四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

中宿古代倉庫群跡(中宿遺跡)

2022年06月12日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


深谷市岡(旧・大里郡岡部町岡)にある「中宿古代倉庫群跡」(中宿遺跡)を訪ねて来ました。
これまでにも何度か行っておりましたが。今回は復元倉庫特別公開ということでしたので見学して
きました。
まあ、普段でもフェンス越しに見ることが出来ますが、フェンス内に入れて、倉庫内にも入れると
いう初めての体験でした。




中宿古代倉庫群跡の説明板
以前建っていたものは合併により深谷市になる前の岡部町時代のものでした。これには平成30年
(2018)2月に国指定史跡となった幡羅官衙遺跡跡についての記述はありませんでしたが、内容的
は以前のものと大差はありませんが下に説明文を転記しておきます。
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埼玉県指定史跡
中宿古代倉庫群跡
                               所在地     深谷市岡3286-2ほか
                                  指定年月日   平成3年12月6日

 中宿古代倉庫群(中宿遺跡)は、北に妻沼低地を望む櫛挽台地の先端部に立地し、平成3年に発見されました。
主な遺構は掘立柱建物跡、礎石建物跡、溜池状土壌、竪穴建物跡、区画溝などがあり、遺物は須江器、土師器など
が出土しています。
 遺構の性格を最も特徴づける遺構は、高床倉庫と想定される総柱式(柱を碁盤目状に配置する方式)建物跡です。
多数の高床倉庫が整然と列をなしており、7世紀末~10世紀の長い期間、建て替えながら使用されていたと考え
られます。8世紀後半には建物の基礎構造が掘立柱から礎石へと変化しています。
 大規模な規格性の倉庫群であることから、中宿古代倉庫群は古代「榛沢郡」の役所(郡家または郡衙)の正倉院
であり、税として納められた稲穀が収納されていたと推定されます。周囲には郡庁(郡を治める役人である郡司が
政治を執る場所)・館(郡司の宿舎)・厨屋(食料の管理及び調理施設)などの諸施設が広がっていると考えられ
ます。
 遺跡の周辺には、寺院跡の岡廃寺、大集落跡の熊野遺跡た白山遺跡といった古代の遺跡が広く分布しています。
また深谷市内ではこの他に、市域の東端から熊谷市にまたがる範囲で、「幡羅官衙遺跡跡」(古代「幡羅郡」の役
所)も確認されています。中宿古代倉庫群跡やこれらの遺跡について調査が進むことことで、古代の姿がより明ら
かになっていくことが期待されます。
 
 令和2年11月  
                                         深谷市教育委員会

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普段は閉ざされているフェンスが開放されており、中に入ると係員の方が資料を渡してくださいま
した。
左が第2号復元建物(板倉) 右が1号復元建物(校倉) 




1号復元建物(校倉)   礎石の上に柱が立っている礎石建物




1号復元建物 校倉が分るようにアップで




1号復元建物(校倉)の内部 
稲穀を保管するだけですからなんら造作はされていません




第2号復元建物(板倉)  掘立柱  掘立建物




第2号復元建物 板倉のアップ




2号復元建物(板倉)の内部 
やはりなんら造作はされていません




1号建物実測図  第1号・第2号復元建物設計図




頂いた資料

過去記事「中宿古代倉庫群跡」

散策・見学日:令和4年(2022)6月11日(土)

女人堂・女人道(埼玉県ときがわ町)

2021年08月13日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:女人堂(にょにんどう)・ 女人道(にょにんみち)
形 態:御堂・巡礼道
選 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:旧慈光寺跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:埼玉県比企郡ときがわ町西平(旧・都幾川村)

ときがわ町(旧・都幾川村)西平にある天台宗の寺院「都幾山一条法華院慈光寺」は、1300年の
歴史を持つ埼玉最古の寺院で、坂東三十三観音霊場第九番札所になっています。
観音堂や本坊とその周囲は何度が訪ね歩きましたが、『女人堂』については通りすぎていました。
今回はその女人堂と女人道を散策してみました。

女人堂とは女人禁制の地で、女性が参籠 して読経や念仏をすることができるよう結界の外に設けら
れた堂。




大野東松山線(県道172号)を堂平山方向に進み「宿」交差点を右折し慈光寺方向に行くと少しし
たところで追分になります。
左を進むと霊山院に通じ、右が慈光寺坂ですが、上まで行けば合流しますのでどちらから行っても
霊山院・慈光寺に行けますが・・・




この左側の道を行ったことがなかったので少しだけ歩いてみました




慈光寺川に架かる橋のたもとに「八臂弁財天(はっぴべんざいてん)石仏」があります




八臂弁財天石仏の背後から女人堂方向を




大きな「女人堂」石碑  右にある石標には「九丁目」と刻まれていますがこれは何を意味するの
でしょうか?
ここは「山の上り初めの一町(一丁)にあり」と言われる場所なのですが
【新編武蔵風土記稿】による慈光寺の縁起(平村)には、「慈光寺 慈光山の上にあり、麓より登
ること九丁餘なり、・・・」とあるそうですのでこれと関係あるのかも知れません




『女人堂』境内




石造物  中には「光明真言」と刻まれたものもあります




【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板

2段目に
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 諸説伝承によると、この女人堂も平安初期において、女人禁制のため、慈光坂途中に建立されて
いました。女人信仰の御堂として世々、増改築や移設もされ、この地元住民の遠きし親達の誠実な
祈り尊き志により護られ維持されてきました。
 このたび、山頂の慈光寺に伝来する国宝「「慈光寺経」の内、金泥文字の剥落はあるもののほぼ
完全な姿で伝えられてきた「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成して、諸衆の祈念に、と
りわけ女性の幸せのために掲立しました。
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とあります




『女人堂』
上掲の【国宝「慈光寺経」装飾法華経提婆多品】説明板にあるよう、元々、女人堂は慈光寺坂途中
に建立されていたものが時を経てここに移設されたとあります。いろいろと調べてみると、
女人堂の創立は、宝永5年(1708)・ 再建 文化3年(1806) で  
現在の地に移転したのが 明治30年(1897) とのことです




扁額【女人堂】  慈光寺第百〇六世大僧正頼憲 揮毫




格子の隙間から堂内を覗かせていただきました
厨子の背後に掲げてあるのが「装飾法華経提婆多品第十二」を拡大陶窯焼成したもののようです




【入比坂東三十三ヶ所観音札所 一番都幾山女人堂】
入比坂東三十三所観音霊場とは、入間郡越生町・比企郡(ときがわ町・鳩山町・嵐山町)にある
33寺院を巡る観音霊場で、享保年間(1716-36)に開創したといわれます




慈光坂を上がって行って暫くすると【僧坊跡】と刻まれた石標がある平場があります
その名の通り僧坊があった場所で慈光寺には隆盛時には75の僧坊があったと言われます
特にこの付近に多くあったようで、僧坊跡とみられる平場が見られます

「現慈光寺を中心に一山七五坊の痕跡が明らか。約150haの範囲に130ヶ所余りの削平地が僧坊跡
として雛壇造成されている。平安時代から江戸時代までの遺物が山内に散布する。ところにより礎
石あり」ということから
『旧慈光寺跡』の名称で 昭和51年(1976)10月1日 埼玉県選定重要遺跡に選定されています




【都幾山慈光寺案内図】 (一部加筆してあります)
本坊下の駐車場に設置してあるもので、元禄10年の絵図面を基にしたようですが、当時の参道と
現在の参道(車道)では若干の相違があると思われます
山一帯に僧坊等があったのがこの絵図からも窺い知れます
なお、(県指定重要遺跡)と書かれていますが、これは正しくはありません
埼玉県の文化財(史跡関係)の指定区分は「県指定史跡」、「県指定旧跡」があり、その下位に
「県選定重要遺跡」がありますが県指定重要遺跡というのはありませんので、上にも書いたように
「県選定重要遺跡」が正しい呼称です
まあ、案内図ですし、一般の方はそこまで気にはしないでしょうが・・・




元々の『女人堂』があったと伝わる場所です
色々と調べた結果、ここが女人堂のあった跡地の平場だろうと思うに至りましたが、正直、自信は
ありませんでした




女人堂があったと思われる平場を歩いていて見つけました
この写真では汚れがないように見えますが、見つけたときは落葉や泥がこびり付いていましたので
落葉をのけてティッシュペーパーで拭いたものの汚れは落ちませんでした。幸いウエットティッシ
ュも携帯していましたのでそれで拭き落とし文字が読める状態にしたものです(どうでもいい話でした)




【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】
「伝」とはありますが、ここが探していた女人堂跡で間違いなかったようです
絵図の左側のお堂の上に 女人堂 とあります




『修建畠山重忠君断碑記』
石標【浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡】の近くに建立されていました
碑文は読めませんでしたが、題額の文字を拡大してみたら何とか畠山の文字が読めましたので間違
いないと思います




浄土院年仏堂跡・伝女人堂跡の平場の西側に石段の参道があります。これが旧来の慈光寺への参道
のようです




参道の傍らにあるおおきな『百万遍念仏供養塔』
後ろに見えるのは「聖徳太子」碑




旧参道の石段を上り切ると「参道」と刻まれた石標が建っていて、現在の参道(車道)にでます




目の前は「慈光寺青石塔婆群」で、歴代住職の供養として建てられた9基の板石塔婆(1基は現在
本堂に安置)と墓石が並んでいます  
この青石塔婆群(9基)は 『青石塔婆』の名称で 昭和30年(1955)10月1日 埼玉県指定有形
文化財(考古資料)に指定されています
ここは慈光寺の山門(仁王門)跡で、明治時代の初期に山中の僧坊跡から移設したものと考えら
れるとのことです




この絵図は、青石塔婆群の中にある「慈光寺山門跡の板碑群」説明板の中にあるものですが、説明
文にある通りこの場所には女人禁制の結界があり、女性は結界を避けて女人道を登って坂東観音霊
場九番慈光寺観音堂へ向かったようです




青石板碑群と道路を挟んだ西側にある「女人道」登り口




登り口にある【女人道】と刻まれた石標




女人道を少しだけ登ってみました 
登り切ると焼失した釈迦堂跡前に出るようですがそれは折を見てまた歩いてみましょう

♪ 紀の川は 別れの川よ
  恋のくるいを 流す川
   高野の峯を 女人はめぐる
   世捨ての人の 面影浮かぶ
   好き好き好きの 女人道
田川寿美さんの『女人道』の唄い出しです
高野山を舞台にしたもので本投稿や慈光寺とは関係ありませんが、数え切れないほど聴いています

散策日:令和3年(2021)6月14日(月)・15日(火)

慈光平廃寺跡(埼玉県小川町)

2021年06月19日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:慈光平廃寺跡(じこうだいらはいじあと)
種 別:寺院跡
創 建:9世紀中頃(平安時代)
指 定:ー
所在地:埼玉県比企郡小川町靱負(ゆきえ)

大里郡寄居町との町境にある小川町靱負地区に東国最大の山岳寺院とされる『慈光平廃寺跡』があります。
斜面を削って造られた大小さまざまな平場が100か所以上存在し、寺院の範囲は東西約820m、南北約270m
にも及ぶ広さとのこと。
創建期は9世紀中頃で、9世紀後半から次々と平場が造られていったようです。これと類似する規模をもつ
同時代の山岳寺院は、まだ東国では確認されていないようで、中世に栄えた『慈光寺」(ときがわ町)に
先行する山岳寺院との見方もされているようです。
平場は甲慈光平地区に最も多くあり、次に多いのが乙慈光平地区で、寺院の中心部は甲慈光平にあったよ
うです。
試掘調査によって礎石をもつ東西4間(8m)、南北4間の建物が確認されたほか、瓦塔や灯明皿なども出
土したとのことです。
そんな『慈光平廃寺跡』を訪ねてみましたが、丘陵内入って平場を確認したわけではなく全体の場所を確
認しただけのことですが・・・




慈光平廃寺跡の寺域を「小川町遺跡地図」にある範囲を元にして青線で書き込んでみましたが、
手書きですので正確な範囲ではありませんので参考程度に見て下さい。
地名についてもこの辺りがという程度のものですし、その境目は分りません。




国道254号小川バイパス竹沢陸橋の上から慈光平廃寺跡方向を見てみましたが、点線の先が廃寺跡です。




東武東上線の線路の左側(西側)が「乙慈光平」 右側(東側)が「甲慈光平」のようです




右側が「甲慈光平」方向  この更に右方が「乙酉内」地区のようです




右側の家の辺りまで歩いてみましたが、線路の反対側ですので、線路左側の道をかなり南下しませんと反
対側に行く道がありませんでした。




線路右側の「甲慈光平」地区に入りました。平場が確認できます。この家のある場所を含めてこの周囲・
背後に沢山の平場があるようですが、民家の庭を通らなければなりませんので、山中に踏み入るのは避け
ました。




東武東上線の線路左側(西側)の模様です。
この辺りから線路に沿っていた道路は左にカーブして国道254号小川バイパスに向います。
左側の木の色が変わっているところを国道254号小川バイパスが走っています。




この家のある場所も慈光平廃寺跡の平場に含まれるようですし、この背後にも多くの平場が存在するよう
です。




上の写真の家のすぐ背後にある林道
ここを上って行った所に家がありましたが、慈光平廃寺跡の平場かもしれません?
また、途中小さな平場跡のようなものもありました。




国道254号小川バイパスに出る少し手前




小川バイパスに出ました
バイパスを横切った先が「乙長谷」、「尾形」地区のようです。
右側はまだ「乙慈光平」の領域かと思います。




国道254号小川バイパス 右側の丘陵も「慈光平廃寺跡」(乙慈光平)
ここから少し北進すると「金勝山トンネル」 トンネル内で大里郡寄居町に入ります




冒頭の写真とほぼ同じですが、国道254号小川バイパス歩道から「慈光平廃寺跡」(甲慈光平、乙慈光平)
方向を

散策日:令和3年(2021)5月12日(水)・14日(金)

大仏廃寺跡(埼玉県美里町)

2021年06月03日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:大仏廃寺跡(だいぶつはいじあと)(別名:駒衣廃寺跡(こまきぬはいじあと)
種 別:寺院跡
時 代:奈良・平安時代
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:駒衣廃寺跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
所在地:埼玉県児玉郡美里町木部字上広谷49-1ほか

大仏廃寺跡(別名:駒衣廃寺跡)は、台地上に道営された奈良・平安時代の寺院跡です。
場所については、「美里町遺跡の森館」の西方に当りますが、その範囲は定かではありませんし、現地説
明板もなく、遺構も見られません。
遺跡の森館を訪ねてみるも、地形模型に場所が表示されるだけで、出土品等の展示は見られませんでした。
他の遺跡の出土品等については充実していますので、たまたま大仏廃寺跡だけが資料不足なのかもしれま
せんが。
なお、上記の通り「駒衣廃寺跡」の名称で埼玉県選定重要遺跡に選定されていますが、一般には「大仏廃
寺跡」が使われているようですので、この投稿ではこちらを主としました。




美里町・美里町観光協会発行の「美里町観光ガイドマップ」には【大仏廃寺跡】と点表示されていますが、
ゼンリン等の地図では大仏廃寺跡の表示はありません。




この地図にも廃寺跡の表示はありませんが、廃寺跡の範囲を書き込んでみました。
ネットで見つけた廃寺跡の範囲を水色の線で、美里町遺跡地図に示されている範囲を赤線で囲んでみまし
たが、いずれもおおよそですので正確ではありません。
丸数字は下に掲げる写真の撮影場所と撮影方向です。




国道254号線沿いにある「美里町 遺跡の森総合公園』入口の標識   ①地点




上記入口を入って行った道路  ②地点
この道路の両側が大仏廃寺跡とされるようです




道路右側(東側)の大仏廃寺跡 右側のアパートのある場所も大仏廃寺跡   ③地点




道路右側の大仏廃寺跡を遺跡の森館方向に    ④地点




逆方向(北方)から道路両側の様子を    ⑤地点




道路の西側の状況   ⑥地点




谷ツ池越しに大仏廃寺跡を  ⑦地点

廃寺跡と言えど礎石一つあるわけでもない今はただの住宅地 2日に亘り訪れて歩き回り 何十枚もの写真
を撮っても使うのはほんの数枚 何がよくてと思われるかもしれませんが そこに廃寺跡があったというか
ら ただそれだけのことで・・・:

散策日:令和3年(2021)5月12日(水)・14日(金)

城戸野廃寺跡(埼玉県神川町)

2021年05月30日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:城戸野廃寺跡(じょうどのはいじあと)
種 別:寺院跡
創 建:奈良時代と推定
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:伝緑野寺旧跡 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
所在地:埼玉県児玉郡神川町新宿 (旧・児玉郡神川町)

神川町新宿地内の城戸野廃寺跡(伝緑野寺旧跡)を訪ねてみました。
礎石もあったようですが現在は不明とのこと。現状はただの耕地にしか見えませんし、どの程度の範囲で
あったかもわかりませんが、かつてここに寺院があったと言う場所の確認だけが目的でしたので、古墳群
の散策までには至りませんでした。




農業水路の北側道路沿いに石標と説明板が建っていますが、この背後の耕地が城戸野廃寺跡のようです。




『伝緑野寺旧跡と城戸野古墳群』説明板と石標




『伝緑野寺旧跡と城戸野古墳群』説明板
浄土野(じょうどの)・・・城戸野(じょうどの) ですか




用水工事や農地改良で元の形はなくなっているようです




『石標』
異体字で刻まれていますので読み方が間違っている個所もあるかもしれませんが
  【縣指定史蹟城戸野寺阯》  裏面には【昭和二十五年・・・】
とあります。
昭和25年(1950)3月20日に【城戸野寺跡】の名称で埼玉県指定史跡になったようです。その後の昭和36
年(1961)9月1日に【伝緑野寺旧跡】の名称で県指定旧跡に指定替になっています。このころ指定文化財
の見直しがされ、史跡に準ずるという形で「旧跡」が設けられ、「範囲が定めにくいものや、歴史的実証
性が確認できないが地域で守り伝えられている等」が、指定史跡から指定旧跡に指定替になったもので、
多くの指定替えのそのうちのひとつのようです。中には指定そのものが解除になったものも複数あるよう
です。
つまり、指定史跡からの格※げ・・・※ 好きな文字をどうぞ(以上は私の勝手な解釈です)
石標は埼玉県指定史跡のころの名残りです。横道に逸れてしまいました・・・




西方から東方に




東方から西方に




北方から南方に

これらの写真以外にも城戸野廃寺跡は広がっているのかもしれませんが取り敢えずこの範囲で・・・

散策日:令和3年(2021)5月9日(日)

五明廃寺跡(埼玉県上里町)

2021年05月28日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:五明廃寺跡(ごみょうはいじあと)
種 別:寺院跡
創 建:奈良時代(8世紀前半)と推定
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:五明廃寺跡 昭和51年〔1976〕10月1日選定)
所在地:埼玉県児玉郡上里町五明字若宮

神流川の扇状地に造営された奈良時代の寺院跡である上里町の五明廃寺跡を訪ねてみました。
下掲の説明板にもあるように寺域等は不明のようですし、現状はただの空き地としか見えませんが、かつ
て寺院があったと言う場所の確認だけの目的でした。




五明廃寺跡の北側道路から




『五明廃寺』説明板と【五明廃寺跡】と入っている屑籠?
かつては巡回バスの停留所【天神社東】はここであったようですが、現在は少し離れた場所に移動してい
ました。




『五明廃寺』説明板




この空き地部分は五明廃寺跡の一部なのでしょう




南側から 
写真中央に『五明廃寺説明板』が建っています
話が完全に逸れてしまいますが、写真の右側に鉄塔が建っています。これはアマチュア無線のアンテナ用
のタワーで、関越自動車道の上里SA辺りまで来ると見えるタワーですが、ここに建っていたのですね。




五明廃寺跡の西北西約100mのところにある天神社の参道と一の鳥居




写真中央〇印のところが五明廃寺跡




天神社

散策日:令和3年(2021)5月9日(日)

寺内廃寺跡(埼玉県熊谷市)

2021年05月27日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:寺内廃寺跡(てらうちはいじあと)
種 別:寺院跡
指 定:熊谷市指定史跡(名称:寺内古代寺院跡 平成10年〔1998〕2月10日指定 指定面積 10,744㎡)
所在地:埼玉県熊谷市柴 (旧・大里郡江南町)

平成4年(1992)から5年(1993)にかけて、ゴルフ場の造成にともない、江南町教育委員会・江南町千代
遺跡群発掘調査会により、開発予定地と遺跡範囲確認のための発掘調査が行われました。
調査の結果、本寺院跡は8世紀半ばに創建され、10世紀後半には焼失している。発掘調査の結果、伽藍の中
心部を巡る溝、築地等の施設と整然と配置する伽藍が確認されており 当時、諸国に建立された国分寺にも
劣らない規模と内容を備えていた寺院の概要が確認された。平成10年〔1998〕2月10日 江南町指定史跡と
なる(平成19年〔2007〕2月13日熊谷市に編入合併し、市史跡となる)
指定史跡地内に存在する施設は、金堂・講堂・中門・参道・東塔跡などである。




道路北側(右側)が寺内廃寺跡ですが、現在はゴルフ場となっていてフェンスで囲繞され立ち入りはでき
ません。
仮に立ち入りが可能でも発掘調査後に埋め戻されていますので礎石等を確認することもできませんので、
初めから場所の確認ということだけで訪ねた次第です
写真中央の道路右側にゲートが僅かに見えますが、この辺りが参道跡のようです。




ゲートの内側奥に中門跡などがあったようです、
更にゲート外側の道路を横切るように参道跡があったようです。




ゲート脇に建立されている標柱
 熊谷市指定史跡 寺内古代寺院跡 平成十年二月十日指定

 「寺内古代寺院跡」本寺院跡は八世紀半ばに建立され、史跡地内には、
           金堂・講堂・中門・参道・東塔跡などが確認されている。
 



ゲートの脇から中を覗いてみても何も確認できません




一応西方からも




任意の地点からフェンス越しに中を覗いてもやはり何も確認できません




『熊谷市立江南文化財センター』
「寺内廃寺跡(寺内古代寺院跡)」の場所確認をした後に、何か参考になるものをとやってきました。




展示室の一角に
「寺内廃寺遺構模型】・【航空写真・配置図】・【金堂模型・塔模型】
※ 写真では名札の文字が読めませんので加筆しました




航空写真は上から 「講堂跡」・「金堂跡」右に「塔跡」・「中門跡」




   「寺内廃寺跡金堂復元模型」           「寺内廃寺跡塔復元模型」




出土品の「瓦」

散策日:令和3年(2021)5月6日(木)

旧盛徳寺礎石(埼玉県行田市)

2021年05月20日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


名 称:旧盛徳寺礎石( きゅうじょうとくじそせき)
種 別:考古資料・寺院跡
時 代:奈良時代
指 定:行田市指定文化財(名称:旧盛徳寺礎石 昭和30年〔1955〕8月8日指定)
    埼玉県選定重要遺跡(名称:旧盛徳寺跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
所在地:埼玉県行田市埼玉1118 盛徳寺

盛徳寺は、埼玉山若王院盛徳寺(さきたまざんにゃくおういんじょうとくじ)と称し、県内でも最古の寺といわ
れる。同寺境内に、旧盛徳寺の礎石が現存するとのことで訪ねて来ました。




「山門」 左右には仁王像が安置されています




「盛徳寺」説明板
山門を潜ったすぐ右側に設置されています




橋が架けられている池を模した石庭?
その先に「中門」 左右に石仏が安置されています




「本堂」




本堂前右側にある礎石2個
横の建物は客殿もしくは庫裡でしょうか?




本堂側から2個の礎石を




上の写真の左側の礎石




本堂前左側にある礎石3個




「行田市指定文化財 旧盛徳寺礎石」説明板
礎石は再利用されているようで、直接見ることが出来るのは本堂前に配された計5個の礎石だけのようです




本堂左側の石段の上から3個の礎石を見ています




説明板の前に配されている礎石




石段の斜め前に配されている礎石

散策日:令和3年(2021)5月1日(土)

大寺廃寺跡(埼玉県日高市・毛呂山町)

2021年05月06日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


日高市と毛呂山町にまたがってある奈良から平安時代の寺院跡「大寺廃寺跡」を訪ねてみました。

名 称:大寺廃寺跡
種 別:寺院跡
指 定:埼玉県選定重要遺跡(昭和51年〔1976〕10月1日選定)
    日高市指定史跡(平成2年〔1990〕3月10日指定)
所在地:埼玉県日高市山根字大寺1316
    埼玉県入間郡毛呂山町葛貫1125‐1ほか

現在でこそ大寺廃寺跡は日高市と毛呂山町の2市町にまたがっている形になっていますが元は同じ山根村
葛貫でした。昭和14年(1939)4月1日、山根村は毛呂村(毛呂山町)に編入しましたが、大字葛貫のう
ちの一部が高麗川村(現在の日高市)に編入し、大字山根となったものです。
ひらたく言えば大寺廃寺跡のある場所が日高市と毛呂山町に分かれてしまったということになります。




現地説明板の背後に礎石があります。




『大寺廃寺跡』説明板




小機説明板にある日高分の内の1棟 東西3間、南北3間の建物跡の礎石




同上




同上




同上

他の建物跡、遺構についての記述はありませんが、発掘調査後に埋め戻されたものと思料します。

散策日:令和3年(2021)3月23日(火)

東小平中山廃寺 木造塔跡(礎石群)(埼玉県本庄市)

2021年04月25日 | 官衙・国分寺・廃寺跡


本庄市児玉町小平にある『東小平中山廃寺 木造塔跡(礎石群』を訪ねてみました。

名 称:東小平中山廃寺 木造塔跡(礎石群)
種 別:塔跡
指 定:-
所在地:埼玉県本庄市児玉町小平(旧・児玉郡児玉町)
    
廃寺跡は元々は別の場所であり、木造塔跡の礎石群が移築復元されているもので、遺構はありませんし、
遺構のあった場所は現在、総合運動公園となっていますので遺構は埋め戻されています。




 東小平中山廃寺 木造塔跡(礎石群)
                               所在地 児玉町大字東小平字中山

 本廃寺は平成15年に行った「児玉町総合運動公園造成工事」に先立つ発掘調査によって発見されました。伽藍は、金
堂(仏堂)を中心に講堂や塔によって構成されていました。
 この規則的に並べられた礎石群は、「東小平廃寺」の中で保存状態が良好であった塔跡の礎石を本地点に移築し復元
したものです。
 本塔跡は、心礎穴が穿たれた心礎のほか、四天柱礎3個・側柱礎4個が原位置を保っていました。残っていた礎石か
ら塔の復元を試みると初層の規模は3×3m、心礎に穿たれた心礎心の径から推定する塔高がおよそ8m前後の多重塔で
あったことが想定できます。
 本塔の創建年代は、周囲から出土した古瓦片が武蔵国分寺創建期にあたる8世紀後半期の所産であると推定できるこ
とから、本塔の創建年代も8世紀後半と考えることができるでしょう。
                                  平成17年3月  児玉町教育委員会


※合併により現在は本庄市ですが説明板の表記のまま転記しました。




説明板の前に移築、復元された木造塔跡の組石群があります
上に見えるのは成身院百体観音堂(さざえ堂)
本庄児玉総合運動公園は写真の右方にあります




移築、復元された木造塔跡の組石群




心礎穴が穿たれた心礎

散策日:令和3年(2021)2月28日(日)