(埼玉県嵐山町)

2015年02月18日 | 続日本100名城


菅谷館跡は、鎌倉時代の有力武士であった畠山重忠が文治3年(1187)以前から居住していた所と伝えられています。菅谷館がいつ誰によって築かれたのか明らかでは
ありませんが、現在までのところ、重忠時代の遺構は確認されていませんが、館跡を含む周辺地域は菅谷と呼ばれ、館跡近くの平沢寺の中世寺院跡からは、重忠の曽祖父の
「平朝臣慈綱」(秩父重綱)銘のある久安4年(1148)の年紀を刻む経筒が出土しており、秩父平氏の流れをひく畠山氏の拠点が古くからこの地にあったと考えられて
います。また、元久2年(1205)6月、畠山重忠が鎌倉に向かって出立したのは、「小衾郡菅屋館」であったことが『吾妻鏡』に記されています。その後、山内上杉氏と
扇谷上杉氏が争った長享年中の大乱(1487~1505)の際には、城郭として使われていたと考えられています。『松陰私語』によれば、松陰という陣僧が、「河越城に
対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固めるように」と進言したとあります。この「須賀谷旧城」が現在の菅谷館跡にあたると考えられます。なお、現在みられる土塁や
堀などは戦国時代のものです。現在までに5回に及ぶ発掘調査が行われていますが、出土資料の年代は14世紀末から16世紀前半、つまり戦国時代以降の資料が中心です。
昭和48年5月、鎌倉時代の代表的な武蔵武士の館に起源をもつ中世城館の遺跡として国指定に指定され、平成20年3月には比企城館群菅谷館跡と名称が変更されました。          
                               〔埼玉県立嵐山史跡の博物館 編集・発行リーフレット「菅谷館跡」から引用〕




今、菅谷館跡が見頃です!!

まだまだ寒い日もありますが、実は、今、当館が立地する国指定史跡「菅谷館跡」が見頃を迎えています。
草が枯れ、木の葉が落ちて、土塁や空堀、郭の様子が一年の中でも最も観察しやすくなっています。
館跡の中では、コウバイやハクバイの花もちらほらと咲き始めました。
早春の一日、菅谷館跡の散策はいかがでしょうか。

埼玉県立嵐山史跡の博物館のホームページを覗いてみたら、上記の一文が載っていました。
曇り空で肌寒い日ではありましたが、この言葉に誘われ「菅谷館跡」を歩いてきました。




国道254号線バイパスに架かる歩道橋の上から菅谷館跡・嵐山史跡の博物館入口を




入口に立つ「国指定菅谷館跡」の石碑






二重土塁と泥田堀




搦手口(菅谷館跡・嵐山史跡の博物館入口)です






搦手門・土橋跡を内側から






三ノ郭の紅梅 ちょっと見頃を過ぎているようでした




菅谷館跡の案内板




三ノ郭(1)




三ノ郭(2)




蔀土塁(しとみどるい) 

西ノ郭から三ノ郭内部の様子を直接見通せないように設けられた土塁






正坫門と木橋




木橋




西ノ郭(1)




西ノ郭(2)




西ノ郭と二ノ郭館を遮る堀




西ノ郭にある大手門跡  (ここかどうかちょっと自信がありませんが)




建物跡と井戸跡(三ノ郭)




空堀道(二ノ郭)




二ノ郭跡(1)




二ノ郭跡(2)




二ノ郭跡に建っている畠山重忠像




二ノ郭跡(3)




二ノ郭跡(4)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(1)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(2)




二ノ郭と本郭の間にある空堀(3)




本郭出桝形土塁




本郭と二ノ郭の間にある空堀






二ノ郭跡の白梅




南郭について




南郭(1)




南郭(2) 




菅谷館跡の石碑と案内板  ここの石碑は国指定史跡になる以前の埼玉県指定史跡のころのもの




この案内板に菅谷館跡についての説明があります




本郭への小口?




生門跡(本郭)




本郭(1)




本郭(2)




本郭(3)




本郭(4)  戦国時代・・・後北条氏のことでしょうね




菅谷館跡内にある『埼玉県立嵐山史跡の博物館』




企画展「戦国時代は関東から始まった」の展示品の図録は購入済みでしたが、実際の展示は見ていなかったので館跡を散策後に入館しました。

一応、この「菅谷館跡」の初攻城は2009年5月ですが、折に触れ何度か一部を散策しています。
企画展への入館の際に受付で頂いた「菅谷館跡見て歩きガイド」によると、30~40分の行程とありました。
どうしても細かく見てみたい(写真も撮りたい)ことから2時間近くかかってしまいました。そのくせ、肝心の
場所の写真が撮ってなかったりという結果です。散策前に「菅谷館跡見て歩きガイド」を手にしていれば効率的で、
且つ、見落としや写真の取り損ないもなかったかもしれませんでしたが後の祭りです。今回に限らず地図を
見ながら歩けばよいのでしょうが、いつも考えなしに夢中で歩くだけでなものですから。
次は、地図を見ながらと反省するも、また同じことの繰り返しになりそうです・・・

攻城日:2015年(平成27年)年2月17日(火) 続日本100名城選定前          

福井城(福井県福井市)

2012年11月20日 | 続日本100名城


福井城跡の石垣、水堀

福井城
1601(慶長6)年、越前68万石の領主となった結城秀康によって福井平野に築かれた平城。織田信長の家臣・柴田勝家が本拠とした
北ノ庄城を取り込む形で建設され、縄張りは秀康の父である徳川家康によるものといわれている。工事開始から5年後の1606(慶長11)年、
本丸を中心に幾重もの曲輪(区画)と水堀が巡るという、徳川家康の城に共通する特徴を持つ巨大城郭が完成した。当初は北ノ庄城と呼ばれていたが、
康の子である松平忠昌が城主たなった際、福居(後に福井)城に改められたといわれている。本丸には4重5階建ての壮麗な天守が建てられていたが、
1669(寛文9)年の火災により焼失し、その後は再建されなかった。明治維新まで代々越前松平家が城主を務め、廃城後は城趾の市街地化が進み、
現在はかつての本丸にのみ堀と石垣が残されている。            (【戦国武将データファイル】名城コレクション・福井城)から引用  
  



本丸跡には福井県庁・警察本部が建っている








平成19年に復元された御廊下橋 






福井城天守台 




福井地震で崩れた天守台の石垣  




天守台登り口脇に設置されている「福井城天守」の説明板  




山里口門跡の石垣   
   
福井市を訪れたのは、隣接する坂井市にある現存天守12城のひとつ「丸岡城」の攻城を目的としてでした。
そして、できれば福井市内にある「一乗谷城(跡)」、「福井城(跡)」も攻城したいと考えました。
しかし、乗車する列車は既に決まっておりましたから、散策できる時間には制限がありました。
主目的の丸岡城攻城もじっくりと攻めるどころか時間に追われるようにして福井駅まで帰還した次第で、
とても「一乗谷城(跡)」まで行く余裕はありません。列車に乗るまでの僅かな時間で行けるとすれば
「福井城(跡)」しかありませんでした。この「福井城(跡)」の本丸跡には、現在、福井県庁、
福井県警本部が建っており、見どころとしては天守台と石垣、そして、復元された御廊下橋くらいかもしれません。
とにかく行って来ようと福井城跡に足を向けました。行ってく来るだけであって、行って見て来るというまでには至りません。
そんな次第でしたから、天守台まで行ってすぐに福井駅まで戻り、次の目的地に向かいました。 

攻城日:2012(平成24)年11月12日(月) 続日本100名城選定前    

忍 城(埼玉県行田市)

2012年05月27日 | 続日本100名城




関東7名城・埼玉3名城のひとつに数えられる行田市の「忍城(跡)」を攻めたのは2年半も前のことである。
その後も何度となく城跡前を通ったが、下乗して攻め入ったことはない。そんな「忍城(跡)」を、本日改めて攻城してきた。
忍城についての説明は、いつものように手抜きをして、写真の「忍城の由来」にお願いしておきます。  










御三階櫓 (模擬)
元の位置とは違う場所に再建されたようです。撮影位置を少しずつ変えてみましたが・・・  






門   
門の名は分りません。一見、当時のもののような雰囲気を感じますが、これも再建(模擬?)   






狭間
この狭間外側が広いか、内側が広いか気になってみて見ましたら、何と・・・答は内緒にしておきましょう






鐘楼と鐘
これも元は別の場所に建っていたものを復元?   






「忍城おもてなし甲冑隊」の皆さん
 





折角ですから「行田市立郷土博物館」に参館。御三階櫓も展示室になっています
展示内容は、古代から現代に至る行田市の姿。無論、忍城に関することも
写真撮影が出来るのは、ロビーのこの甲冑くらいで展示室内は撮影禁止です






石田光成が忍城を水攻めしようと築いた堤の一部が残っています。しかし、私の想像していた以上に遠い場所にあったのは驚きでした
  
*手抜きだらけの攻城記になってしまいましたが・・・

攻城日:2012年(平成24年)5月27日(日) 続日本100名城選定前         〔2017.3.22再編集〕