四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

鎌倉街道の宿駅に鎮座する『塚田三嶋神社』(埼玉県寄居町)

2020年11月30日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:三嶋神社(みしまじんじゃ)
旧 称:三島社
御祭神:・大山祇命(おおやまつみのみこと)
    ・木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
    ・少彦名命(すくなひこなのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧村社
例 祭:3月27日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県大里郡寄居町赤浜1973

寄居町赤浜字塚田に鎮座する「三嶋神社」は延喜式神名帳に於ける武蔵國男衾郡3座のうち
の 一つ『稲乃売神社」の論社の一社です(もう一社は同じく寄居町の「稲乃比売神社」)
神社の由緒を表す類いのものは設けられておりませんでしたので、三嶋神社の詳細について
は分りませんが、塚田は鎌倉街道上道の宿駅として栄え、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な駅
で、鎌倉街道の要衝であったようです。




塚田の『三嶋神社』参道入口
この道はかつての鎌倉街道跡と言われます





幟立ての右側に道路に面して設けられている「県指定文化財 鰐口」説明板

   県指定文化財
    鰐 口  一口
                             指定 平成十六年三月二十三日
                             所在 寄居町大字赤浜(三嶋神社)
 この鰐口は、鋳銅製で直径十九.九cm、厚さ六.九cmを測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇
に目を配置し、下半部側面には唇状の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも
水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古格を示している。
 鼓面外区の左右に、『武蔵國男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口應永二年乙亥三月廿七日』の銘文が刻まれて
おり、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永
二年(一三五九)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことな
どが分かる。
 さらに、当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も様式・
技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
 この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基
準的作例といえる。
  平成二十一年三月
                         埼玉県教育委員会  寄居町教育委員会




県指定文化財鰐口の説明板の右隣にある「塚田三嶋神社のヤブツバキ」説明板

 町指定天然記念物
    塚田三嶋神社のヤブツバキ
                    指定年月日 平成十九年一月三十日
                       所 在 地 寄居町大宇赤浜字後塚田一九七三
 ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑高木である。
 社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高十三.八メートル、目通
り一.三五メートル、根回り三メートルである。
 近くの杉の影響で、樹冠は北半分がほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているもの
の、樹勢は良好な巨木である。
 なお、両脇のヤブツバキは指定には至らないものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護し
たい。
  平成二十年三月
                                  寄居町教育委員会




『末社』 社名・祭神は分りません




『鳥居』と『社号標』




『手水舎』




『境内地譲與記念碑』            『拝殿改修之碑』




境内は小遊園地とまではいかないものの遊具が設置されています
左の建物は『社務所』兼『塚田集落センター』・『老人憩いの家』




『参道』




『狛犬』




『天皇陛下即位記念 末社覆殿改築之碑』




左側の『末社覆殿』 社名札がありませんのでどの末社が納められているのか分りません




右側の『末社覆殿』  上記同様




『拝殿』




『扁額』【三嶋神社】と揮毫されています




拝殿を斜め横から




『本殿』(覆屋)




社殿左側にある『ヤブツバキ』
真中のが町してお天然記念物のヤブツバキ




拝殿前から参道入口方向に

参拝日:令和2年)2020)10月7日(水)

黄色い鳥居のある『小被神社』(埼玉県寄居町)

2020年11月29日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:小被神社(おぶすま じんじゃ)
別 称:ー
御祭神:主神・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
    配祀・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
      ・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 
創 建:(社伝)安閑天皇の代(531~535年)
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:10月第2日曜日 秋祭
指 定:ー
鎮座地:埼玉県大里郡寄居町富田1508

「小被」を【おぶすま】と読める人は少ないでしょう。この小被神社のある旧郡名は「男衾郡」で、
これでさえ【おぶすまぐん】と読める人は多くはないでしょう。
知らない人は小被神社を「こひじんじゃ」と読むそうな。
「延喜式」神名帳に登載される男衾郡3座の一つで、古代から郡の惣鎮守として崇敬されているこの
小被神社は、富田鹿が富田村字塚越(現在の不動寺境内)に祠を建て、小被神を祀ったのが始まりと
伝えられるようです。
寛文9年(1669)には、富田村民と、天正8年(1580)の荒川の大洪水で移ってきた赤浜村民の間で発
生した領境論争により、現在の鎮座地に移転したとのことです。





『一の鳥居』  若干褪せていますが黄色の鳥居です。
左側のコンクリート円柱は『社号標』で【延喜式内小被神社】と刻まれています
右側の石碑には【武蔵国延喜式内小社小被神社 延喜式撰上一千年蔡記念碑】とあります




『一の鳥居』 この先正面に小被神社の社叢があります




『扁額』【延喜式内 小被神社】と揮毫されています




農道そのものですが『参道』です




『二の鳥居』の正面に来ました
道路を横切り境内に  右側の建物は『社務所』




『二の鳥居』 こちらは普通の白い鳥居・・・何をもって普通というかは?




『小被神社説明板』




     小被神社 略誌
鎮座地   埼玉県大里郡寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神   主神 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
      相殿 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
      相殿 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと) 
由  緒  富田邑は、第27代安閑天皇の朝、1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、
     富川鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平
      安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1081
      年前。
      男衾郡総鎮守
      旧村社
御神徳   主神 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕
      殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。
      相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかり
      てお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。
      相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊 の
      御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。
祭  日    (省略)
   平成18年10月吉日
                                  小被神社社務所




『手水舎』




『神楽殿』




『参道』




『狛犬』




『拝殿』(社殿)




拝殿内
幔幕に入った紋は「十五菊」紋




社殿を斜めから




『御神木』




境内摂社『伊勢原 神明神社』  二の鳥居に一番近い場所




神明神社の背後に四社の境内社が並んでいます
手前から『中郷 愛宕神社』・『谷津 白山神社』・『塚越 稲荷神社』・『下郷 内の宮社』




『中郷 愛宕神社』




『谷津 白山神社』




『塚越 稲荷神社』




『下郷 内の宮社』




『牛頭 天王宮』




石祠二基




『富士浅間大神』




『社務所』




社殿前から二の鳥居方向に

参拝日:令和2年(2020)9月28日(月)

源頼義が戦勝祈願のために白旗を献上した『赤浜出雲乃伊波比神社』(埼玉県寄居町)

2020年11月27日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:出雲乃伊波比神社(いずものいわい じんじゃ)
別 称:八幡神社・白旗八幡社・赤浜八幡社
御祭神:主神・須佐之男命(すさのおのみこと)
    配祀・三穗津姫命 誉田別命 天児屋根命 天太玉命 天穗日命
    合祀・天照皇大神 軻遇突智命
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:10月20日 大祭
指 定:ー
鎮座地:埼玉県大里郡寄居町赤浜723

式内社・男衾郡3座のひとつとされる寄居町赤浜地内に鎮座する『出雲乃伊波比神社』を訪ねて
みました。
出雲乃伊波比神社は「延喜式」神名帳に登載された武蔵国男衾郡3座の一つですが、同郡板井村
(大里郡江南町・現熊谷市)にも同名の神社があることからともに論社とされています。
古くは川本町畠山(現・深谷市)に鎮座していたと言われる。古資料減失したために創建年代は
不明。天喜年間(1053~58)の前九年の役の際、源頼義が陸奥国へ向かう途中で戦勝祈願のため
に同社へ参拝し、白旗を献上したことをきっかけに「白籏八幡社」と改称されたと言います。弘
治3年(1557)に赤浜村下河内(現在の花園橋付近)に移転し、さらに天正8年(1580)に荒川の
大洪水により、住民と共に現在の鎮座地に移転したとのこと。
明治に入り、創建当初の社名の「出雲乃伊波比神社」に改称された。




神社入口




『鳥居』  屋根が付き鳥居自体がまるで社殿のようである




向拝屋根の付いた立派な『扁額』(社号額) 【出雲乃伊波比神社】




『社号標』 【延喜式内 郷社出雲乃伊波比神社】
背後にある建物は、『出雲乃伊波比神社社務所・赤浜集会所』




手前から『浅間大神』・『天照皇大神』・『榛名社』
末社(覆屋内) 左から『蚕影大神』『三峰大神』『古峰大神』『天満社』『愛宕大神』
『白山大神』『伊奈利社』




『参道』




『手水舎』




『旧郷社 出雲乃伊波比神社由緒説明板』




「御由緒」




    参道左側:各種記念碑         参道右側:馬大神、征軍記念碑等




『拝殿』




境内社『妙見社』




『妙見社御由緒』碑




『神楽殿』




境内社『八坂神社』  石祠(社名不詳) 




拝殿正面




『狛犬』




拝殿正面を右側から
向拝右側に懸かっている額 中央に「「延喜式内 出雲乃伊波比神社」とあり 他は判読不能




『向拝』




拝殿内




隅棟鬼飾りには「左三つ巴紋」




拝殿側面




『本殿』
塀と金網で彫刻がよく見えません




本殿大棟には中央に「菊紋」 左右に「左三つ巴紋」 鬼飾りに「菊紋」
当社と「菊紋」の関係が分りません




本殿背後から





右側の叢林の中に出雲乃伊波比神社は鎮座します
坂を下ると荒川に突き当たります

参拝日:令和2年(2020)9月27日(日)

ポンポン山の『高負彦根神社』(埼玉県吉見町)

2020年11月25日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)
旧 称:玉鉾氷川明神
御祭神:・味鉏高彦根尊(あじすきたかひこねのかみ)
    ・大己貴尊( おおあなむちのみこと )
創 建:和銅3年(710)
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:7月18日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町田甲1945

平安時代の延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳の『武蔵国横見郡』に記載され
た式内社は三社で、そのうちの一社『高負比古神社』に比定されるのが吉見町田甲地内に
鎮座する『高負彦根神社』です。当社は通称「ポンポン山」と呼ばれる玉鉾山という岩山
の頂上に鎮座しています。




高負彦根神社を若干遠景で




【高負彦根神社(ポンポン山)】の大きな看板




鳥居左側の『社号標』 【高負彦根神社】とのみあり




鳥居右側から




鳥居右側の『社号標』 
古い物のようで やはり【高負彦根神社】と刻まれているようですが一部読めません




古い社号標の右側にある『獅子封じ塚』の説明板

     獅子封じ塚
 昔、高生郷(現在の田甲)には、獅子舞いの古い行事がありました。
 今から、数百年前ごろの旧暦6月の某日、悪疫退散のため、獅子頭を冠り、戸毎を訪問する行事が
行われておりました。
しかし、ある年、痢病が著しく発生し、死者も多く出たので、村人たちは、これは産土神のお咎めで
はないかと恐れ、獅子頭を境内に埋没し、その上に柊(昭和12年に大柊は、県指定文化財となるが、
現在は二代目)を植えて、獅子封じをしました。それ以来、痢病もおさまり、平和になったと言れて
います。
※痢病・・・腹痛や下痢の激しい伝染病の類。
※産土神・・・その生まれた土地を守護する神、鎮守の神。
※高負彦根神社の三鉾・・・湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)




石碑の背後にあるのが『獅子封じ塚』
写真汚撮り方を失敗しました よころでこの石碑は何?




『鳥居』 明神鳥居のようです




鳥居の『扁額』 【高負彦根神社】と揮毫されています




『手水石』




拝殿を正面にして境内を




社殿を右斜めから




『拝殿』




向拝の入母屋破風の棟鬼飾りには【髙負】




拝殿正面




拝殿正面を横から




拝殿の『扁額』  横書きです 
文字数が多いため縦書きにすると額が大きくなる或いは文字が小さくなるからと勝手な推理




拝殿内




拝殿を左斜めから




拝殿側面




『本殿』(覆殿)




境内社『三峰神社』




本殿のやや右後方に設置されている『ポンポン山(高負彦根神社)』説明板

     ポンポン山(高負彦根神社)
 縁起式内社で昔は玉鉾氷川明神とも称した。
 祭神は、味鉏高彦根尊、大己貴尊ともされるが素戔嗚尊ともいわれる。
 社記によれば、和銅3年(710年)創建と伝えられる古社で、宝亀3年(772年)12月19日の
太政官符に「案内ヲ検スルニ、去ル天平勝宝7年(755年)11月2日ノ符ニアグ。武蔵国幣帛ニ預
ル社四処」として、その一つに「横見郡高負比古乃神」と記してある。
 社殿の後方の巨岩に近い地面を強く踏むとポンと音を発する。そこでこの山をポンポン山とも言う。
巨岩の
直下20メートルの平地は古代荒川の流路であった。吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社
が存在したのはこの地域が早くから開発が進んでいたことによるものと思われる。
 平成10年3月
                                    吉見町・埼玉県




社殿を『ポンポン山』から




当社の鎮座する玉鉾山(ポンポン山)
この岩山の前あたりの地面を強く踏むと『ポンポン」と音がするとのことから名付けられた由
残念ながら音を聞くことはできませんでしたが・・・
この先は20メートルの崖の下に平地が広がっているとのこと




『庚申塔』があります
神社参道の方から見た限りでは岩山の上に社が鎮座しているようには見えませんでしたが




岩山からの展望ですが崖縁まではとても行けませんでしたので・・・

参拝日:令和2年(2020)10月11日(日)

大里郡にあっても『吉見神社』(埼玉県熊谷市)

2020年11月24日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:吉見神社(よしみじんじゃ)
旧 称:神明社・天照太神宮
御祭神:天照大神(あまてらすおおみかみ)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:4月17日  例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県熊谷市相上1639-1(旧大里郡大里町)

延喜式内社の武蔵国横見郡では、横見神社、伊波伊神社、高負比古神社の三社があります。
そのうちの「横見神社」については吉見町御所の横見神社が神名帳に載る横見神社とされていますが、
同町久保田の横見神社同様に、この熊谷市相上に鎮座する「吉見神社」を論社と捉えている方もいるよ
うです。論社とする根拠や、論社であるか否かは素人の私に全く分りませんし、横見郡の式内社をなぜ
大里郡に鎮座する神社を論社とするのかの疑問もあります。それはともかくとして、一応、論社という
ことでもありますし、単に神社めぐりでもよいかと訪ねてみました。
「吉見」は「横見」が転じたものと言われますから、「吉見神社」すなわち「横見神社」との解釈か?
今では、「吉見」と言えば比企郡吉見町を思い起こし、その𠮷見町とその付近がが横見郡であったと言
われます。
ではなぜ旧大里郡大里村(町)であったここに𠮷見と称する神社があるのかと不思議に思えるかも知れ
ません。
実は、この大里村は元は大里郡吉見村で昭和30年(1955)1月1日、同郡市田村との合併により「大里村」
となりました。一方、比企郡吉見町は、昭和29年(1954)7月1日、東吉見村、西吉見村、南吉見村、北
吉見村の4村が合併して「吉見村」となったわけですので、先にあった吉見村は大里郡にあったわけです。
旧大里村と現吉見町は地続きであることから横見郡とは密接な関係にあったことが容易に窺えます(大
里郡吉見村がそれ以前は横見郡の一部であったかどうかまでは調べられませんでしたが)
𠮷見神社は、かつては上吉見領(村岡・手島・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山等23ヶ村)の総鎮守だった
ようです。
吉見神社の創建年代等は不詳ながら、景行天皇五十六年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれ
ず不毛の地であることを嘆いて、多くの里人を移して多里郡(大里郡)を設置、天照大神ゆかりの筬を
神体として天照大神を祀ったとも、御諸別王が関東下向の時、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田
が日ならずして成ったことから天照大神を斎い祀ったとも伝えられます。
御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しているとことで、現宮司須長家はこの末であるとのことです。





県道357号沿いに建つ『社号標』【郷社 吉見神社】




『一の鳥居』
鳥居の先参道左側にあるのが代々吉見神社の神主を務める須長家の墓所




神職の墓所だけに鳥居のある大きな墓所です
入口を入ってすぐの両脇に『狛犬』




『二の鳥居』




二の鳥居を潜ってすぐの右手にある 『奉納 永代御供米田地』碑  慶應2年建立




境内の参道  左手に並んでいる石碑は『伊勢参宮記念碑』




参道右手の石灯籠と手水舎の間に石祠が2基
門番の役目をしているとのことです




『手水舎』  井戸とは珍しい




社殿に近くなってきたところで一段高くなっています




『神楽殿』




参道左側の末社(石祠)群
左から 天神宮・金毘羅大神社・頭大宮・辯才天女宮など8社




上記末社(石祠)群の右側に設置してある『相上神楽』説明板

 村指定無形民俗文化財
   相 上 神 楽
                         指 定 昭和五十四年五月十四日
                         所在地 大里村大字相上
                         期 日 七月十五日 吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保六年(1835年)八月に関東地方を襲った嵐により、荒川や
吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社
に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言
われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等で
あったが、昭和四十年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成七年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供
たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
                           大里村教育委員会




社殿のある場所は一段と高くなっており玉垣に囲まれています




拝殿手前の『遥拝所』


      

      『御神木』




『拝殿』




拝殿を左斜めから
拝殿前に至るには左側の玉垣の切れた所から入ります。石が拝殿前まで敷かれています。




『本殿(覆殿)』(奥)と『拝殿』(手前)




拝殿屋根の「千木」と「鰹木」
鰹木の先端丸い部分は【左三つ巴】紋が入っています




『本殿(覆殿)』




『本殿(覆殿)』 角度を変えて




社殿全体を玉垣の外から




社殿全体を社叢林の木々の間から




拝殿左手の摂社群  覆屋の中央の柱を境に左右に7社づつ
左半分:左から 三嶋神・興玉神・秩父神・荒祭神・玉造神・斎王神・浅間神
右半分:左から 日枝神・雨降神・賀々美神・二荒神・水分神・養蚕神・豊受荒魂神
神名を書いた紙が貼ってあったからこうして神名を書けますが、なかったら分りません




玉垣で囲まれた社殿エリアには右側にあるこの石段から入ります




拝殿の右側の石碑と摂社




『石碑』 【鈴水神楽記】とありますが碑文は読めません




『天神社』




『東宮』




『伊奈利社』



拝殿の右側にある摂社{10社) 左から 
月読神・風祈神・鹿島神・春日神・香取神・氷川神・杵築神・伊邪那岐神・住吉神・御年神
これも神名を書いた紙が貼ってあるので分るわけですが、なければ全く分りません




沼でしょうか 本殿の背後の方まで続いています

参拝日:令和2年(2020)10月14日(水)

社号の漢字がない『みか神社』(埼玉県美里町)

2020年11月23日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:みか神社(みかじんじゃ) ※甕甕神社
旧 称:-
御祭神:・櫛御気野命(くしみけぬのみこと)
    ・櫛瓺玉命(くしみかたまのみこと)
創 建:不詳
社 格:延喜式内小社・旧県社
例 祭:4月15日  10月15日
指 定:-
鎮座地:埼玉県児玉郡美里町広木1

みか神社の創建年代は不詳ながら、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳の武蔵国那賀郡1座
「甕たま神社」(ミカタマノ ジンジャ)に比定される式内小社の古社で、那賀郡総鎮守として崇敬
された旧県社です。那賀郡とは現在の美里町周辺を指します。
社名の「みか」とは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされて
いたと思われる土師器のミカが4個保存ざれているといいます。
みか神社の漢字は難しく、「み」の「瓺」はあるものの「か」はPCでは出てこない漢字で、この神
社だけで使っている漢字とのことです。
中には「か」の字を作字する方もいるようですが、大方の方は平仮名で「みか」と書いていますので、
私も平仮名を使わせていただきます。なお、「全国神社祭祀祭礼総合調査」では甕甕神社と表記して
いるとのことです。
この神社の前は何度も通っており、社号標を見るたびに珍しい漢字の神社だなと思いながら通過して
おりました。過去にも訪れて何枚かの写真を撮ってはあったのですが、記事にするだけの枚数ではな
かったことからあらためて訪問(参拝)してきました。延喜式内社めぐりを兼ねて・・・




国道254号沿いjにある「みか神社」参道入口に建つ『社号標』




『芭蕉句碑』  麦刈りて桑の木はかり残りけり 




『社務所』(左)と『鳥居』(右)
写真では見えませんが社務所の向拝の鬼飾りに入っている紋は「左三つ巴」




『鳥居』




『鳥居』と『手水舎』、『神楽殿』




『みか神社説明板』

   みか神社
                          所在地 児玉郡美里村大字広木
 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に.
櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保八年(一七二三)に正一位を授けら
れたと伝えられ、宝暦八年(一七五八)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。現
在の社殿は宝暦十三年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
 社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていた
と思われる。土師器のミカが四個保存ざれている。
 例祭は、毎年四月十三日と十月十五日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを
神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと
交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。
 昭和五十八年三月
                                      埼 玉 県




『手水舎』
手水舎主棟鬼飾りに入っている紋は「左三つ巴」




『水盤』 自然石を上手く利用しているようです




『境内』




『神楽殿』
神楽殿主棟鬼飾りに入っている紋は「十六菊」紋




『拝殿』




『拝殿』 更に近づいて




『狛犬』




拝殿の『扁額』
頭に「正一位」とあるのは享保8年(1723)正一位の神階を授かったということから




拝殿正面を横から




拝殿屋根の大棟にも「十六菊」紋




拝殿主棟鬼飾りには「鬼」が




拝殿を斜めから




『本殿』




本殿主棟と鬼飾りには「左三つ巴」
社務所、手水舎は「左三つ巴」 神楽殿は「十六菊」
拝殿は「十六菊」 そして本殿は「左三つ巴」です
本殿に「左三つ巴」が使われているので当社の神紋は「左三つ巴」と思えますが、ちょっと気になる
こともありましたし、神主さんお聞きすれば解決するのでしょうけれど不在中につきお聞きできませ
んでした。





本殿の彫刻




社殿全景




社殿の右側に並ぶ境内末社




左から【松尾神社・山王神社】【蚕影社・神明神社・天神天満宮】【諏訪神社・産泰社】




石祠群




『地神碑』と言うものだそうです




『遥拝所』




みか神社の社叢林




みか神社の北側にある『摩訶池』畔の『弁天神社』




『摩訶池』  ゴルフ練習場になっていますので池にはゴルフボールがいっぱい

参拝日:令和2年(2020)10月7日(水)

黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する『伊波比神社』(埼玉県吉見町)

2020年11月22日 | 神社仏閣
◇延喜式内社◇


社 号:伊波比神社 (いわいじんじゃ)
旧 称:岩崎大明神・岩井神社・岩井八幡
御祭神:・天穂日尊(あまのほひのみこと)
    ・誉田別尊(ほむたわけのみこと)
創 建:和銅年間(708~715)
社 格:延喜式内小社・旧村社
例 祭:10月14日 例祭
指 定:-
鎮座地:埼玉県比企郡吉見町黒岩347

伊波比神社は、平安時代の延長5年(927)に作成された『延喜式』神名帳に記載された式内
社で、武蔵国横見郡3座のうちの一社です。
現在の吉見町が武蔵国横見郡の横見郡があったところと推定されていますが、狭い郡内に三
社もの式内社があると言うことは他には類を見ないかもしれません。
現地に当社の由緒などを示す説明板の類いの設置がありませんので詳細は分りませんが、観
光地となっている八丁湖という人工池に向かう途中の吉見町黒岩の丘陵地の斜面に鎮座する
こぢんまりした神社です。
 



道路に直接面している参道入口の石段




【延喜式内 伊波比神社】とある標柱




『鳥居』 小ぶりな両部鳥居です




『扁額』 【延喜式内 伊波比神社】
小さな神社でも「延喜式内」であることはステータス




『手水石』(水盤)




更に石段の参道は一直線で続きます




『社殿』




こぢんまりした社殿です




格子の隙間から社殿内を




山の斜面を削平した神社敷地だけあって狭いです




境内社『岩崎神社』
社は小さな石祠です




社殿前から参道を見下ろしています




『遠景』  もう少し離れたところから撮ればよかったかもしれませんが・・・

参拝日:令和2年(2020)10月11日(日)

源頼義・義家父子が流鏑馬を奉納した『出雲伊波比神社』(埼玉県毛呂山町)

2020年11月21日 | 神社仏閣
◇延喜式内社〔論社〕◇


社 号:出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)
旧 称:飛来明神(毛呂明神)
御祭神:・大名牟遅神(おおなむちのかみ)
    ・天穂日命(あまのほひのみこと)
      他17柱の神 
創 建:景行天皇53年(123年)
社 格:延喜式内小社〔論社〕・旧郷社
例 祭:11月3日 秋季例大祭(古式流流鏑馬) 他
指 定:国指定重要文化財(名称:出雲伊波比神社本殿〔附:棟札2枚〕昭和13年7月4日指定)
鎮座地:埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5-17-1

毛呂山町の小高い独立丘陵である臥龍山の上に院座する『出雲伊波比神社』を暫くぶりに訪ねてみま
した。
同社は、延喜式内社の武蔵国入間郡5座のひとつである「出雲伊波比神社」の比定論社の一社で、他
の論社には、川越市・氷川神社、入間市・出雲祝神社などがあります。
記憶では公私併せて過去4回行っておりますが、いずれも秋の流鏑馬の時でした。そんなことから社
殿をじっくり見るということはありませんでしたので、今回はしっかりと見て来たつもりなのですが。
出雲伊波比神社の歴史や流鏑馬については、境内にある説明板の内容を転記しておきますが、それ以
降について少し触れてみます。
当神社は、平安時代には醍醐天皇の勅命で編纂さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の
筆頭にあげられています。鎌倉時代以降は武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、
大永7年(1527)に社殿が焼失し、翌亨祿元年(1528)に、当地を治めていた毛呂三河守顕繁が再建
しました。天正2年(1574)には北条氏政が板屋葺造営とあります。
現在の本殿は、毛呂三河守顕繁の再建時のもので一間社流造、県内最古の神社建築であるようです。





境内南西にある参道上り口  右側に大きな社号標【出雲伊波比神社】




石段を上がります
石段脇にある柱は祭礼の時に提灯を吊るすためのものでしょう




石垣と玉垣の間を左に曲がってすぐのところに一の鳥居が建っています




『一の鳥居』




『狛犬』
【灯籠(とうろう)・狛犬(こまいぬ)にはよりかからないで、のぼらないでください。】
と書かれた注意書きが括りつけられています。




『社務所』




一の鳥居の右横に建つ社号標【出雲伊波比神社】




一の鳥居から社殿方向
茶色の灯籠は、陶器製のようです




『神楽殿』




『手水舎』
柱には【新型コロナウイルス感染防止のため手水の使用を止めています】の貼り紙




『二の鳥居』




『拝殿』
千鳥破風・唐破風(向拝)の付いた入母屋造 昭和58年(1983)に改築




『拝殿』を斜めから




左:「國寶出雲伊沙比神社本殿」と刻まれた標柱。本殿は、旧・国宝保存法において国宝に
  指定されていたが、戦後、文化財保護法にかわり「国指定重要文化財」となった
中:出雲伊波比神社のやぶさめ説明板
右:出雲伊波比神社 由緒書




「出雲伊波比神社 由緒書」

    出雲伊波比神社
祭神 大名牟遅神・天穂日命・品陀和気銘・(応神天皇)・息長帯比売命 他  
   出雲を中心として国土経営・農業・産業・文化を興され、全ての災を取り除かれた大名牟遅神、
   天孫のために出雲の国土を移譲する、いわゆる国譲りに奔走され大名牟遅神が杵築宮(出雲大
   社)に入られたのちそのみたまを斎き祀る司祭となられた天穂日命、この二柱の神が主祭神で
   家内安全、病気平癒、開運招福、商売繁昌の神としてあがめらる。
社地 古く出雲臣が斎祀する社であった。景行天皇五十三年(123年)に倭建命が東征凱旋の際侍臣
   武日命(大伴武日)に命じて社殿創建、神宝として比々羅木の矛をおさめられたと伝えられ、
   現に東北を向いて鎮まり坐す。
神名 出雲伊波比の神名初見は宝亀三年(772年)の太政官符においてで当社はそれによってその証
   拠をえたのである。それによると当社は天平勝宝七年(755年)には官幣に預る「預幣の社」と
   なり、延喜式神名帳にも記載され当社が延喜式内社とよばれるゆえんがそこにある。
本殿建築
   流造一間社で屋根は桧皮葺型式、大永八年(享楽元年・1528年)九月廿五日毛呂三河守藤原朝
   臣顕繁再建によるもので、埼玉県下最古の神社建築である。大永八年・宝暦十二年(1762年)
   の棟札二面とともに国指定重要文化財。
   昭和三十二~三十三年文部省は解体修理をおこなった。
例祭 十一月月三日 県無形文化財民俗資料選択の「古式流鏑馬」が奉納される。九二十年の歴史を持
   つ。
    昭和六十一年八月




「出雲伊波比神社のやぶさめ」説明板

~流鏑馬の里をめぐる~
  出雲伊波比神社のやぶさめ
 出雲伊波比神社のやぶさめは、平安時代の後期、源頼義、義家父子が奥州平定のため当社にて戦
勝祈願を行い、凱旋途中の康平六年(一〇六三)、再び立ち寄り、流鏑馬を奉納したのが起源と伝え
られています。毎年十一月三日に行われる秋の流鏑馬は、毛呂山町の晩秋の風物詩として親しまれて
います。
 三つの当番区の三人の小中学生たちが乗り子となり、騎射を行う全国的にも珍しい民族行事です。
乗り子は約十日間、稽古、精進を重ね本番に臨みます。
 流鏑馬は、午前の朝的、午後の夕的の二回行わtれ、特に夕的では、勇壮な騎射のほか、ムチ、ノロ
シ、扇子といった馬上芸が次々と披露され、凛々しい少年騎士たちの姿を見ることが出来ます。
 平成二十二年九月 
                           毛呂山町教育委員会

昔、私が聞いた話では乗り子に選ばれるのは、今は合併により毛呂山町となっていますが、
それ以前の毛呂村に代々住んでいる家の長男に限るというような話でした’少子化の今はど
うなっているのか分りませんが)
この出雲伊波比神社の流鏑馬は、一の馬・二の馬・三の馬によって奉納され、それぞれ色分
けされ、白は源氏を、紫は藤原氏を、そして赤は平氏を表していると言います。




瀬戸大也選手奉納の『願的』
オリンピック・アジア大会・世界水泳等のメダリストである瀬戸大也選手は毛呂山町出身で、
平成17年(2005)には乗り子として騎乗しているとのこと。




大棟 と 千鳥破風鬼飾り・唐破風鬼飾りには 『五七桐紋』が入っています




向拝の各部に施された彫刻




【出雲伊波比神社】と揮毫された『扁額』




『本殿』 一間社流造、銅板葺
国指定重要文化財 『本殿(附:棟札2枚)』指定年月日:昭和13年(1938.)7月4日




瑞垣が高くて屋根しか見えません  格子の隙間から覗くも見えません
本殿の棟紋は中央に『三つ葉葵紋』 左右に『『五七桐紋』
『三つ葉葵紋』は、江戸時代には3代将軍徳川家光が社殿を修理するなど、徳川幕府の庇護
も厚く慶安元年(1648)には、飛来明神社として社領10石の御朱印状を受領していることに
由来するものでしょう




格子の隙間からどうにか見えたのは本殿の門  唐門でしょうか




境内社『八幡社』




『授与所』?




社殿を西側から




『流鏑馬馬場』  
秋季例大祭で行われる古式流流鏑馬は【出雲伊波比神社のやぶさめ】の名称で「埼玉県指
定無形民俗文化財」となっています




こちらは出雲伊波比神社が鎮座する『臥龍山』の北側にある参道
左側の道路からは車でも上がれ、一の鳥居の横に着けられます(スピードは落としてね)




『扁額』




鳥居をくぐるとこんな雰囲気のある参道です




こちらが車でも行ける参道(側道でしょうか)




中央からちょっと右に寄った所にある杜が『臥龍山』
(竜谷山城本郭跡から平成29年(2017)11月9日撮影)

参詣・散策日:令和2年(2020)9月16日(水)

紅葉見ナイト

2020年11月18日 | 花・鳥・風景


また行ってきました。武蔵丘陵森林公園へ。昨日は、昼間の紅葉を観るだけのつもりで出かけまし
たが、帰宅してから「やっぱりライトアップも観てみたい!」
ということで2日続けて森林公園へ・・・









































散策日:令和2年(2020)11月18日(水)