四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

丸岡城の天守は現存最古ではなかった

2019年03月30日 | 城館雑記


坂井市教育委員会は今月26日、国内最古の天守との説もあった丸岡城の天守(福井県坂井市)について部材の
柱などを調べた結果、建てられたのは江戸時代の寛永年間(1624~44年)だったことが判明したと発表し
たとのことです。

元々、丸岡城については、戦国武将・柴田勝家のおいに当たる柴田勝豊が天正4年(1576)に建設したとす
る説と、初代丸岡藩主本多成重が入城した1613年以降に建てたとする説がありました。

丸岡城の天守については、犬山城の天守(愛知県犬山市)と、どちらが国内最古の天守かとの論争がありました
が、これでこの論争にも終止符が打たれたようです。
日本最古の天守を売り物にしていた丸岡城ですし、国宝化を目指していた坂井市にとってはちょっと残念な調査
結果だったかもしれませんが、正直に発表したことには敬意を表します。

写真は、自身が平成24年(2012)11月に攻城した時のものです。

葛西清重館(東京都葛飾区)

2019年03月29日 | 100名城以外の城館跡


館 名:葛西清重館(かさいきよしげやかた)
別 名:-
形 態:平城
時 期:鎌倉時代
築城主:葛西清重氏
城 主:葛西氏
遺 構:-
指 定:-
現 況:西光寺、宅地等
所在地:東京都葛飾区四つ木1-25-8 西光寺

葛西清重は、平安時代から鎌倉時代初期にかけての武士。秩父平氏の流れを汲む豊島清光の三男で、父清光の所
領地のうちの渋江(現在の四ツ木周辺)を含む下総国葛西荘を相続したことから葛西氏を名乗った豪族である。
清重は源頼朝の旗挙げ当初からの功臣で、鎌倉幕府成立後も重臣として幕政に参画した。
渋江に清重が住んだのは晩年のこととされ、西光寺が清重の居館跡であるというのはあくまで伝承で、今のとこ
ろ確証は得られていないようですが、それでも訪ねてみる価値はあると訪ねてみた次第です。
葛西氏はその後活動の拠点を奥州に移していったが、渋江の館がいつごろ廃されたのかは不明です。
           



山門脇の塀の上に見える説明板




西光寺本堂




鐘楼   ※山門の内側に「清重稲荷神社」があるが写真は失念




境外から見た西光寺本堂




西光寺境外南西にある「清重塚」と呼ばれる葛西三郎清重の墓
この場所は、山門脇の説明板にも書かれているよう古墳であったようですが、削平されて今のような平地になっ
たようです。




名 称:葛西清重墓
指 定:東京都指定旧跡 昭和30年(1955)3月28日
所在地:東京都葛飾区四つ木1-25-8

この葛西清重の墓とされるものも、やはり言い伝えの域を出ていないようです。




重清塚の状況




右側の宝篋印塔が葛西清重の墓と伝えられる
左側の「葛西三郎清重墳」とある碑は明治32年の建立




秩父氏一族の系図  赤色の矢印が葛西三郎清重




本件の葛西清重館とは関係ないのですが、重清塚に向かう途中にある「四つ木つばさ公園」内に建立されている
アニメ・キャプテン翼 大空翼 の銅像
葛飾区四つ木、立石地内に全部で9体ある銅像のうちのひとつだそうです。




葛西清重館(西光寺)への最寄り駅は、京成電鉄押上線「四ツ木駅」ですが、ご覧のとおりアニメ・キャップテ
ン翼のラッピングがされていました。アニメ・キャップテン翼の原作者である高橋陽一氏の出身地がここ葛飾区
四つ木ということで、色々なところでアキャップテン翼が活躍しているようです。京成電鉄とキャップテン翼と
のコラボレーションということで、本年2月下旬にラッピングが完成したようです。
駅舎の正面や側面だけでなく、階段脇の壁や改札付近に至るまでキャップテン翼のキャラクターでうずまってい
ました。サッカーやアニメに興味ない私ですが、さすがに写真を撮らずにはいられませんでした。

散策日:平成31年(2019)3月15日(金)

氏邦桜

2019年03月26日 | 花・鳥・風景


今年もまた、埼玉県寄居町にある国指定史跡鉢形城跡に咲く桜・エドヒガン(寄居町指定天然記念物)を観に行
ってきました。
愛称の「氏邦桜」は一般公募で選ばれて昨年3月に命名されましたが、氏邦とは、鉢形城主であった北条氏邦の
氏邦であることは説明するまでもないでしょう。

とは言え、北条氏邦は400年以上も前の人物ですから、樹齢160年程のこの氏邦桜のことは当然のことながら知ら
ないことになります。








花も見ごろでしたし、天候も好かったことから次から次と花見客が訪れ、氏邦桜(エドヒガン)や土塁に咲く町
の花であるカタクリの写真を撮っていました。








今年も「桜湯」の無料接待がありました。
日本100名城に選定されている鉢形城跡で、名水百選に選定されている地元寄居町風布川の日本水(ヤマトミズ)
を使った桜湯を頂くとは何とも言えません。




みなさん、緋毛氈が敷かれた縁台に座って桜湯を飲みながら氏邦桜(エドヒガン)を愛でていました。




緋毛氈と桜湯とエドヒガン




サクラの花が一輪    湯が少ないのは飲んでしまったから・・・




土塁に咲くカタクリとエドヒガン






カタクリ

散策日:平成31年(2019)3月26日(火)

第2回 調査研究発表会「古文書からみえてきた鉢形領を支えてきた人びと」

2019年03月24日 | 講演会・講座


秩父歴史文化研究会
「北条氏邦の鉢形領を支えた人びと調査研究部会」主催による

第2回調査研究発表会
「古文書からみえてきた鉢形領を支えてきた人びと」

日 時:2019年(平成31年)3月24日(日)10;00~16:30
会 場:秩父市歴史文化伝承館
内 容:
 報告 
  (1)両神薄薬師堂十二神将墨書の人物について  高 橋   稔 氏 (秩父歴史研究会)
  (2)藤田大学について             石 塚 三 夫 氏 (秩父歴史研究会・鉢形城歴史館館長)
  (3)古文書から見えてきた秩父衆閑野氏とその一族について 
                          新 井 克 彦 氏(秩父歴史研究会) 
 講評                       浅 倉 直 美 氏(埼玉県文化財保護審議会委員)
 講演 「吉田新左衛門関係史料を読んで」
     -『吉田系図』に見られる吉田氏の栄枯盛衰-梅沢 太久夫 氏 (元・県立歴史資料館長)

を聴講してきました。

この研究発表会は、昨年3月に同じ秩父市歴史文化伝承館を会場にして開催された
シンポジウム「北条氏邦の鉢形領を支えた人びと」に続くのもので、更に内容の濃いものになって居ました。




会場入口




左:レジメ 発表会資料 (67頁)¥500
中:戦国史料集 第1集    資料集(100頁)¥1000 上段に史料原本の写真  下段にその釈文
右:戦国史料集 第1集 別編 解説集 (64頁)¥500 釈文の読み下しと解説
資料集の史料原本は、北条氏邦関連のもので、研究会の方々が見つけて歩いたものが多数含まれているようです。




秩父市歴史文化伝承館内の掲示板に貼られていたポスター  隣には今話題のあの映画のチラシも・・・




講演時の写真はありませんので、代わりに今年も秩父市のシンボル武甲山を
駐車場にいっぱいの車は聴講者のもの

聴講日:平成31年(2019)3月24日(日)

葛西城(東京都葛飾区)

2019年03月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:葛西城(かさいじょう)
別 名:-
形 態:平城
時 期:不明なるも 15世紀中頃か
築城主:不明なるも 葛西氏か 山内上杉氏か
城 主:葛西氏、大石氏、足利氏、遠山綱景氏、後北条氏
遺 構:-
指 定:東京都指定史跡(平成10年〔1988〕3月13日指定)
現 況:御殿山公園、、葛西城址公園、住宅地
所在地:東京都葛飾区青戸7丁目

葛西城の築城時期や築城者は不明のようですが、この辺りを治めていた秩父平氏の流れを汲む葛西氏によって、
あるいは享徳の乱前後に山内上杉氏によって築かれたとも言われているようです。葛西城の伝承地には諸説あっ
たようですが、環状七号線建設工事に伴う発掘調査によって、葛西城の存在が明らかにされたとのことです。遺
構を見ることはできませんが、そんな葛西城跡とされる場所を歩いてきました。




環七通り青戸七丁目東交差点の若干南寄り  この辺りも葛西城の城域であったと想定される




青戸七丁目東交差点にある「←御殿山公園・葛西城祉公園→」標識
葛西城跡は環七通りで分断されてしまっており、それぞれに名称の異なる公園が設けられている。




環七通り東側にある「葛西城址公園」 ここは本丸跡の一部と推定されるようですが遺構はなくただの公園です。




葛西城址公園案内図




葛西城址公園の模様




環七通り西側にある「御殿山公園」 
天正18年(1590)3月、豊臣秀吉の小田原攻めにより落城した葛西城跡に、江戸に入部した徳川家康によって
青戸御殿が設けられ鷹狩りなどの際に休憩所と利用された。後に青戸御殿は取り壊された。




この御殿山公園にも遺構は認められず、遊具等が設けられた公園となっていますが、葛西城祉公園にはなかった
説明板や石碑が建てられています。




葛西城復元図




トイレのあるエリアには石碑や案内板が複数あります




「青砥藤綱城跡」碑
青砥藤綱とは執権北条時頼や北条時宗などに仕えた鎌倉時代の武士ので、この地を有していたという伝承があり、
葛西城の始まりとされる館を築いたとされることからこの石碑が建立されたようですが・・・




葛西城跡説明板




同上  日本語部位




青砥史蹟復興之碑




発掘された葛西城




後北条時代の葛西城跡縄張り想定図




東京文化財ウィーク「葛西城跡」解説カード(ポストカード)

今回の葛西城跡散策は、個人的なものではなく、埼玉県立嵐山歴史の資料館主催による【平成30年度文化財めぐ
り「戦国時代の城館を訪ねる3」葛西城跡の面影を訪ねて】への参加による散策でした。
団体行動ですからそれなりの制約はありましたが、京成電鉄青砥駅に集合出発で、住宅街の本丸外堀跡(推定堀
跡を含む)を歩きながら二つの公園を廻ったあと、延命寺、曳舟川親水公園(昼食)、葛飾区郷土と天文の博物
館見学(ここで流れ解散)という行程でした。
解散後、単独で葛飾区四つ木にある葛西清重館・重清塚を訪ねて来ました。

散策日:平成31年(2019)3月15日(金)

メジロとモクレン

2019年03月18日 | 花・鳥・風景














散歩道にある家庭菜園程度の畑の隅に1本だけある安行サクラ(違っていたらご免)が満開になっていた。
沢山のメジロが花びらを啄んでいた。カメラを向けても、時折走ってくる車にも動ぜず、枝と枝を行ったり来たり。
過日、梅の花を啄んでいたメジロたちはさっと飛び去ってしまったのに・・・お陰で何枚もの写真が撮れましたが。














やはり散歩道の土手の下にある白と紫のモクレン  
この季節になるといつもこのモクレンの花を何枚か撮ってブログネタにしていますが、今年も。

散策・撮影日:平成31年(2019)3月18日(月)

歴史講座「小川町の中世~瓦と城を中心に~」

2019年03月17日 | 講演会・講座


小川町教育委員会主催による

平成30年度 小川町歴史講座  小川町の中世~瓦と城を中心に~
講師:石 川 安 司 氏 (ときがわ町教育委員会生涯学習課長)
日時:平成31年3月17日(日)午後1時30分~3時30分
場所:小川町立図書館 視聴覚ホール

内容:1 瓦の歴史と概要
    (1)瓦の歴史
    (2)瓦の概要
   2 中世瓦の分布
   3 比企型中世瓦の同范関係から見た物そして人の交流
   4 城
    (1)中世の城と近世の城
    (2)小川町の中世の城と分布
    (3)城の構造(縄張り)
    (4)特徴的な遺構
   
を聴講してきました。




講座資料  背景写真は、小川町・青山城跡の堀切(平成27年(2015)4月12日攻城時に撮影)

聴講日:平成31年(2019)3月17日(日)

鷹見泉石記念館(茨城県古河市)

2019年03月13日 | 資料館・博物館


名 称:鷹見泉石記念館(たかみせんせききねんかん)
所在地:茨城県古河市中央町3-11-2
開館時間:午前9時~午後5時(ただし入館は午後4時30分まで)
入館料:無料
休館日:国民の祝日の翌日(土・日を除く)
    年末年始、・館内整理日(毎月第4金曜日、ただし祝日を除く)

 鷹見泉石記念館は古河藩が藩士たちのために用意した武家屋敷の一つで、家老であった鷹見泉石が藩隠居後、
もっぱら蘭学にいそしんだ最晩年を送った家です。
 建物は寛永10年(1633)古河城主土井利勝が、古河城の御三階櫓を造ったときの残り材を使って建てたと伝
えられ、もとの建坪は100坪もあり(現在の2倍以上)、屋敷全体は東西に長い他に比べて一段と広大な(現在
の4倍以上)ものでした。
 平成2年、改修して「鷹見泉石記念館」として開館しました。
                     (古河市ホームページ「鷹見泉石記念館」より一部抜粋引用)






鷹見泉石記念館の道向かいには「古河市歴史博物館」がありますが、同所は古河城出城諏訪曲輪跡です。
























「史蹟 鷹見泉石邸」石碑










奥原晴湖の墓は、成田氏の菩提寺である熊谷市の「龍淵寺」にあり、埼玉県指定文化財旧跡になっています。

訪館日:平成27年(2015)3月13日(金)

決して訪館日の年間違いではありません。丁度4年前の今日と同じ日に訪館したものの、記事にしそびれてきて
しまいましたが、最近のネタがありませんので今更ながら・・・

伝 河越太郎重頼の墓(埼玉県川越市)

2019年03月10日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:伝 河越太郎重頼の墓
指 定:―
所在地:埼玉県川越市元町2-11-1 養寿院

養寿院は、山号を青竜山と号し、曹洞宗に属す寺です。寛元2年(1244)、河越太郎重頼の曾孫である河越次郎
経重(遠江守)が開基となり、大阿闍梨圓慶法師が開山の古刹です。江戸時代、徳川家康公ご来駕の折、御朱印
十石を賜るなど、歴代川越城主の信仰も篤く多いに栄え、かつては曹洞宗専門僧堂(修行道場)として多くの人
材を輩出した禅寺である。
この養寿院に、伝河越太郎重頼の墓があるとのことから訪ねてみました。

河越氏は、桓武平氏秩父氏の嫡流で一族には、畠山氏、葛貫氏、江戸氏、豊島氏、葛西氏などがいます。




養寿院山門  この山門は閉門されていますので境内には塀の途切れた右側から入りました




本堂  この写真では不明瞭ですが大棟に入っている紋は「三つ葉葵」紋です
本堂左側奥の方に伝河越太郎重頼の墓はあります




河越太郎重頼の墓と伝わる五輪塔は左側の木の後方にあります




伝 河越太郎重頼の墓説明板




伝 河越太郎重頼の墓




同上




五輪塔の背後にある3基の板碑




石碑  「河越氏蹟※碑」と篆書体で刻まれています ※=読めませんでした  
碑文もすべて篆書体ですので(私には)読み下しができません




川越市上戸の常楽寺にある河越太郎重頼公、源義経公、義経正室(京姫)の供養塔
常楽寺は時宗の寺で、かつて武蔵国で最大勢力の豪族であった河越氏が拠点としていた河越館跡地の一角にあり、
もともとは河越氏の持仏堂が発展したものとされるようです。
しかし、当寺に河越太郎重頼の墓と思われるものは認められず、この供養塔は平成18年(2006)に建立された
ものです。
なぜ、河越太郎重頼の墓だけが曾孫である河越次郎経重開基の養寿院にあるのかその理由はよくわかりませんが、
あくまでも「伝」であり、供養塔かもしれませんね。

散策日:平成31年(2019)3月10日(日)