四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

矢那瀬の石幢(埼玉県長瀞町)

2021年06月30日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:矢那瀬の石幢(やなせのせきどう)
別 称:北久保の六地蔵
種 別;供養塔
造立年:明応8年(1499) 室町時代
指 定:埼玉県指定有形文化財(考古資料)(名称:矢那瀬の石どう 昭和30年〔1956〕11月1日指定)
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町矢那瀬字北久保 喜田窪地蔵堂

長瀞町矢那瀬の地蔵堂に芭蕉句碑と共に石幢があるとのことでしたので訪ねてみました。
                               (芭蕉句碑は別に投稿します)




国道140号沿いの秩父市に向って右側に「県文化財指定 矢那瀬の石幢 入口」の標識があります
脇には「矢那瀬の石幢」・「芭蕉句碑」・「地蔵堂入口」の木札が貼られた古い標柱もあり
※この写真では寄居町方向を向いています




標識脇の狭い道を入って行きます




近くに板石塔婆石材の緑泥片岩の原産地があることからでしょうか緑泥片岩の生垣です




更に進むと「矢那瀬の石幢 ←」の目印




赤い方形造りの『喜多窪地蔵堂』




「喜多窪地蔵堂」と揮毫された寺額
地名は「北久保」 お堂は「喜多窪」と表記  どちらが先か?




立派な「埼玉県指定有形文化財 矢那瀬の石幢」説明板




説明文




明応8年造立、高さ1.8m、車石付の『矢那瀬の石幢』
右の方に芭蕉句碑が建立されていますが草に隠れてしまっています




『矢那瀬の石幢』
六地蔵が刻まれていることから「北久保の六地蔵」とも呼ばれるようです
外見は石灯籠に似ていることから往時は石灯籠と考えられていたそうですが「供養塔」です




「龕部」(がんぶ)には六地蔵が刻まれtれいますがその一面




「輪廻車」と呼ばれる石車

散策日:令和3年(2021)5月28日(金)

国指定史跡「野上下郷石塔婆」(埼玉県長瀞町)

2021年06月29日 | 史跡・遺跡・文化財

                            樹木の上に顔を見せている野上下郷石塔婆
名 称:野上下郷石塔婆(のがみしもごういしとうば)
別 称:-
種 別:板石塔婆
形 状:緑泥片岩 高さ1丈6尺7寸(約5m)、幅3尺3寸2分(約1.2m)、約厚さ4寸(13cm)
造立年:応安2年(1369)
指 定:国指定史跡(名称:野上下郷石塔婆 昭和3年〔1928〕2月7日指定)
所在地:埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷

『野上下郷石塔婆』は、仲山城主阿仁和直家が落城の際討死し、13回忌の応安2年(1369)10月に、
夫人の芳野御前(妙円尼)が追善供養のために建立したもので「天道大日如来碑」とも称されます。
現存する青石塔婆の中では日本一の高さ(5.35m)を誇り、昭和3年に国指定史跡となっています。




野上下郷石塔婆は、元は現在地から50mあまり南の荒川沿いにありましたが、明治25年(1892)の
県道(現在の国道140号)拡幅の際に現在地に移設されたものです。




隣に人でも立てば大きさがよくわかるかもしれませんが、比較するものがない状態でも大きいと
わかります。




『史蹟 野上下郷石塔婆』石碑と「国指定史跡 野上下郷石塔婆」説明板
石碑の側面には 【名勝天然記念物保存法二依リ
         昭和三年二月  内務大臣指定】 とあります
現在の国指定は文部科学大臣ですから時代を感じます




「国指定史跡野上下郷石塔婆」説明板




野上下郷石塔婆を単体で撮影

石材は緑泥片岩で、表面上部には釈迦如来が刻され、次に梵字で
       願以此功徳
       普及於一切
       我等与衆生
       皆共成仏
の光明真言の偈が4行にわたって刻まれています
下部には応安二年己酉十月日の年時が記されています(↓)




       権小僧都大檀那道観 
       比丘尼妙円  行阿
     応安二年酉己十月 日 敬白
              正家
              正吉
       結衆   三十五人 
              道観

散策日:令和3年(2021)5月28日(金)


権現坂埴輪窯跡群(埼玉県熊谷市)

2021年06月28日 | 古代窯跡


名 称:権現坂埴輪窯跡( ごんげんさかはにわかまあと)
種 別:埴輪窯跡
時 代:古墳時代
指 定:埼玉県選定重要遺跡(名称:権現坂埴輪窯跡 昭和44年〔1969〕10月1日選定)
    熊谷市指定史跡(名称:権現坂埴輪窯跡群(西群) 平成10年〔1998〕2月10日指定)
所在地:埼玉県熊谷市千代 (旧・大里郡江南町)

旧・江南町に権現坂埴輪窯跡があるということを最近知りましたので訪ねてみました。
しかし、おおよその場所は分っても地図等には載っていませんし、具体的にどこなのかは分りませんでし
たのでいろいろ調べたところ現地に説明板が建っていることが分りました。取り敢えず説明板を見つけれ
ばと2度足を運んでやっと辿り着きました。




権現坂埴輪窯跡のあるおおむねの位置です




県道47号(深谷東松山線)から権現坂埴輪窯跡のある方向を・・・住宅が並んだ後方の山林の中




何カ所かありそうな山林への道の中から取敢えずここを進んでみることに




少し歩いた所にありました『権現坂埴輪窯跡群』の説明板が(やったー)
前回は上の写真の少し手前まで捜し歩いたのに見つけられませんでした




『権現坂埴輪窯跡群』説明板

この説明板によると昭和37年(1962)に、埼玉県教育委員会の発掘調査で5基の埴輪窯跡を確認されたと
ありますが、この部分が「権現坂埴輪窯跡跡」の名称で埼玉県選定重要遺跡に選定されたものと思います。
その後の江南町の発掘調査によって確認された開析谷西側の約10基の埴輪窯跡の部分を江南町が「権現坂
埴輪窯跡跡群(西側)」の名称で江南町指定史跡としたようです(合併により現在は熊谷市指定史跡とな
っています)
しかし、この東西2群の埴輪窯跡を統括した史跡指定等は現在のところありません。




上の写真の案内板には見取図の類いのものがありませんから、「開析谷」というのはどこを指すのか。
また、埴輪窯跡のある場所も全くわかりませんので、案内板の後方や周囲の写真を何枚も撮ってみまし
た。もしかしたらこの堀のようなところが開析谷?
【窯跡】、【住居】」などと言った立て札なり杭でも建っていれば助かるのですが、私有地ですし色々と
難しい問題もあるでしょうから・・・




埴輪窯ですと登り窯になりますので斜面を利用することになりますが、この斜面では無理があるのではな
いかと素人ながら思いますので窯跡は別の場所かも知れません?




いずれにしろ案内板が建っているということはこの辺りが権現坂埴輪窯(群)の場所であることは間違い
ないことでしょうから。【場所の確認』という所期の目的は達成できたと思いましょう。
考古学の難しいことは分りませんので・・・



                                        2020.11.1撮影
権現坂埴輪窯跡から出土した「盾持人埴輪」 古墳時代後期 所蔵:熊谷市教育委員会 
昨年秋のさいたま史跡の博物館の企画展「盾持人埴輪の世界」見学の際に展示されたものを偶々撮影して
いました。
         
散策日:令和3年(2021)5月24日(月)

観音寺の芭蕉句碑(埼玉県熊谷市)

2021年06月27日 | 歌碑・句碑


 句 : 寺に寝て まこと顔なる 月見かな
     (てらにねて まことがおなる つきみかな)

出 典: 『鹿島紀行』  貞亨4年(1687)8月 芭蕉44歳の時の句
所在地:埼玉県熊谷市下増田(旧・熊谷市) 浄恩寺
建立年:不明
建立者:不明

この句は芭蕉が鹿島詣での折根本寺に於ける作句の一つで、桃青の名で詠んでいる。
碑は建立年不明なるも幾星霜風雪にさらされ泥砂にまみれたるにまかせたので、その損傷を惜み、
昭和45年(1970)築山を設けてここに移してたとのこと




【浄恩寺本堂】  真言宗智山派のお寺で大悲山慈眼院観音寺と号します




本堂前で草むしりをしていた住職の奥さんに句碑の場所をお尋ねし、写真撮影の許可をお願いした
ところ、わざわざ築山まで案内してくれたうえ、句碑の前に生えていた雑草まで取り除いていただ
きました 多謝

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)

塚廻り古墳群第4号古墳(群馬県太田市)

2021年06月26日 | 古墳


名 称:塚廻り古墳群第4号古墳(つかまわりこふんぐんだい4ごうこふん)
別 称:-
墳 形:帆立貝形古墳(造出付き円墳)  
規 模:墳丘長106m、円丘部84m、高さ7m、造り出し部幅18m、長さ16m
築 造:6世紀前半頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:群馬県指定史跡(名称:塚廻り古墳群第4号古墳 昭和52年〔1927〕9月20日指定)
所在地:群馬県太田市龍舞町3089ほか(旧太田市)

塚廻り古墳群は1号墳から13号墳の13基からなりますが、その大半は削平されたり埋戻し保存されており、
第4号墳が古墳公園として整備され公開されています。
今回もこの場所に辿りゆくまでが大変でした。番地はあれどナビには表示されませんし、広い耕地の中で
墳丘がありませんので全く目立つことがありませんので・・・




北西方向から古墳公園の塚廻り4号墳を  
公園北西隅に「群馬県指定史跡塚廻り古墳群第4号古墳」の石標が建立されている


北東方向から塚廻り4号墳を 




『群馬県指定史跡 塚廻り古墳群第四号古墳』説明板
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 群馬県指定史跡 塚廻り古墳群第四号古墳
                             指定年月日 昭和52年9月20日
                             所 在 地 太田市龍舞町3089-2ほか
 昭和51年度に行われた太田市東部地区ほ場整備(土地改良)事業の際、偶然水田下から発見された7基の
古墳のひとつである。
 円丘部に台形の造り出し部を付け加えた形で、帆立貝式古墳と呼ばれる形式である。墳丘の全長は22.5m、
円丘部の直径17.7m、造り出し部は幅8.7m、長さ4.8mである。
 周囲に幅4.5mの堀を持つ。
 主体部は、円丘部中央と北側裾部の二か所で発見されており、後者は埴輪列を壊して造られている。
 墳丘部から円筒、朝顔形円筒、家形、器財、人物、馬の計304点の埴輪が出土している。これらの埴輪は、
その優れた造形を、埴輪祭式の様子をリアルに再現することが可能なことから、昭和60年に一括して国の重
要文化財に指定された。
 築造時期は、6世紀前半と推定される。
                                      平成27年3月25日 
                                      太田市教育委員会
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『国指定重要文化財「上野塚廻り古墳群出土埴輪」(模造)』説明板
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国指定重要文化財「上野塚廻り古墳群出土埴輪」(模造)
 この塚廻り古墳群第4号古墳に並べられている模造埴輪類は、発掘調査によって明らかにされた埴輪類を
忠実に復元製作し、出土状態からその配置を復元したものである。
 墳丘部には、円筒埴輪、盾形埴輪、家形埴輪、大刀などが配置されていた。
 造り出し部には、円筒埴輪のほか、人物埴輪や馬形埴輪が配置されていた。西端には4体の女子像が配置
され、その東部には椅子に座った男子、跪く男子などの7体の男子像が配置され、その北部には飾り馬と馬
子が配置されていた。
 このような埴輪の配列から、椅子に座った男子を中心人物として、首長権が継承される儀式を再現したの
ではないかと推察できる。
 各々の埴輪のつくりは表現も豊かで、造形的にも非常に優れており、この4号古墳出土の埴輪類を含め「上
野塚廻り古墳群出土埴輪 一括」として、昭和60年6月に国の重要文化財に指定された。現在、埴輪の現物は
群馬県立歴史博物館に保管されている。
   平成27年3月25日 
                                     太田市教育委員会
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上掲説明板にある「第4号古墳の埴輪配列」図




左側が「円丘部」  右側が「造り出し部」
高さを伴わない平面形で復元されているため離れたところから見ると墳形を確認しづらい?




台形の造り出し部に並んでいる埴輪




「円丘部」 周囲に円筒埴輪が並んでいます




「復元(模造)埴輪」 1




「復元(模造)埴輪」 2

散策日:令和3年(2021)5月24日(月)

パネル展 埼玉の城を知る 第1回 埼玉県の戦国城郭と桶川の館城跡

2021年06月25日 | 企画展・見学会




今朝の新聞に上掲の記事が載っていました。本日は特別の予定もなかったことから、早速、桶川市
の「おけがわマイン」の会場まで行ってきました。

展示は、城郭の写真 縄張図 解説文のパネルが一組になっていました(すべてではありませんが)

この第1回で展示されたのは
 『加納城』  桶川市
 『腰越城』  小川町
 『小倉城』  ときがわ町
 『大築城』  ときがわ町
 『日尾城』  小鹿野町
 『金鑚御嶽城』神川町
 『花園城』  寄居町
 『三山下郷向山砦』と『合角城郭遺跡」 小鹿野町
等々でした。
 このうち半数ほどは攻城済ですが、神川、小鹿野方面が未攻城です。

第1回のチラシに使われている城は、左:『腰越城』 右:『加納城』




この後、同市川田谷地内にある「桶川市歴史民俗資料館」に寄って、「新指定文化財展」と常設
展示を見て来ました。

見学日:令和3年(2021)6月25日(金)

女体山古墳(群馬県太田市)

2021年06月24日 | 古墳


名 称:女体山古墳(にょたいさんこふん)
別 称:-
墳 形:帆立貝形古墳(造出付き円墳)  
規 模:墳丘長106m、円丘部84m、高さ7m、造り出し部幅18m、長さ16m
築 造:5世紀前半頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:国指定史跡(名称:女体山古墳 昭和2年〔1927〕4月8日指定)
所在地:群馬県太田市内ケ島町1506ほか(旧太田市)

女体山古墳は、天神山古墳の東の平坦地に造られた帆立貝形古墳で、帆立貝形古墳では全国第3位・関東
地方第1位の規模を持っています。 天神山古墳と女体山古墳は、ほぼ同一時期に同一方向を向いて造ら
れていることから、2つの古墳に埋葬された人物には、密接な関連があると考えられています。




女体山古墳墳丘南側に設けられている「造り出し部」




「造り出し部」に建てられている【史跡 女体山古墳】石標 「史跡 女体山古墳」説明板




【史跡 女体山古墳】石標




「史跡 女体山古墳」説明板から説明文を




「史跡 女体山古墳」説明板から測量図を




女体山古墳部分をアップで




白線で囲った部分が「造り出し部」




「造り出し部」左側(西側)部分周堀




「造り出し部」右側(東側)部分周堀




造り出し部側から見た墳丘




墳頂に鎮座する石祠




墳頂部を北西側から




墳丘北側




墳丘西側の周堀




北側道路からみた女体山古墳の北面




北方からみた女体山古墳の北東側




東方から見た女体山古墳東面ほぼ全体を  左端に造り出し部




東方から見た女体山古墳東面  左端に造り出し部




南東方向から  正面に「天神山古墳」 右に「女体山古墳」
左のセブンイレブンのある場所に「目塚1号墳」があったと思われます

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)・24日(月)

太田 天神山古墳(群馬県太田市)

2021年06月23日 | 古墳


名 称:太田 天神山古墳(おおた てんじんやまこふん)
別 祥:男体山古墳(なんたいさんこふん)
墳 形:前方後円墳 二重の周堀が巡り 陪塚が付属
規 模:墳丘長210m 高さ16.5m
築 造:5世紀中期頃
出土品:円筒埴輪、形象埴輪
指 定:国指定史跡(名称:天神山古墳 昭和16年〔1941〕1月27日指定)
所在地:群馬県太田市内ケ島町1606ほか(旧太田市)

東日本では最大、全国でも30位以内に入る規模の前方後円墳古墳である太田市の「天神山古墳」(別称:
男体山古墳)を散策して来ました。東日本では墳丘長が200メートルを超す唯一の古墳として知られるよう
です。




くびれ部に鎮座する天満宮の鳥居脇に設置されている「史跡 天神山古墳」説明板




「史跡 天神山古墳」説明文




測量図




墳丘全体




「前方部」を南方から




「前方部」を西方から  写真左側方向が後円部




後円部方向を西方から




後円部を北西方向から  内堀跡の上を道路が走っている(真っ直ぐな道にするために潰した?)




道路によって寸断された内堀
手前の道路が中堤帯跡の道路で内堀に沿ってじ湾曲しています




後円部を正面にして




後円部を東方から




中央に見えるのがくびれ部に設置されている「史跡 天神山古墳」説明板




後円部北側(道路際)




【史蹟 天神山古墳】標柱




表中の脇から後円部墳丘に向います




墳頂に近づくと葺石が顕著に




後円部墳頂  三角点が埋められています




後円部方向から前方部方向に




前方部方向から後円部方向に




鞍部あたりから前方部墳丘を




くびれ部東側に建つ天神社の鳥居と天神山古墳説明板




天神社までは階段が設けられています




天神社 この建物は覆屋で中に天神さまが祀られています(筈)
この写真ではちょっと分りませんが格子戸の上の額には 「目塚 天満宮」と揮毫されています
古墳名はこの天神社(天満宮)が元となっているようです




天神社の脇から鳥居方向を





「A陪塚」  住宅の裏手にありました
立ち入り禁止の立て札が立っていましたのでこれから先には行けずにこの写真だけです




女体山古墳の前から天神山古墳を

天神山古墳は東日本最大の前方後円墳と言われるだけあってほんとに大きくどこをどうやって撮ったらい
いのか迷いながら撮って来た中から何枚かを載せてみました。

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)・24日(月)

太田道真退隠地(埼玉県越生町)

2021年06月22日 | 史跡・遺跡・文化財


名 称:太田道真退隠地( おおたどうしんたいいんち)
別 称:自得軒跡、太田道真館跡
種 別:居館跡
時 代:戦国時代前期
指 定:埼玉県指定旧跡(名称:太田道真退隠地 昭和36年〔1961〕9月1日指定)
所在地:埼玉県入間郡越生町小杉字陣屋641 建康寺

中世関東の名将太田道灌の父である太田道真(資清)の退隠後の居館である「自得軒」は越生町小杉の
健康寺の傍らと推定されているようです。
そんな自得軒跡(太田道真退隠地)を訪ねてみました。
この写真の地蔵がある背後が自得軒跡のようです。




健康寺への参道




健康寺境内の隅に建立されている『太田道真退隠之地』碑




境内に建てられている「健康寺」説明板
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   健康寺
                                     越生町小杉
 関東管領上杉家一族の扇谷上杉家の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、
岩付城、河越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒跡と推定され、「太
田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
 文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九を伴って道真のもとを訪れた。万里の詩文集『梅花無尽蔵』には、その折
に詠じた次の七言絶句が収められている。
    稀郭公(ほととぎす稀なり)
  縦有千声尚会稀(縦へ千声ありと云えども尚会うは稀なり)
  況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
  誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
  細雨山中聴未帰(細雨山中に聴きて未だ帰らず)
 翌7月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。
道真は道灌の菩提を弔い、越生山建康寺を開いたという。
 門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堰と導水路の跡が造る水車「才車」の
「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
  令和2年4月30日
                                      越生町教育委員会

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無住のお寺です。曹洞宗寺院の建康寺は、越生山と号します。
堂宇の前のテーブルには、越生町に所縁のある太田道灌を大河ドラマ実現に向けて他の所縁ある自治体と
ともに署名運動を行っており、その署名用紙が置かれています。




『道灌橋』 この対岸に馬場があったと伝わるようです

散策日:令和3年(2021)5月22日(土)

浄恩寺の芭蕉句碑(埼玉県寄居町)

2021年06月21日 | 歌碑・句碑


 句 : 古池や 蛙飛びこむ 水の音
     (ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)

出 典: 『蛙合』  貞亨3年(1686) 芭蕉43歳の時の句
所在地:埼玉県大里郡寄居町保田原 浄恩寺
建立年:不明
建立者:不明

この句碑は割れた状態で建物の壁に立て掛けてありました。
庭の手入れをしていた住職の奥さんにお聞きしたところ、「46年前にここに来たらあったもので、
誰がいつ建てたかは分りません」とのお話でした。




【浄恩寺】 浄土宗のお寺さんで池野山観音院浄恩寺と号します




丸印のところに句碑は立て掛けられています

散策日:令和3年(2021)5月20日(木)