四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

駿府城(静岡県静岡市)

2011年11月22日 | 日本100名城


二の丸巽櫓と枡形

駿府とは駿河の国の中心を意味し、徳川家康が幼少時今川氏の人質となっていたところでもある。今川氏の居館があったとされる場所に
家康が最初に城を築いたのは天正13年(1585)といわれるが、詳細は不明である。その後、隠居した家康が城を改築したのは慶長
12年(1607)だった。このとき西国の大名たちに負担させて大御所にふさわしい3重の堀と六重七階(あるいは五重七階)の天守
をもつ城に大改築させた。しかし、天守は出火で寛永12年(1635)焼失して以後は再建されなかった。二の丸や三の丸の堀、大手
御門の虎口はよく残されている。また、二の丸東御門、巽櫓や本丸堀の一部が復元公開されている。
                         (「日本100名城公式ガイドブック・41駿府城」から転記引用) 



二の丸の堀   




「駿府城跡」碑




「東御門橋」




「水堀」  




「東御門」




「桝形」




「東御門」内側から




「巽櫓」






「本丸堀(内堀)」越しに見る「東御門」・「巽櫓」




「本丸堀(内堀)」




「広場(沈床園)」




本丸跡に建つ「徳川家康公銅像」

駿府城跡は県庁や広い駿府公園となっており、とても歩ききれませんでしたので復元建物見学主体の散策となりました。
更に建物が復元・復興がなされた際に、再び訪れることができれば良いが・・・






静岡駅前に建つ徳川家康公銅像と竹千代君(家康の幼名)の銅像

静岡駅前広場にも、家康公の銅像と竹千代君の銅像が建っておりました。
こちらの家康公の銅像は駿府城絡みというよりも、久能山東照宮国宝指定記念の一環として建立されたようです。
同じ家康公なのに駿府城跡のものとここのものとでは顔が違っている?

攻城日:2011年(平成23年)11月14日(月)                 

掛川城(静岡県掛川市)

2011年11月21日 | 日本100名城


【掛川城】
掛川城は戦国時代に今川氏の遠江支配の拠点として築かれ、のちに徳川家康の有するところとなる。天正18年(1590)に家康が関東に移されると
山内一豊が5万石で入城し、天守を築くなど近世城郭へと大改修を施した。城は逆川に突出した丘陵全体を利用して天守丸を本丸より一段高く築き、
東山麓に二の丸、三の丸が構えられ、内堀、十露盤堀、乾堀、松尾池が巡っていた。また、大手門が逆川対岸の城下に枡形を構えて配されていた。
   (山川出版社「日本の城」から転記引用)

今夏、土佐の高知城を訪ねた。高知城は山内一豊が築き、以来代々山内家が城主を務めてきた。
一豊が土佐一国を領する(この経緯については省きますが)前に居城としていた掛川城を見ておかなければと、今回の掛川城訪問となりました。








「四足門」と「天守」  






「天守」   




「霧吹き井戸」




「塀 」




天守 内部 




天守から見た「太鼓櫓」 




天守からみた「四足門」




天守から見た「二の丸御殿」  




二の丸御殿玄関屋根  




二の丸御殿内部    

この掛川城天守は、平成6年に木造により再建されたものですが、その姿は高知城に倣っています。というのも土佐に移封となった山内一豊が
高知城を築くに当たり、愛着のある掛川城と同様なつくりしました。
つまり、掛川城天守再建にあたり、高知城に倣うということはすなわち掛川城に遡るからです。無論、これだけの理由ではなく、文献等を踏まえての上ではありますが。
現在の二の丸御殿(掛川城御殿)は、幕末に再建されたものですが、現存する4御殿のひとつです(他は二条城二の丸御殿、高知城本丸御殿、川越城本丸御殿)
今回も見落としをしてしまいました。それは、少し離れたところ(逆川対岸)にある大手門(復元)です。

攻城日:2011(平成23)年11月14日(月)